May.9 『伝説の黄金菓子、パンドウス』
陶器市に行った翌日、café 小夜時雨に向かう。
マンションを出て、駅まで歩き、正覚寺行きの路面電車に乗り、途中で乗り換える。
窓の外では、しとしとと雨が降っていた。昨日は気持ちの良い晴天だったのに、今日はこのありさまだ。
雨だけでも憂鬱なのに、夜のオランダ坂は微妙に不気味なのだ。
古い洋館が街灯に照らされ、お化け屋敷のように見える時もある。雨が降っていれば、存在感を増していた。
なので、お店に辿り着けば、余計にホッとしてしまうのだ。
街中にポツリとある路面電車の駅に降りれば、見慣れた人物が。
黒いジャケットに黒いズボン。靴まで黒と、見事な全身黒尽くめの男性の姿は、知り合いでなかったら見なかった振りをするだろう。
向かう先は同じなので、声をかけてみる。
「――オーナー、どうしたんですか?」
声をかければ、こちらに気付いて近づいて来る。
買い物か何かだったのかと聞けば、一瞬間を置いてから、そうだという返事が返ってきた。
袋も何も持ってないので、今からかと聞けば、首を横に振る。
買った品物はどこへ行ったのか。
まあ、タバコとか、ガムとか、駄菓子とか買ってポケットにねじ込んでいる可能性もあったけれど。
腕を組み、壁に背を預けていたので、誰かを待っていたようにも見えた。
もしかして、迎えに来てくれたのかなと、図々しいながらも思ってしまったが、口に出さないでおいた。
オーナーは何故か私の手元をじっと見て、質問してくる。
「……荷物多くないか?」
「待ち時間に課題をしようかなと思いまして」
ゴールデンウイーク期間中だけれど、今日もお客さんはあまり来ないことが予測されていた。なので、時間は有効に使おうと思い、勉強道具を持って来ていたのだ。
参考書が入ったずっしりと重い鞄を、オーナーが何も言わずに掴んで持ってくれる。
「あ、ありがとうございます」
なんだか悪く思い、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
自分で持てると言ったら、「店に行くまで、足手まといになったら面倒になる」と言っていた。
せっかくなので、お言葉に甘えさせて頂く。
◇◇◇
店に辿り着けば、黒いワンピースにエプロンを身に付けて、清掃を開始する。
時刻は夕方の六時過ぎ。外は暗くなりつつある。
窓から外を覗き込めば、さきほどまでちらほらとあった観光客の気配はまったくなくなっていた。
やはり、ゴールデンウイーク期間中とはいえ、今日も集客は見込めないようだ。
掃除を終え、休憩所に行けば、オーナーが筆を持っているところだった。
どうやら今からメニューを書くらしい。
習字の先生らしく、筆ペンではなくて習字セットを広げて書こうとしていた。
アンティーク調の机に新聞を広げ、その上に布を敷き、半紙を文鎮で止める。
真剣な眼差しを、半紙に向けていた。
なんというか、イケメンが習字をする姿は絵になる。
これを写真に撮って、観光雑誌に掲載すればお客さんが増えるのではと思った。
オーナーは嫌がりそうだけど。
「……っていうか、まだ書いていなかったのですね」
「どうせ客は来ない」
「まだ分かりませんって」
そんなことを話しつつも、本日のお菓子が気になるので、覗き込んでみる。
書かれた文字は、本日のお品目――
「……パンドウス?」
これまた聞き慣れない名前のお菓子だと思った。
「ポルトガル語で『甘い食べ物』という。パンは日本のパンの語源でもある」
「へえ~」
元々、パンというのはポルトガル語で食料を意味するものらしい。今度、きちんと調べてみようと思う。
オーナーが棚の中から布の被さったお皿を持って来る。
取り払われた布の下にあったのは、グラニュー糖がまぶしてある黄色い焼き菓子に見えた。
「初めて見るお菓子です」
「そうだな。長崎でも、この辺りの人は馴染が薄いだろう」
