january.30 『café 小夜時雨へようこそ!』
七瀬さんがはっきりと、オーナーのことを「東雲先生」と呼んだ。
どういうことなのだろうか? 頭の中の理解が追い付かない。
七瀬さんはしまった! という表情で私とオーナーを交互に見ていた。
「先生、すみません。お一人だとばかり……」
「酷い不注意だ」
「日高さん、小柄だから先生の背後にいたら、すっぽり隠れてしまうのですね」
オーナーは深い溜息を吐き、七瀬さんに座るように言う。
「――ずっと、黙っていたことがある」
そう言って、私にも座るようにとフロアにある椅子を指し示した。
斜め前には申し訳なさそうな顔で座る七瀬さん、目の前には渋面を浮かべるオーナーが座る中、驚きの事実が告げられる。
オーナーの職業は小説家で、東雲洋子という名で活動をしていると。
「……冗談ですよね?」
「本当だとしか言いようがない」
だって、信じられない。
小学生の頃からファンだった小説家の先生が、今目の前にいて、しかも、それがお付き合いをしている男性だったなんて。
そんな私に、オーナーは懐から四角い皮張りのケースを出すと、中に入っていた名刺を出し出した。
名刺には「作家 東雲洋子」と書かれている。そして、下部には以前見た、yohkoの名前が入ったメルアドが!
「ああ、作家名をアドレスに、していたのですね」
「そうだ」
「だから、言えなかったと」
「途中から隠すつもりはなかったが、お前はまったく気づかなかった」
七瀬さんも、オーナーは正真正銘、東雲洋子で間違いないと言う。
それらを知らされたら、信じるしかない。
謎が多い人だと思っていたけれど、まさか小説家だったなんて。
けれど、思い返せばヒントはいろんな場所に転がっていた。
本業用の名刺をくれなかったこと、出版者の編集さんである七瀬さんがcafé 小夜時雨に来ていたこと、資料用の割烹着に、崖や朝市の撮影、書道家にしては活動をしているところを見たことがなかったなどなど。
私はそれらの謎を、「オーナーは変わっているから」の一言で片付け、深く考えないようにしていたのだ。
「うっすら気付いているくらいには思っていたが」
「すみません、まったく気づいていませんでした」
「お前は探偵の助手にはなれない」
「おっしゃるとおりで」
鈍感にもほどがあると思った。
「でも、どうして書道家だと誤魔化したのですか?」
「ずっと読んでいた本の作者が女性ではなく、男だと知れば夢が壊れると思った」
「いやいや、そんなことは」
なぜ、女性の名で本を出すことになったのかと訊ねれば、意外な事実が発覚する。
「作風が女性受けしそうなので、男性名で出すよりは女性名で出した方がいいと、初代の編集が提案したから」
デビュー作は給食センターの栄養士さんの奮闘記。働く女性を魅力的に描いた物語だった。
当時高校生だったオーナーは、編集さんのアドバイスに従い、東雲洋子の名で本を出版することになったとか。
オーナーは原稿を取ってくると七瀬さんに言う。
取り残された私は呆然とすることになった。
「日高さん、ごめんなさいね。突然こんなこと言っても、信じられないのかもしれないけれど」
「ええ、びっくりと言いますか、いまだ半信半疑です」
「私も最初に会った時は驚いたんだけどね」
「七瀬さんも女性だと思っていたと?」
「ええ。東雲先生は出版社の親睦会にも出ないし、業界の中で男性だと知っているのはごく僅かなの」
「はあ、左様でございましたか」
本好きの七瀬さんであっても、東雲先生が男性であると文章からは見抜けなかったらしい。
話が途切れたところでオーナーが戻ってくる。
七瀬さんは両手で原稿を受け取り、日を改めて来ますと言って帰って行った。
二人きりとなり、なんとも言えない雰囲気となる。
「……やはり、ショックだったか」
「そんなことはないんですけれど、驚きの方が大きくって」
これは、時間をかけて受け入れていくしかないのだろうか。
まだ、大きな混乱のさなかにあった。
「まあ、それは俺も同じか」
「オーナーも、ですか?」
「偶然出会った女子大生が、長年応援してくれた読者だという偶然は、今でも信じがたい」
私の<乙女>という名前が珍しかったので、すぐに気付いたと言う。
「ずっと、お前からの手紙に励まされていた。だから、今度はこちらが助ける番だと思って――」
だから、オーナーはアルバイト探しに苦戦していた私を雇ってくれた。
明らかになる真実を前に、頭が下がる思いになる。
「手紙の内容からして、昭和時代を生きる文学少女みたいなのを想像していた」
「七三分けの三つ編み眼鏡ですか」
「ああ」
手紙から漂っていた私のイメージって一体……。
案外普通の女子大生だったので、オーナーも驚いたと言う。
「いまだに、手紙を送ってくれる<日高乙女>は別に存在するんじゃないかと思う時がある」
「日ごろから、東雲先生への尊敬と愛をリアルタイムに主張しておりましたが」
「分かっていたが、長年のイメージはなかなか覆らない」
「それは、私も思いました」
私は東雲洋子先生ではないオーナーが好きで、オーナーも手紙を送っていた私が好きなわけではない。
互いに惹かれあった部分は別の場所にある。
難しく考えずに、これからも何も知らなかった時と同じ付き合いをすればいいと開き直った。
けれど、せっかくなので、直接言葉を贈らせてもらう。
