7.救う微笑み
(またか……)
護衛対象である客人が滞在する一室。その扉を開けたネイは見慣れた光景に嘆息した。一先ず目の前のそれをどうにかしようと中に入って静かに扉を閉める。足音を殺して近づく先は本と資料が高く積み上げられた執務用の机。そしてそこに顔をつっぷして眠りこけている栗色の髪の男。あと一時間もすれば朝食の時刻。本来なら起さなければならないのだが、徹夜で仕事をしていたのであろうラズをネイはそっと抱きかかえた。
(軽いな……)
男性にしては小柄な体を運びながらそんなことをふと思う。近くでよく見れば長い睫がカーテンの隙間から注ぐ朝陽を浴びてキラリと光る。シィシィーレの巫女の護衛を務める程の剣の腕前を持っているのだからそれなりに鍛えている筈だが、自分のような硬い筋肉ではなく腰に回した腕には心地の良い柔らかさが伝わってくる。
彼をベッドの上に降ろし毛布をかける。カーテンをきっちり閉めて部屋から朝陽を追い出すと、ネイはベッドの端に腰をかけて彼を見下ろした。
ネイから見たラズはとても勤勉だ。よくネイのことを真面目だ堅物だとからかうが、それは彼にも当てはまることだと思っている。朝から晩まで調べ物や調査に明け暮れ、マリアベルやダリオン王子のことを心配するくせにあまり自分の体調を鑑みない。今日みたいに徹夜して本を開いたままいつの間にか眠りに落ちているなどしょっちゅうで、ロクに休みなど取っていない筈だ。騎士でさえ五日に一度は休みがあるというのに、この一ヶ月ネイは彼が休暇をとっている姿など見たことがなかった。
この国の呪いを解く事がどれだけ重要なのか、ネイも理解している。けれど何故、彼がまるで何かに追い立てられているかのようにそれに没頭するのかは知らない。心配なのだ。だが、自分はあくまで王室の客人の護衛。彼の仕事に意見できる立場ではない。
「…………」
不意に、縛られたままの髪が目に入ってネイは彼の首の後ろに手を伸ばした。その位置でラズは髪を一括りにしているのだが、このままでは寝にくいだろう。髪を引っ張らないように優しく紐を解くと、肩近くまで伸びた栗色の髪が枕の上に散る。さらりと柔らかな感触を指先に感じて、ネイはそれを軽く梳いた。
確かな剣の技を持っているくせに筋肉の少ない細い腕。堂々と国王に意見できる豪胆さを持つ割りに、マリアベルに対して笑う表情はまるで彼女の親の様であり、時折幼い子供の様でもある。そしてネイの前で晒す不精で無防備な姿は危なっかしくて心配になる。だからだろうか。彼から目が離せないのは。
壁にかけられた時計を見る。今日は彼に外出の予定はない筈だ。今しばらくこのままにさせてやろうと、ネイはそっとベッドから腰を浮かせた。
「ん……」
浮上した意識はしばらくはっきとせず、ラズはもそもそと心地の良いベッドの中で体を丸めた。カーテンを閉めていてもぼんやりと明るい室内。あぁ、朝か。そう思って緩慢な動作で体を起す。ふぁ、と大きな欠伸をしてから両手を上げて伸びをする。珍しくすっきりとした頭で時計を見たラズはぎょっとした。
「は!? 十時??」
いつも六時には起きている自分からすれば大寝坊だ。慌ててベッドから降りようとした時、部屋の中に見慣れた顔を見つけて更に驚いた。
「ネイ……?」
「あぁ。起きたか。おはよう」
「おはようって……、なんで起してくれなかったんだよ」
しれっと挨拶を返してきた自分の護衛を非難の目つきで見上げる。彼はそれをするりとかわして窓のカーテンを開けた。
「ここの所寝不足だっただろう」
「そんなこと……」
「今日も机に伏せて寝ていた」
事実を告げられ、あぁそういえば、とラズは昨夜のことを思い返す。今自分はベッドの上にいるが、自らの足でベッドに向かった記憶はない。
