1章 闇は嘆き訪れる 1
ヴァシル・ガルグ。この世界では、三つの子供でさえ、その名を知らない者はいない。
創世の神話において世界を滅ぼそうとした破壊者アルスが生み出した36人の使徒。ガルグの一族と呼ばれる、その人ならざる者たちの筆頭がヴァシルであった。
アルスは女神シーヴァネアに封じられた。しかしガルグは生き延び、主君であるアルス復活を目論んで闇に潜伏した。ガルグは数千年かけて世界の裏を支配した。多くの者は気づいてはいない。神話は遠い過去の物語ではなく、今も身近に迫る現実だ。
ただし、伝承では異形の化け物として描かれることの多いガルグ一族が、実際どのような姿なのか知る者はほとんどいない。
男はその日、ガルグの本当の姿を知る数少ない人間となった。
男は、慄いた。出入り口もない密閉された部屋で、微かな光球が天井から部屋を照らしていた。そこで初めて目の当たりにした一族の長ヴァシル・ガルグの姿は、伝えられるような黒い闇の塊ではなく、同性でも見惚れるほどの美丈夫だった。身なりは裕福な商人とでも言うように黒い長衣を纏い、長い黒髪をゆるく編み、さりげなく高価な宝飾品を身につけていた。背はすらりと高く、この部屋では違和感しかないベルベット張りの椅子に腰掛け、長い足を組む仕草はさながら王侯貴族かと思えるほど優雅ですらあった。
人間となんら変わることがない。むしろ人間よりも人間になりきっていた。だというのに、薄暗い灯火の下でもはっきりとわかる、冷ややかな真紅の瞳だけが異質だった。
ヴァシルは男を見下ろし、蠱惑的な笑みを浮かべた。虹彩が獣のように縦に長く細められる。
男はそれを美しいと思いながら、同時に背筋に寒気を覚えた。飢えた肉食獣の前に引き出されたような。むしろその方がマシだとさえ思えるほど。
「さて、どうしたものでしょうね」
男は息を飲んだ。ヴァシルの指先が、コツコツと椅子の肘掛を叩く。
男は逃れようと足掻いた。しかし両手足は床に打ち付けられたようにびくりとも動かない。不意に男の影が横に広がった。天井を見上げたが光の明るさは変わっていない。もう一度視線を影に落とすと、影が自ら意思を持つ生き物のように形を持って、両手足に絡みついた。
男は震えた。
ヴァシルがゆっくりと口の端を釣り上げる。
次の瞬間、ばきりと影の中で何かが折れた。男は絶叫した。激痛に身悶え、身動きを封じられた中でものたうち回る。影が指の隙間に入り込み、男の指を端から逆に折り曲げていた。あぶら汗が流れ落ちた。
喉を震わせる笑い声が空間に響いた。ヴァシルの蔑み、嘲笑うような視線が男に向けられていた。
「拷問でも、する、つもりか」
男は歯噛みし、問いかけた。
しかし返答の代わりに、もう一度、ばきりと音がした。続けざまに影に埋もれた指が折られていく。男は歯を食いしばって激痛に耐えた。返答は無くともこれが拷問でないとすればなんだと言うのか。これ以上無様に悲鳴などあげるわけにはいかなかった。助命の嘆願などをすれば相手の思う壺。
「ああ、良い音ですねぇ。貴方はどこまで耐えてくれますか?」
喉を震わせてヴァシルが笑う。
男は困惑した。痛みや恐怖と引き換えに何かを問うわけでもない。ただ純粋に、ヴァシルは男が苦痛に耐える様を見て愉しんでいるように見えた。
小指、薬指、中指、人差し指、親指。右手が終われば左手。その次は足。執拗に与えられる激痛に息が上がり、思考は麻痺していく。身を起こしていることが出来ず、這い蹲らされる。
「何が、目的だ? メルディエル隠密の、拠点か? 目的か?」
「無粋な問いですね」
首を傾げ、あきれたようにヴァシルがため息をついた。ますます、男は困惑した。男はガルグ最大の敵、メルディエル女王国の隠密だった。
男はガルグの一族が近隣に現れるという情報をつかみ、潜伏していたのだ。まさか現れたのがガルグの長その人だとは、誰も思っていなかった。撤退するべきだった。しかし若い部下の一人が功に焦って窮地に陥り、逃がすために男が逆に捕まった。殺されるだけならまだいい。熾烈な拷問にかけられることになるだろうということは、覚悟はしていた。ガルグが欲する情報はいくらでも引き出すことができるはずだ。当然男も、拷問に耐える訓練は受けてきた。
だというのに、目の前の相手は問いかけることもなく、情報をちらつかせてみても呆れるだけ。一体何が目的なのかがわからない。
不敵な笑みに、恐怖がこみ上げる。
「我々が人間風情から情報を得る必要など、どこにあるというのです? 何もかもが無駄な行為ですよ。貴方は私を愉しませてくれればそれでいい。無様に命乞いなどせず、苦しみに耐えて耐えて耐え抜いて、私を憎み、呪えばいい。そして無念を抱いて死んでください。そんな剛毅な人間の最期を、私の手の内で見届けるのが、何より楽しみなのですから」
にこりと微笑むヴァシルの姿に、男の全身から血の気が引いた。これは人間とは根本的に違う生き物なのだと思い知らされた。
ヴァシルは言葉の通り、男を死ぬまでいたぶり尽くして、楽しもうとしている。さながら、虫を弄んで殺してしまう、子供のような残酷さで。
ばきりと、足の指が折れた。
男は叫んだ。
「ああっ! 痛い。やめろ、やめてくれ」
人を人と思わず弄ぶだけのヴァシルに、男の忍耐は擦り切れ、消し飛んでしまった。無様だとか、忠義だとか、そんなものはもはやどうでもいい。このまま苦痛に耐えていても名誉の死など訪れない。ただ無残に弄ばれ、打ち捨てられる。
「なんでも言う。なんでも吐くからやめてくれ! 俺たちの拠点は……!」
「見苦しいことはおやめなさい。つまらないではないですか」
影が口の中に押しこめられた。男は声も出せずに泣き叫んだ。足の指が次々と折られていく。全ての指が折られると、影は一回り大きく広がり、男の腕や脚を飲み込んだ。とたんに足や腕がきしみ始めた。
男は絶叫し、のたうち回った。だが、闇は、苦痛はとまらない。ますます影は大きく広がり、男の体ごと飲み込んでしまう。
「嫌だ、助けてくれ……!」
首から下が締め付けられる。体があり得ない方に曲がっていく。
涙も涎も鼻水も小便も、ありとあらゆる体液を垂れ流して、男はヴァシルに懇願した。
すっと、ヴァシルは優雅に立ち上がった。
「ああ、興ざめです。また大した人間ではなかったようだ」
至極つまらなそうに、ヴァシルはつぶやいた。もうヴァシルの視界に男の姿は映ってすらいなかった。
男の視界は影に覆いつくされた。骨が砕け、肉がつぶれ、引きつり痙攣する。ぐるりと男の目が反転した。
その瞬間、男の頭は闇の中で熟れたトマトのようにひしゃげて潰れた。