「これからも、応援しています、東雲先生」
そんな言葉をかければ、オーナーは素敵な微笑みを浮かべ、「ありがとう」とお礼を言ってくれた。
「でも、今まで送った手紙をオーナーが読んでいたというのは、なんとも言えない感じですね」
「これから手紙は直接渡せばいい」
「それはちょっと」
「なんでだ」
「いや~、恥ずかしいと言いますか」
「まさか、まだ信じていないのでは?」
「信じていますって」
「怪しい」
証拠として、今から私が送った手紙を見せようかとオーナーは言う。
それも、恥ずかしいので止めてくれと懇願することになった。
◇◇◇
いろいろなことが発覚したので、私は破格の時給1500円を元の適正時給に戻すようにお願いすることになった。
だけれど、オーナーは首を縦に振ろうとしない。
そこで、私は新たな仕事をいくつか増やすように頼んでみた。
すると、オーナーは昼間の仕事を提案してくれる。
一つ目は小夜時雨の二階部分、オーナーが事務所兼仕事場として使っている部屋の掃除。
二つ目は、食事を作りに来ること。
上記二点については時給が発生しないものとする。
週に一度あるかないかでいいと言っていたけれど、私は可能な限り、ほぼ毎日とは言わないけれど、暇を見つけては小夜時雨にやって来て、掃除をしたり、食事を作ったりしていた。
料理は文句を言うことなく黙々と食べてくれる。
調理師免許を持っている人に食事を提供するなんて……と思っていたけれど、オーナーは自分のために料理はしないらしく、ほとんど外出かパンとコーヒーとかで簡単に済ませていたらしい。
その話を聞いて、栄養士を目指している私はオーナーの健康のため、バランスの取れた食事を食べさせなければと、使命感に燃えることになった。
今日は書斎の掃除をしてくれと頼まれた。
書斎には土足で入るのが憚れるような、ふかふかな絨毯がある。あれの手入れが、地味に大変なのだ。
掃除道具を持って張り切って部屋に行けばオーナーがいて、パソコンを前に執筆をしていた。
「掃除、あとからの方がいいですか?」
「いや、今でいい。俺のことは気にするな」
「埃とか出てくると思うのですが」
「ならば、窓でも拭いてくれ」
「分かりました」
書斎の窓、何日か前に拭いたばかりなので、そこまで汚れていないけれど、言われたからには実行しなければならない。
三十分かけて窓を綺麗にする。達成感で満たされていれば、名前を呼ばれ振り返ることになった。執務机の椅子に腰かけるオーナーは、近う寄れと言わんばかりに無言で手招いてくる。
傍に行ったのに、じっと見るばかりなオーナー。
「どうかしたのですか?」
「お前、まったく原稿を気にしないな」
「はい」
「本当に俺のファンなのか?」
「向井さんのファンではなく、東雲洋子先生のファンですが――ひゃあ!」
オーナーは突然私の腰を引き寄せ、膝に座らせる。
原稿が見えそうになって、両手で顔を覆った。
「意地でも見ないつもりだな」
「だって、他のファンの方に悪いですもの~~!」
原稿はめでたくドラマ化が決定した「探偵中島薫子シリーズ」の最新作らしい。
猛烈に気になるけれど、見てはいけない物なので、必死に目を逸らす。
ぱたんと、パソコンが閉じられる音がしたので、顔を覆っていた手を離した。
オーナーは私を膝に乗せたまま、微動だにしていない。
それどころか、ぎゅっと抱きしめてくる。
「重たくないですか?」
「重たい」
「え~!」
下ろしてくださいと言ったけれど、嫌だというオーナー。
背後から首筋に顔を埋められ、だんだんと顔が熱くなっていくのが分かる。
っていうか、窓を拭いていた布巾を持ったままなんですけれど!
羞恥で布巾を握る手に、ぐっと力が入ってしまう。
時刻は六時前。
外はすっかり暗くなっている。
いつまで大人しくしていればいいのか。
そう思っていたところに、首と顎の境目らへんにキスをされてしまった。
「ひえええ~~!」
背筋からぞわぞわとした感覚が駆け巡り、思わず悲鳴をあげてしまえば「……なんて色気のない声をあげるんだ」と呆れた声が。
オーナーは淡泊な人だと思っていたのに、お付き合いを始めてみればそうでないという事実が発覚する。
嬉しいけれど、恋愛経験値の低い私には刺激が強すぎる……!
そんな私を助ける音が、窓の外より聞こえてきた。
「……雨か」
「お、お店! の、開店準備を、しなきゃですね」
「今日は休もう」
「だ、駄目です!」
オーナーの腕をぺんぺんと叩けば、拘束が緩む。
膝の上から立ち上がり、スカートの皺を伸ばした。
「オーナー、今日のメニューは?」
「カステラの生クリーム添えと紅茶」
「了解です」
さっそく、準備をするために一階に下りて行く。
営業体制が整えば、傘を差してお店の門に営業中の木札をかけに行った。
美味しい伝統菓子を提供する喫茶店『café 小夜時雨』は本日も夜雨の中、開店となる。
今日のメニューはお客さんに喜んでもらえるかな?
そんなことを考えれば、自然と頬が緩む。
お店がお客さんで満たされることは滅多にない。けれど、それがいいと思う。
のんびりと過ごせる空間の提供を目標にしていた。
しばらくすれば、カランと扉が開く鐘の音が聞えた。
私は急いでお客さんを出迎えに行く。
「――いらっしゃいませ!」
雨の夜に限定して開かれるお店には、常連さんの楽しそうに過ごす姿と笑顔があった。
オランダ坂の洋館カフェ 完




