May.7 『中国茶と、唐あくちまき』
本日の夜も雨。
私は午後から授業がなく、家に帰っていた。
お風呂に入って早めに寝ようと思っていたところに、突然雨が降り出したので、慌ててcafé 小夜時雨に向かう。
この仕事、地味に条件が厳しいと思ったけれど、最近雨が降らなかったので、恵みの雨とも言えるかもしれない。
もう一つバイトを増やそうかなとも考えたけれど、小夜時雨での仕事が不定期なので、両立は難しいかなと思ったりもしている。
でもまあ、じっくり勉強をする時間もあるし、大学生活一年目はのんびりやっていくのもいいかなとも考えていた。
マンションから路面電車に乗り、市民病院前で降りて、雨が叩き付けるオランダ坂の石畳みを上って行く。
ぼんやりと灯りが点くcafé 小夜時雨を見ると少しだけホッとする。理由はここまで来て閉店!? なのか、それともやった! お金稼げる、なのか、自分でもよく分からない。
イケメンなオーナーに会える! ではないことは確か。多分。
裏口より中に入る。
出入り口に置かれたマットの上で、服についた水分をハンカチで拭っていれば、部屋の奥から向井オーナーが現われた。
「あ、オーナー! お久しぶり、ですね」
「……ああ」
ぶっきらぼうな感じで返事をする、一週間ぶりなオーナー。愛想のない様子はいつもの通り。こちらが微笑みかければつられて笑ってくれないかと思って実行したけれど、眉間に皺が寄るだけだった。どうしてそうなると指摘したくなったのを、必死に抑えることになる。
お客様が居ないのも、相変わらずな模様。
すでにお店は開いている状態だけれど、本日のミーティングを始める。
ここでお菓子や飲み物の説明を聞いておくのだ。
今日のメニューだと言って机の上に置かれていたのは、丸くてスライスされたお餅のようなもの。
「こちらは――?」
「唐あくちまきだ」
「ちまき、ですか」
お餅ではなかった。ちまきとな。
唐あくちまきとは、五月の端午の節句に食べられている、長崎県の伝統的なお菓子。
唐あくは炭酸ナトリウム、炭酸カリウムを混ぜて作った薬品で、生地に弾力と独特な風味を付けるもの。それを水に溶いたものにモチ米を浸し、布や竹の葉などに包んで煮込めば完成するお菓子だとか。
かの有名な、ちゃんぽんの麵にも使われているとのこと。ラーメンの麺を作る時に使うかん水と似たようなものだけど、薬品の配合が違うとオーナーは話す。
そんな長崎独自の唐あくを使ったちまきは、中国から伝わったもので、その昔は塩湖から湧き出た天然塩を水に溶かしたもので作っていたらしい。
話を聞いたら「美味しいの、それ?」と聞きたくなったが、オーナーが黄土色の唐あくちまきにきな粉をかけ、上から黒蜜を垂らせば、魅惑的なスイーツに見えてしまった。ちなみに、砂糖は不使用とのこと。素材の味を楽しむお菓子らしい。
「これで食べやすくなるだろう」
「なるほど!」
ちなみに、唐あくには胃の中で油を中和させる効果があるとか。中華料理のデザートや飲み会の〆にぴったりな一品だと思った。
ケトルで湯を沸かし、オーナーに習った中国茶を淹れる。
茶器は日本の物と大きく異なり、淹れるまでに結構な手間がかかる。
まずは湧いた湯を注いで茶壺を温め、そのお湯を茶海や茶杯、聞香杯と呼ばれる器へと移して温めておく。
茶壺を桶の中に置き、適量の茶葉を入れ、勢いよくお湯を注ぐ。表面に灰汁のような泡が浮かぶので、和菓子を食べる串のようなものでサッと取り除いた。
蓋をすればお茶が溢れてくるけれど、桶の中に置いているので問題なし。
その後、茶壺にドバドバと湯をかける。
茶葉の成分が抽出されたら、器の中のお湯を桶に捨てて、茶海と呼ばれる器に茶壺の中のお茶を注ぐ。
茶海のお茶は聞香杯という細長い器に注ぎ入れ、上に蓋をするように茶杯を重ねた。
ここからが緊張の瞬間。
重ねた聞香杯と茶杯を上下にひっくり返さなければならないのだ。勇気を出し、えいやっと器を逆転させる。
ひっくり返しても、お茶は零れてこない。最初にやれと言われた時は、本当にドキドキした。
これにて、中国茶の準備は完了。
オーナーの前にお茶を差し出す。
「粗茶ですが」
「これは宮廷プーアル茶と呼ばれる品だ」
「おっと、失礼しました。粗茶じゃないですね」