なんでも、パンドウスはこの辺りでは販売をしていないらしい。
長崎県の北西部にある、平戸市という地域に伝わる南蛮菓子だとか。
「お取り寄せしたのですか?」
「いや、ここで出す菓子は知り合いの菓子職人に発注をかけて、特別に作ってもらっている」
「へえ、そうなんですね」
五三焼きにシースケーキ、よりよりと、お菓子はどれも美味しかった。
是非ともお店を紹介して頂きたいものだと思う。
それはさておき、パンドウスの話に戻った。
「パンドウスは安土桃山時代にポルトガルから伝わったもので――」
意外と古い歴史があるようだ。
その昔、砂糖は贅沢品をされていた。そんな中で異国の地より伝わった南蛮菓子、パンドウスは、門外不出の幻のお菓子と呼ばれていたとか。
「これはカステラを使って作られる」
「おお!」
製法は、カステラを卵黄にくぐらせ、糖蜜の中で煮込み、最後にグラニュー糖をまぶす。
「ガチの甘いお菓子なんですね」
「そうだな」
味見するように言われたので、いただくことにした。
小さな短冊状にカットされたパンドウスを半分に割れば、パラパラとグラニュー糖が落ちた。中は柔らか。卵黄は中まで染み込んでいないようだった。
さっそく、五百年もの歴史のあるお菓子を、食べてみることに。
「――あ!」
グラニュー糖のザクザクとした食感と、しっとりとした生地は優しい卵の風味があってとても美味しい。――けれど、甘い! とにかく甘い!
製法を聞いていたら甘いのは分かっていたけれど、想像以上の甘さだった。
「渋い飲み物と合わせればちょうど良くなる」
「な、なるほど!」
そこで、オーナーはパンドウスと書かれた文字の横に、本日の飲み物を書いた。
それは――抹茶。
「まさかの!」
「覚悟はしていただろう?」
「……いや、もっと先だとばかり」
Café 小夜時雨のお抹茶担当である私は、突然の大抜擢に額に汗を浮かべる。
陶器市の時、オーナーは茶器をいくつか買っていたのだ。
近日中に抹茶を入れるよう、指示が来るぞと考えていたが、まさか翌日に言われるとは。
実を言えば、受験中だったので、一年以上抹茶を点てていない。茶道教室も高校二年までと決めていたのだ。
オーナーは習字道具を退かし、茶道の道具を持って来てくれる。
ありがたいことに、何から何まで用意をしてくれた。
まあ、茶室で点てるわけではないので、礼儀などは気にしなくても良さそうだ。まあ、なんとかなるだろう。
まずは湯で茶器を温める。それと同時に、別の椀に湯を注ぎ、ちょうどいい温度になるまでまった。
匙で抹茶を掬い、茶碗に入れる。次に、湯を注いだ。
混ぜ方は山を二つ描くように。素早く丁寧に練る。
「粗茶ですが」
「これは濃茶だ」
「ですよね!」
抹茶には濃茶と薄茶の二種類があり、濃茶には良い茶葉が使われているので、当然ながら値段が張る。
なんとなくお約束みたいな感じになっていたので、ついつい言ってしまった。
薄茶に比べて濃茶はどろりとしており、味も渋い。
これならば、パンドウスに合いそうだと思った。
練った濃茶を差し出した。オーナーはお椀を受け取り、一口飲む。
眉間に皺を寄せていたので、恐る恐る感想を聞いてみた。
「……お、お服加減はいかがでしょうか?」
「これが、結構なお服加減に見えるか?」
「いいえ、まったく」
粉っぽいと突き返されてしまった。
ここから、私とオーナーの抹茶修業が始まった。
納得がいく味になるまで、何度も練るように命じられる。
「――不味い!!」
「はい、もう一杯ですね……」
茶道教室の先生より厳しいと思った。
というか、オーナーは茶道の作法などに詳しいようにも思える。もしかしたら、お抹茶を点てることが出来るのではと思ったので聞いてみた。
「点てることが出来れば、お前に頼んでいない。たまに、知り合いの茶会に呼ばれることがあっただけだ」
「な、なるほど!」
結局、雨が止むまで抹茶を何度も淹れることになった。