たんぽぽおぢさんだよぉ
気をつけた方がいい。そいつはどこにでも現れる。
そう。
たんぽぽおぢさんだよぉー
春過ぎて、夏来にけらし……なんだっけ。
今日聞いたばかりの和歌を口ずさもうとして、やめた。春らしい陽気な日差しは、どうやら僕の頭の中までホカホカにしてしまったようだ。
ほら。スマホを充電器に繋げてゲームしたら、熱くなりすぎてバグるだろ。あれと同じだよ。
わざわざ荒っぽい石くれをばらまいてある駐車場の脇を通り抜けるとき、遊んでいた何人かの小学生が歓声を上げた。
「見て、たんぽぽ!」
「えー、まだつぼみじゃん」
「ねーねー知ってる? 親指でね、たんぽぽのつぼみをピンってやったら飛ぶんだよ!」
ぴんっと弾き飛ばされた、指先ほどの小さな緑色は僕の足元をコロコロと転がり、車道に落ちた。瞬時にタイヤに引き潰され、血のように黄色がざりりと広がる。
花びらといえば美しく、儚いイメージだ。
瑞々しく、張りがある。
故に、潰すと汁っぽくて生々しい。
僕は、生の生き物の水っぽさが嫌いだ。
コンビニの店員が、外に出て、ゴミ袋を取り替える。風に煽られた袋がばさばさと大げさな音を鳴らす。
なんというか。まあ、頑張ってくれ。
強風の中お疲れさん、と心の中で呟いた。
風が空気をかき回しているからだろうか。午前から照りつけていた太陽が、ひときわ強くなったように感じられた。
額に手を当てて、空を見上げる。
燦燦と降り注ぐ日差しが、僕の学生服を炙った。どうして、こんなに日差しが強くなったんだろう。
コンビニ店員のお姉さんが、ぽつりと言った。
「あ、お花咲いてる」
と。
そのお姉さんの方を見て。
そして、正面を向いた。その眼前に、トレンチコートを着た、中年の肥満体型の男性が立っていた。
いつの間に。
ぞくり、と体が縮こまった。
いや、まあ。気づいてなかっただけだ。別に、この時期トレンチコート着てても、すっごく変って訳じゃない。
男性が、ゆっくりと口を開いた。
「ぼくぅ、暑くないのかな?」
学生服の上着のことだろうか。
「まぁ、多少は。でも、朝は涼しかったので」
「ちゃんと脱がなきゃダメだよぉ。いいかい?」
男性は、下卑た笑みを浮かべながら、僕に一歩にじり寄った。
「体温が上がると、精巣の機能が落ちるんだよぉ。それじゃあおぢさん、困っちゃうよおぉ?」
どっと汗が噴き出す。頭の底からガンガンと警鐘が鳴る。
絶対、こいつ、不審者だ!
「……なんだよ、気持ち悪い。通報すんぞ」
「通報、ね。知ってるかい? おぢさんはね」
トレンチコートの前が開け放たれた。
実に、精巣の機能が守られた、涼し気な姿が晒される。
「たんぽぽおぢさんだよぉ」
ぶるるんと躍動する肉体が、目の前に広がる。僕は踵を返して、全力で逃げた。近場のコンビニに飛び込み、警察を呼んでもらう。すぐに駆けつけた、近所の交番のお巡りさん三人に事情を説明すると、二人が近隣の捜索に出て、一人が僕の家まで送ってくれた。
玄関に入り、後ろ手で鍵を閉めた。そこで気づく。
――玄関に、たんぽぽの絵が飾ってある。
ぎぎぎ、と勝手に、下駄箱のドアが開き出した。
心臓が早鐘を打つ。血が抜けてフラフラになった頭が出した、咄嗟の判断に従った。
思いっきり、下駄箱のドアを蹴りつける。バンっと派手な音と共に、下駄箱が閉まった。その、押し返した感触と共に。
ずるん。
と、天井の換気扇の、細い穴から、たんぽぽおぢさんが落ちてきた。地面にカエルのように這いつくばって、ニタリと唇の端を釣り上げた。
「なんで、って顔してるねぇ? なんで家の中にいるのーーって顔してるねぇ? それはねぇぇー」
「たんぽぽおぢさんだからだよぉー」
間近で見てしまったが故に。弛んだ脂肪の塊と、もじゃもじゃに絡み合う腹毛は、僕に多大な衝撃を与えた。
抵抗する間もなく押し倒された僕の頬に、ぴちゃりとヨダレが落ちた。
気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
「誰か、誰か助けて――!」
悲鳴が広がり、空しく、散っていく。
たんぽぽおぢさんの顔が近づいてきて。両目が、一つにくっついて見えるくらいまで近づき、言われた。
「たんぽぽおぢさんだよぉ」
乾いた唇同士が、かさかさと擦れた。
ひどく気持ち悪いと思った。
そうして、僕の全身に脂汗を塗りつけ、たんぽぽおぢさんは忽然と姿を消した。
それからも度々目撃例が上がっている。
たんぽぽが咲いている間。どこにでも、何度でも、見境なく男を襲っているらしい。
ほら、あなたの足元にも、一輪のたんぽぽが。
たんぽぽおぢさんだよぉ