「ネイが運んでくれたのか?」
「あぁ」
「そうか。ありがとう」
余計なことをするな、と罵られてもネイの立場では文句は言えない。けれど彼はそうしなかった。素直に自分の護衛に向かって礼をすると、ベッドを降りて着替えを取りにクローゼットに向かう。そしてピタリと動きを止めた。
「……ネイ」
「どうした?」
「あ、その……、あぁ、朝食を貰ってきてくれないか?」
いつもなら共に宿舎まで行くのだが、この時間になってしまっては食堂に行っても朝食にはありつけない。城の厨房まで行って欲しいという彼の依頼を聞いて、ネイはソファ前のローテーブルを指差した。そこにはお茶と軽食が並べられている。
「いつ起きても良いように朝食なら貰ってきた」
「そ、そうか。気が利くな……」
ははっとラズは乾いた笑みを浮かべる。
「どうかしたのか?」
「あ、いや。今日は一日外出の予定はないし、護衛は不要だ。昼食の時にここに戻ってきてくれれば騎士の訓練の方に行ってきてもいいよ」
「分かった」
彼の言葉に頷いてネイは部屋を出た。護衛と言ってもここは城の中。自室にいる分には危険がある筈もない。そんな日はネイも一日中彼に張り付いているわけではなかった。
ドアが閉まる音と共にラズはほっと息を吐き出す。そうして改めてクローゼットを開け、着替えを始めるのだった。
「非番か? ネイザン」
同僚に声をかけられて、ネイは剣を振っていた手を止めた。額から滴る汗を拭い振り返れば、そこにいたのは同じ近衛騎士隊のクレイドだった。マリアベルの警備を担当している彼は先ほど別の者と交代してこれから宿舎へ戻る所らしい。
「いえ、ラズ殿は今日外出の予定がないのでここに」
「あぁ。成る程。確かに城内では危険もないだろうが……」
何かを思案しているような表情を見せた言葉の先が気になり、ネイは僅かに首を傾げた。
「何か?」
「もし仕事で塔に行くことがあったら気をつけた方がいい」
「塔に?」
「良くない噂が流れている。良くも悪くも彼は興味を引く存在だからな」
「分かりました」
それだけ言うとクレイドは宿舎に戻って行った。そもそもネイもクレイドもおしゃべりな性格ではない。それよりも気になるのは彼の言葉。
(塔、か……)
塔とは城の敷地の北に位置する高い尖塔のことだ。城を護るのは騎士だけの仕事ではない。多くの魔術師達がその道を極めんと毎日魔術を学び、その技を持ってこの城を護っているのである。塔はそんな王宮魔術師達の仕事場だった。縁がないのでネイは足を踏み入れた事が無いのだが、塔内には貴重な魔術の本や資料が保管されており、そこで日夜魔術師達が研究に明け暮れているのだという。だがいかんせん、魔術師と騎士団は相性が悪い。魔術師達は剣など野蛮だと騎士を蔑み、騎士達は魔術師を国税を食いつぶす引きこもりだと笑い飛ばす。だが、騎士と魔術師の確執などラズには関係のない話だ。そう、クレイドが気をつけろと言った訳は別にある。今朝確認させられた彼の柔らかさ、睫の長さを思い出してネイは苦い顔をした。
この国にかけられた呪いという名の出生率の偏り。多夫一妻制が認められているにしても当然あぶれる男は出てくる。騎士団の目の届かない市街地や金持ち御用達の裏の店では少年達による売春が横行しており、近年問題視されていた。例の呪いは必然的に同性愛者の増加をもたらしていたのだ。そして自分達の研究に没頭し、外出することの少ない魔術師達には同性愛者が多いのである。クレイドが心配しているのは、つまりそこだった。
マリアベルと共に謁見の間に姿を現したラズは多くの魔術師達の目にも晒されている。そこで彼に性的な意味で興味を持った者が多いとの噂をクレイドは耳にしていたのだ。
