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5.抱かれる温もり

 実に機嫌が良さそうな顔を横目に見ながらラズは心の中で悪態をついた。


(この酔っ払いめ……)


 自分の部屋で夕食のお供にと開けたワインは思いの外好評で、ぐいぐいグラスを傾けるものだからてっきりダンは酒が強いのかと思っていた。だが三時間も経つとラズの部屋で眠るとぐずりだしたのだ。そんなことされたら王子の侍従にぐちぐち言われるに違いない。これ以上はまずいと思ったラズは今にも瞼が落ちそうなダンに肩を貸して彼の自室へと向かっている所だった。


「ちょっと、本気で寝ないでよ、殿下」

「ぁぁ……」


 ダメだ。声に力がない。けれど小柄なラズでは一般的な男性の体格をしているダンを抱えることは出来ない。もし彼が眠りに落ちてしまったらその辺にいる騎士を掴まえて運ばせるしかないだろう。

 なんとかダンの私室の扉が見えてきたと思った瞬間、背後からかけられた声に肩が跳ねた。


「何をなさっているんですか」

「……こんばんは、ストレイラ侍従長。」

「こんばんは、ラズ様。丁度いつまで経ってもお部屋に戻らないダリオン殿下を探しに行こうと思っていた所でした」

「そ、そうでしたか……」


 ストレイラはラズからダンを受け取ると漂う酒の匂いに眉を顰める。


(いやいやいや、こっちは悪くないって)


 訝しげな目線を投げかけられ、ラズはハハハツと乾いた笑みを浮かべるしかなかった。

 ストレイラ侍従長は背の高いひょろりとした印象の壮年の男性で、ラズの苦手なタイプだ。幼い頃いたずらしては自分を叱った眼鏡の神官に似ているからだろう。全てを口に出して語らず、追求するような咎めるような目でじっと見据えてくるあたりなんて本当にそっくりである。


「じゃ、じゃあ俺はこれで……」


 逃げるが勝ちだと言い聞かせ、足早に廊下を進む。階下へと続く階段を降りようとした時、ふとマリアベルの顔が頭を掠めた。丁度すぐ下のフロアに彼女に与えられた客室がある。ちらりと一瞬振り返り、ダンとストレイラが部屋に入って行くのを見届けると、ラズは静かに夜の階段を下った。






 長い廊下、南側の突き当たり。両開きの白い扉の前には二人の騎士が立っている。マリアベルに与えられた客室の前に立つと、ラズは彼らに挨拶をしてから扉を指差した。


「入ってもいいですか?」

「……こんなお時間に、ですか?」

「無理なら改めますが」


 時刻は夜の十一時を回っている。眉を顰めた騎士の咎めるような視線も最もで、ラズは苦笑いを返した。だが、もう一人の騎士が同僚を制した。


「どうぞ」

「いいのか? オリバ」


 オリバと呼ばれた細身の騎士は彼に向かって一つ頷く。どちらも三十代前半の年上の男性。どうやら親しい仲のようで、頷く仕草だけで彼の考えが分かったのか、もう一人の紫がかった灰の目が印象的な騎士はそれ以上口を挟まなかった。


「晩餐からお戻りになってから元気がないようです。このタイミングでいらっしゃったという事はある程度今の状況を予想しておられるのでしょう? どうぞマリアベル様の話を聞いてあげてください」

「あぁ。ありがとう」


 意外だった。扉の前に立つ彼らがマリアベルを見るのは彼女がこの部屋から出入りする短い時間だけだろうに、それでも彼女の変化を正確に捉え、こうして心配してくれていたのだ。オリバは人の心の機微に敏感な人らしい。騎士よりも侍従の方が向いているのかもしれない。

 ラズは二人に頭を下げ、金のドアノブに手をかけて静かに扉を開けた。中に入ると既に明かりは落とされていて、けれど眩しい位の月光が部屋の中に注いでいる。窓辺には蒼い月明かりに照らされた美しい少女。


「マリアベル?」


 どうやらまだ眠っていなかったようだ。ラズが声をかけると、薄く白い夜着を着た華奢な背中が振り向いた。


「ラズ……?」

「遅い時間にごめん。マリアベルの……」

「ラズ!!」


 ラズが窓辺に進むと同時にマリアベルは駆け出し、その胸に飛び込んだ。ラズは自分よりも小さな体を抱きとめる。


「どうした? ホームシック?」

「私……」


 マリアベルはぎゅっとラズの服を握り締める。その手は少し震えていた。


「私、酷いことしてしまったのかもしれない」

「酷いこと?」


 自分の知っているマリアベルが誰かを害するなど考えられない。ラズが首を傾げると、マリアベルは消え入りそうな声で話し始めた。


「今日、ゴーゴルン公爵のお嬢さんが来てて」

「あぁ、聞いたよ。晩餐を同席したんだろ? ……何か言われたのか?」

「彼女は、殿下達を愛しているのだと」

「何?」

「私よりも遥かに長い時間共にいて、ずっと彼らの事を大切に想ってきたんだって」

「…………」


 王子達を心の底から愛する自分から彼らを奪わないで欲しい。マリアベルと二人きりになった時そう泣きながら訴えたのだと言う。


(成程)