プーアル茶、暗褐色が特徴で、黒茶の一種とされる。
中国茶には様々な種類の茶葉があり、炒って作る緑茶、日光にさらして作る白茶、烏龍茶でおなじみの半発酵して作る青茶、しっかり発酵させる紅茶に、細菌による発酵で作られる黄茶、酸化発酵と細菌発酵で作られる黒茶などがある。
さっそく、温かいうちに宮廷プーアル茶とやらを堪能させて頂く。
まずは、蓋のようになっている聞香杯を手に取った。
中国茶はお茶の香りを楽しむことから始める。専門用語的には、香りを聞くと言うらしい。
聞香杯を鼻先に近づけ、器は開いている手で隠し、お茶の爽やかな香りをめいっぱい吸い込んだ。至福の時である。
そして、プーアル茶を一口。苦味や渋みは少なく、驚くほどまろやかで、飲みやすい。これが、宮廷人の愛したの味なのかと感動を覚える。
そして、お茶の風味が残っているうちに、唐あくちまきを一口。
「これは……えっと、はい」
どういう風に表現をすればいいのか。ちょっと癖があるというか、なんというか。甘味の中に苦味と独特な香りもあって、う~~ん。
「なんでしょう。個性あふれる味と言いますか……」
「無理するな。これは食べ慣れていないと厳しいかもしれない」
オーナーは好物らしく、あっという間に三切れ食べていた。
私も食べているうちに、もちもちの触感と独特な風味が癖になっているような? もうちょっと食べたらハマるような気がしてならない、不思議な食べ物だった。
残っていたプーアル茶を飲み干す。
最後に器を眺め、ほうとため息。
「それにしても、ここで使われる器、素敵な品ばかりですね」
赤、黄、緑で花模様などが描かれ、異国文化がちりばめられた器はどれも繊細で美しい。
「そういえば、今って陶器市の季節ですよね? 眺めていたら、私も欲しくなります」
家にある食器類は割れ物なので、引っ越しの時は持ってこなかった。
現地調達すればいいと思い、百均で適当に見繕った物を使っている。
せっかく焼き物で有名な地に居るので、良い品を買ってみたいなとも考えていた。
「このカップなんか、特に素敵ですよね~」
「お目が高いな」
「?」
「それは鍋島焼だ」
「なべしまやき?」
焼き物と言えば有田焼しか知らない。他にもいろいろあるのかと聞けば、そうだとオーナーは答える。
「鍋島焼はかつて朝廷や将軍家に献上をしていた品で、最高級の磁器とも言われている」
「!?」
私は手にしていたカップを、そっと丁寧に机の上に置いた。
店の食器にどの程度鍋島焼が含まれるのかと聞けば、ほとんどがそうだと答えるオーナー。なんでも、窯元から直接買い付けた品々らしい。知らなかった。食器を洗う時に、手が震えそうだなと思う。
「私には、手の届かない品ですね」
「手頃な値段の陶器が欲しいのならば、波佐見の方に行けばいい。有田は人が多い」
「波佐見、ですか」
「ああ。長崎の波佐見町で行われる陶器市なんだが」
長崎にも波佐見焼というものがあるとか。知らなかった。
波佐見焼は大衆向けの食器として特化し、一気に広まったらしい。お値段も安めで、庶民に優しいとのこと。
「良いですね、行ってみたいです!」
「若い人はほとんど居ないが」
「あ、そうなんですね」
ちょっぴり嫌な予感がする。これも卓袱料理に続き、友達を誘っても来てくれなさそうな気がした。
眉間に皺を寄せ、渋面を浮かべていると、オーナーが思いがけない提案をしてくれる。
「……連れて行ってやろうか?」
「ほ、本当ですか!?」
「まあ、連休は手が空いている日も、あることにはあるし」
「うわ、ありがとうございます! 嬉しいです!」
一人で行くのもなんだか寂しいなと思っていたところに、まさかのお誘いが!
その場で連れて行って下さいとお願いをする。
いつ行くかもその場で決まる。予定日は明後日となった。
「では、朝の八時くらいに長崎駅に集合にします?」
「電車で行くのか?」
「はい」
「車で行こうと思っていたんだが」
「混みそうじゃないですか?」
「まあ、確かに」
陶器市最寄りの駅からはバスで約三十分とそこそこ離れているけれど、自家用車で長時間渋滞にハマっているよりはいいだろうと思った。
「明後日、楽しみにしてますね!」
「過度な期待は禁物」
「了解です」
こうして、私とオーナーは陶器市に行くことになった。