(塔に行く事など無いとは思うが……)
彼は下ろしたままの剣を鞘に収めると、足早に訓練場を後にした。
「あれ? もうそんな時間か?」
時計を見れば午後一時。昼食の時間ぴったりに現れたネイを見て、ラズはやっぱり真面目だなぁと笑った。彼の笑顔にほっとしてネイは無意識に息を吐く。そんな様子には気付かずにラズは手元の地図から顔を上げた。
「……これは、トゥライアの北方の地図?」
「あぁ」
机の上に広げられた六十センチ四方の紙。その上には点々と赤い印が付けられている。それを覗き込むネイに、ラズは頷いた。
「この印は?」
「それがとても重要なんだ」
「?」
「ネイ。ここに行くにはどのくらい掛かる?」
ラズが指差したのは王城から北西の森の近く。あまり人口の多くないイーシャという町がある場所だ。
「ここなら往復で二日あれば」
「二日か。それならいいな」
「何がだ?」
「まぁ、その話は昼メシの後にしよう」
軽い調子でネイを促し共に部屋を出る。気にはなったが後で話してくれるなら問題はない。クレイドからの忠告を彼に告げるべきか迷ったが、無闇に心配させる必要もないだろう。ネイが気をつけていれば問題はない筈だ。
休憩の騎士達でがやがやと騒がしい宿舎の食堂。ラズとネイの二人は空いている席を見つけ、並んで腰を下ろした。すると向かいに知っている顔を見つけてラズが会釈する。
「こんにちは。オリバさん」
「こんにちは。ラズ殿」
にこやかにそれに応えたのは橙に近い髪色の細身の男性、オリバだった。先日マリアベルの部屋を訪れた際に話をした近衛騎士だ。
「マリアベル様はお元気ですか?」
仕事に忙殺されている自分よりも毎日客室の警備をしている彼の方がマリアベルの顔を見る機会は多い。何気なくそう訊ねると、彼は少し表情を硬くした。
「殿下達が毎日マリアベル様の下を訪ねていらっしゃいますからね。お元気な姿を見せていますが、心配事が一つ」
「なんです?」
話をしたのは一度だけだが、ラズはオリバのことを信用している。彼はよくマリアベルのことを見てくれていて、彼女を気遣ってくれていることを知ったからだ。
「昨日、ゴーゴルン公爵令嬢がマリアベル様の部屋を訪ねていらっしゃいました」
「リベリ嬢が?」
「えぇ。目的は室内にいたディストラード殿下に会うことだと言っていましたが、大分感情的になっていたようです」
「……。そうですか」
言葉は淡々としているが、その目からは危機感を感じ取れる。ある意味それに気付いている彼がマリアベルの傍に居てくれるのは安心だ。だが、また彼女が涙を流すような事態が起こるかもしれないと思うと何もしないではいられない。手元のスプーンでポタージュスープをかき混ぜながらラズは考えを巡らせた。
客室にいる間はオリバ達が警護してくれているからおいそれとリベリは近づけない。問題は花嫁候補であることを利用して正面から傍に来ること。彼女が王城を訪れてマリアベルをお茶にでも誘えば、それを断るのは難しい。マリアベル個人ではリベリを拒絶する理由がないし、そもそも彼女はリベリの悪意に気付いていない。その時は王子達が彼女の傍にいてくれることを願うしかないだろう。上の王子二人には釘を刺しておいたから、同じ鉄を二度踏むことはないと思いたい。
結局自分がでしゃばった所でリベリに対しては何の力も無いのだから、ここは彼らに任せるしかないのだ。
「オリバさん。一つお願いをしても?」
「ええ。どうぞ」
スプーンを置き姿勢を正すと、ラズは真面目な顔で頭を下げた。
「マリアベル様のこと、よろしくお願い致します」
「……。承知いたしました」
少し驚いた顔をした後、オリバも姿勢を正しその言葉を受けてくれた。それに満足して互いに食事の続きに掛かる。隣でその様子を黙ってみていたネイは、やはり何も言わずにお茶を飲んだ。