 てっきり陰湿ないじめでもあったのかと思った。けれどマリアベルに罪悪感を植え付け、彼女自身の意志で離れるように仕向けたわけだ。それならリベリに非はない。少なくとも表向きは。


(思っていたより狡猾だな)


 ラズは舌打ちしたい気持ちをこらえてマリアベルの髪をそっと撫でた。


「マリィ。それで君は自分が悪いと思ってるんだね」

「だって私、何も考えてなかった。フェルノーイ様からの神託を受けて、ただ使命のままに此処に来れば皆の力になれると思ってたの」


 マリアベルの目に涙が浮かぶ。額をラズの胸に押し付けるその声は苦渋に満ちていた。


「それはいけない事?」

「え……?」


 驚きの表情で自分を見上げるコバルトブルーの瞳を真っ直ぐ見返しながらラズは言う。


「誰かの助けになりたいと思うマリィの行動がそんなにいけないことなの? マリィだってこの国の為に大好きなシィシィーレ島の人達や動物達と離れなければいけなかった。ずっとあの島で巫女を続ける幼い頃からの夢を捨てなければならなかっただろう?」

「ラズ……」

「神託を受けた時からずっと君が悩んでいた事、俺が気づいていないとでも思った?」


 マリアベルがどれだけシィシィーレ島を大切にしてきたか、ずっと傍で見てきたのだ。そこで暮らす優しい人々も動植物も、そして精霊達も。皆を彼女は愛していた。フェルノーイ神の下で心穏やかに過ごす生涯を信じて疑わなかったのに。

 マリアベルの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。ラズはそれを手のひらで拭った。


「君だって何の考えもなしに此処に来たわけじゃない。苦しんで、大切なものを捨てて此処にいるんだ。もっと堂々としていて良いんだよ」


 けれどその言葉にマリアベルはぎゅっと唇を噛んで首を横に振った。


「でもね、私……思ったの。私はリベリさんと同じくらい殿下達を愛せるのかな、って。愛せるかどうかも分からないのに私……」

「それでいいんだよ」

「……どうして?」

「殿下達とは出会って間もないんだ。すぐに相手を深く愛せる方がどうかしてる。マリィ、君は今悩んでる。それは相手と向き合っている証拠だ。フェルノーイ神の神託を言い訳にせずに、きちんと君自身が殿下達の事を考えている。誰かを愛したいと思ったら、それが一番大切な事だよ」

「ラズ……」


 マリアベルの肩から力が抜ける。それに気付いたラズはもう一度彼女の頭を撫でてベッドへと促した。


「今日はもうお休み」

「一緒にいてくれる?」

ラズ(・・)が女性の部屋で夜を明かすのはまずいんだけど。でも、マリィが眠るまでは傍にいるよ」

「……ありがとう」


 ベッドに座り、穏やかな彼女の寝顔を眺めながらラズは彼女の手を握っていた。こうして夜を過ごすのはいつぶりだろう。昔は怖い夢を見たと言ってはマリアベルがリジィのベッドに潜りこんでいた。その度にこうして手を握り合って眠ったものだ。


(さて、どうしてくれよう)


 ラズはあくまで一般人。シィシィーレ出身と言っても神官ですらない。自分の権力を持って公爵令嬢にあれこれするのは難しい。それに今は男として過ごしていると言っても王子達に執着している彼女が自分に興味を持つことなどないだろう。彼女が目を向けるとしたら……


(ダリオン殿下に協力してもらうのは……まぁ、無理か)


 リベリ嬢へ『忠告』したい所だが、王子達の力を借りる為にこの現状をラズから話すのもどうだろう。だが、少なくともマリアベルを自分のものにしたいと思っているマックやディンには易々とリベリの思惑通りに彼女が傷つけられたことへの責任を取ってもらわねばなるまい。彼らがしっかりとマリアベルを守ってくれなければ困るのだ。





 ***


 フェルノーイ神の像が祀られた教会。城の敷地内に建てられた立派な建造物は森林といっても良い程の多くの木々に囲まれた場所にある。王城に来てからというもの、マリアベルはこの教会に毎日欠かさず通っている。

 朝食後、朝の祈りを捧げてからすぐに自室に戻る気になれず、しばらく教会内に並べられた木のベンチに座っていた。


(殿下達を愛するって、どういう事だろう……)


 マリアベルはシィシィーレ島の全てを愛していた。けれどその愛とリベリ嬢の言っていた愛とは同じものである気がしない。ここに来るまでは与えられた使命を果たすことに迷いはなかった筈なのに、彼女の言葉を聞いて急に自信がなくなってしまった。


(今までと同じじゃダメなのかしら)


 相手の幸せを祈り、優しさを与え、共に笑う。誰かを大切にする、とはそういう事だとマリアベルは理解している。それが愛だと理解している。けれどリベリ嬢の見せた深く重い愛情はそれとは違う筈なのだ。

 思わず溜息が零れる。初めての悩みにどうやって答えを出せば良いのか分からない。


「マリアベル?」


 はっと息を飲んで後ろを振り返る。誰もいない筈の教会のドアから姿を見せたのは第一王子マクシミリアンだった。


「マック。どうしたの?」

「それはこっちの台詞だろう。溜息なんてついて、どうかした?」

「え、あ……」


 静かにこちらに歩いてくる彼に指摘され、思わず口元に手を当てる。


「……何でもないの。ちょっと考え事」

「そう。隣に座っても?」

「えぇ。どうぞ」


 ステンドグラスから降り注ぐ陽の光が彼の赤みを帯びた金髪に反射する。綺麗だな、とマリアベルは思った。国王陛下と同じ色の髪は整った顔立ちをした彼に良く似合っている。


「朝の礼拝?」

「えぇ」

「考え事って言うのはリベリのこと?」

「…どうして……?」


 自分の考えを見抜いたその言葉にマリアベルは目を丸くした。そんな表情を見て聞かなくても答えが分かったマックはいたわる様に彼女の頬にそっと触れた。


「ごめん。昨日から君の元気がなかったのには気づいていたんだ。けれど彼女が原因だなんて思いもしなかった」

「……もしかして、ラズから?」

「うん。叱られたよ。もっとしっかり君を守るようにと」

「そうだったの」


 昨夜の話を聞いて心配してくれたのだろう。思わず零れた小さな笑みは幼子のようで、マックはそれに少し嫉妬した。自分達の前では見せない彼女の素の表情。それを引き出せるのはあの元護衛だけなのだろうか。


「マリアベル」

「はい?」


 マックの手が彼女の小さな手を掬い取る。その指先にキスを落とすと、マリアベルはほんの少し頬を赤く染めた。


「生誕と豊穣の神フェルノーイに誓う」

「え……?」

「もう誰にも傷つけさせない。私が、君を護る」

「マック……」


 飴色の目がマリアベルを射抜く。真っ直ぐなそれから目を離すことが出来ない。頬に添えられた手が熱く、段々と近づいてくる彼の顔。ふっと彼の吐息が掛かかり反射的に目を瞑る。そして瞼に柔らかい感触が落ちた。次いでこめかみ、頬、最後に重なった唇。


「マリアベル……」


 自分を呼ぶ声に導かれるように瞼を開けば、そこには蕩ける様な甘い目をした男性の顔。とくん、と鼓動が落ち着かない音を立てる。彼の親指が唇をなぞり、そしてもう一度キスが落ちる。二回、三回、四回。段々と呼吸が苦しくなり、キスの間に口を開けば、そこに熱いものが侵入してきた。


「マ…、ん……」


 柔らかいそれはマリアベルの口内を優しく撫で、舌を絡める。初めて受ける口付けにマリアベルは思考が追いつかないでいた。時々鼻から抜ける彼の声にならない声がやけに色っぽく、背筋に知らない何かが走る。

 やがて二人の唇が離れると、そこにはたまらなく嬉しそうな顔をしたマックの笑顔があった。


「……マック?」

「ごめん。」

「どうして、謝るの?」

「嫌じゃなかった?」


 気遣うように自分の顔を覗き込まれ、マリアベルは慌てて首を横に振った。


「びっくりしたけど、嫌じゃないわ」

「全く君は……」


 困ったような顔をしてマックがマリアベルを抱きしめる。全てを許してしまいそうな彼女は、他の男に同じ事を聞かれても首を横に振ってしまうのではないだろうか。だが今は、自分が近づくことを許してくれた彼女に感謝してその身の温かさを味わおう。


(これが愛なの?)


 誰も触れたことのないマリアベルの柔らかな部分を、心を揺らすその場所を許すことが出来るのが愛?

 マリアベルは彼の胸に抱かれながら目を閉じた。初めて感じた胸の熱さに戸惑いながら、大きな腕に抱かれるその心地よさに酔いしれる。だが、一瞬リベリの顔がよぎって胸が軋んだ。自分がここに来る前、妃候補の彼女もこうして彼の腕に抱かれたのだろうか。そして自分はこの心地よい温もりを彼女から奪ってしまうのだろうか、と。

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