(私は、自分のことをやらなくては……)
ラズは焼きたてのパンを齧りながら頭を切り替える。その思考は既にあの地図に記したものへと飛んでいた。
***
ダンはヘリオに引っ張られる形で中庭へと足を運んでいた。どうやら彼は今日マリアベルと食後のお茶の約束をしているらしい。今日の勉強を終え、暇つぶしに馬にでも乗りに行こうかと思っていた所で弟に捉まってしまったのだ。一緒に、との事らしいが当然気は進まなかった。
マリアベルがここに来てからというもの、ダンは彼女とまともに話をしていない。その理由は今の所彼女の元護衛ラズのみが知っている。彼にはマリアベルとちゃんと向き合って話をするよう勧められていたが、どうにもその気になれず今日まで至っていた。
「あら、ダンも一緒なの?」
「……どうも」
ヘリオお気に入りのテラスで彼女は二人を待っていた。薄桃色のワンピースは初めて見るもので、彼女の優しげな雰囲気に良く合っている。そっけない返事をしてダンがテーブルに着くと、傍に控えていた侍従がお茶の準備を始めた。
「ねぇ、知ってた? 今度城下にサーカスが来るんだって。マリアベルはサーカス見たことある?」
「へぇ! 素敵。私はシィシィーレから出たことがなかったから観たことは無いの」
「そうなんだ。シィシィーレにサーカスは来ないの?」
「残念だけど来ないわ。あそこは離島だから、流石に船を使ってまで巡業するのは大変なんじゃないかしら」
「そっかぁ」
「ヘリオは見たことがあるの?」
「うん。一昨年見に行ったよ。ね、兄様」
マリアベルとヘリオの会話を聞き流していたダンは、突然自分に話を向けられて曖昧な返事をした。
「あ、あぁ」
「兄様、ちゃんと僕の話聞いてた?」
「聞いてたよ。サーカスのことだろ」
ぷくっと頬を膨らませる弟にダンは取り繕うように言葉を返す。けれど話半分だったのは事実で、仕方なくダンも会話に加わった。
「今年はアルバーナの広場にテントを建てるらしいな」
「皆で観に行けるかな?」
「どうだろうな。けど、皆で行けばその分連れて行く護衛の数も増える。あまり仰々しくなるのは良くないだろ」
するとマリアベルが分かりやすく残念そうな顔をした。こんな所は実に子供っぽい。
「……皆で行けたら素敵なのに」
「だよねぇ。まぁ、もしダメでも僕は絶対マリアベルを連れて行くよ!」
「本当? 嬉しいわ」
楽しそうに笑みを交わす第四王子と妃候補の娘。赤みのある金髪と淡い金の髪が風で揺れる光景はなんとも美しく気品を感じさせる。それを他人事のようにダンは眺めていた。
「もし良ければ、ダンもご一緒しましょうね」
今や城中のものを魅了する美しい少女の微笑み。それが自分に向けられている。あれだけ嫌な態度をとってきたのにも関わらず、彼女は自分に対して負の感情を見せない。まるで彼女の中には清廉で穏やかな感情しか存在していないかのよう。けれどそんな訳がない。人間である限り悲しみも憎しみも胸の中を去来する。強いのだ、彼女は。ダンの冷たい態度にも屈せず笑うことの出来る強さ、優しさ。
――愛は相手を想いやる心がなくては交わせません。マリアベル様のことを知れば、きっとそれが分かる筈です。
ラズの言葉が蘇る。そうだ。彼女はリベリとは違う。マリアベルのことを知ろうと思うならば、自分も強くならなくては同じ舞台に立つことは出来ない。いつまでもリベリの呪縛に囚われ、後ろを向いていてはいけないのだ。
「……あぁ、そうだな」
上手く笑うことは出来なかったけれど、彼女の目を見てそう応えることが出来た。その言葉を聞いた彼女の微笑みは、これまで見た中で一番美しいと思った。