3.公爵令嬢
強い日差しに照らされた青空の下で打ち合う金属音が響く。リズミカルにも聞こえるその音にマリアベルは胸を弾ませていた。
騎士の訓練場で剣を合わせているのは二人。一人は黒髪黒目の近衛騎士ネイザン=ヴィフィア。その相手を務めているのはシィシィーレ島から来たマリアベルの元護衛ラズ。ネイよりも細身で小柄な彼だが、それを補う軽やかな素早い動きでネイを翻弄していた。
そんな二人の打ち合いを見学しているのは何もマリアベルだけではない。隣にいるのは第一王子マクシミリアンと第二王子ディストラード。そして彼の地から来た剣士に興味を持った多くの騎士達が訓練場を囲んでいる。その中に第三王子ダリオンの姿を見つけて兄のマックは苦笑した。マリアベルが是非ラズの訓練を見たいと言うので兄弟達に声をかけたのだが、ヘリオは城下の学校で授業があり、当のダンは興味がないと言って来なかったのだ。だが騎士達に混じって見学をしている所を見るとただの言い訳だったらしい。最近マックはダンがマリアベルを避けていることに気付いていた。
(俺達に遠慮しているわけではないようなんだがな)
ワーッという歓声が上がり、マックは視線を弟から訓練場へと戻した。どうやら勝負がついたらしい。ネイの握る訓練用の剣がぴたりとラズの首筋に当てられている。だがラズの剣先はネイの喉元に突きつけられていた。
「なぁんだ。引き分けか」
ディンは面白くもなさそうに呟くが、それでも大したものだとマックはラズへの評価を改めた。体格の違う相手に引き分けたのだ。それに今回使用したのは騎士訓練用の長剣。彼愛用の得物であるあの細身の剣を手にしたのなら、更に素早い動きで相手を追い詰めるのだろう。
その横でマリアベルはほっと息を吐いた。
「訓練だと分かっていてもハラハラするわ」
「マリアベルはラズを応援していたの?」
「勿論!」
彼女の満面の笑みをマックは眩しげに見る。だが、ディンは自分より親しい男を応援していたことが気に入らないらしい。フンッと鼻を鳴らした。
「訓練も終わったことだし、戻ってお茶でもしようぜ」
そんな彼の態度に苦笑して、マックはマリアベルを促し共に席を立った。
「完敗だな」
そう言ってラズは剣を下げた。同じく剣を退いたネイはその言葉に首を傾げる。
「何故だ。そもそも体格からして違うし、得物も使い慣れていないだろう。元から君の方が不利な条件だった」
「手を抜いてたのが分からないとでも思ったのか?」
「……。すまない。様子を見ようと思ったんだ」
訓練とはいえ手を抜くのは戦士への侮辱になる。素直に非を認めたネイを見てラズは苦笑した。
「ばーか。言ってみただけだよ。簡単に謝るな」
「え、あぁ……」
「ったく。ネイってホント真面目」
あはははっと笑顔を見せるラズをネイはきょとんと見返した。
彼が自分の護衛についてから二週間。ラズは早くもネイへの疑いを解いていた。愛想がないと思っていたのは単に口下手で、マリアベルを見ても眉一つ動かさないのは自分の任務に真面目だから。嘘をつくのがこれほど下手な奴も珍しいとラズが思うほど、彼は実直で表裏のない人物だった。
「……そんなに笑うな」
「悪い悪い」
ぶすっと不機嫌になる彼に更に笑みを深くして、ネイが投げたタオルを受け取る。汗を拭いているとズイッと横から水の入った大きな木のカップが差し出された。
「あぁ。ありがとうございます」
「中々面白かったよ、ラズ」
「シーク殿から見ればまだまだでしょう」
まさか近衛騎士団長のシークまで見学に来ているとは思わなかった。彼のお世辞にラズは肩を竦める。
「いや、これでもネイザンは近衛の中でも五本の指に入るんだ。ただの調査員にしておくには勿体無いな」
「俺の剣は騎士の型とは違います」
「だからいいのさ。勉強になるよ」
その時、野次馬の騎士達の間に背を向けて歩き出すダンの後姿が見えた。受け取ったカップをぐいっと飲み干し、ラズはシークに向かって一礼する。
「訓練場を貸していただいてありがとうございました」
「なんだ。もう行くのか」
「えぇ。仕事が入ってますので。ネイ、先に城に戻ってるよ。夕方からロイヤー様の所へ行くから俺の部屋に来てくれ」
「分かった」
タオルを首に引っ掛けたままラズは駆け出す。目的の背中は王城の裏庭へ消えていくのが見えた。
「ダリオン殿下」
「うわっ……て、アンタか」
「サボっている所を探しに来た侍従だと思いました?」
「…………」
本来ならこの時間、ダリオンは経営の授業の筈だ。だが彼は訓練の見学を終えた後に真っ直ぐここ、噴水のある裏庭に足を向けていた。垣根の裏の大木の根元。どうやらここが彼のお気に入りの場所らしい。服に草木が引っかかるのを承知で体を突っ込まなければ見つからない所だ。
「何しに来た」
「いえ、何しにと言うよりは、単に見かけたので声をかけてみただけです」
「……なら用は済んだだろ。さっさと戻れば?」
顔をしかめて顔を逸らす。そんな子供っぽい態度ではラズを退かせることは出来ない。
「つれないなぁ。同い年なんだし、仲良くしましょうよ」
「…………」
「マリアベル様のことはお嫌いですか?」
「っ……」
一瞬何かを言いかけて、けれど口を噤んでしまう。ラズはずっとマリアベルに心を許そうとしないダンのことが気になっていた。一度ゆっくり話をしてみたいと思っていたのだ。
「初めてここを訪れた時、ダリオン殿下もディストラード殿下達と共にいらっしゃいましたよね? マリアベル様を見た時、どう思いました?」
語りかけてもこちらを見ようとしない。やはりダメか、と思って腰を浮かしかけた時、ぼそりと零れた声が耳に届いた。
「……きれいだと、思った」
意外な言葉にラズは目を見張る。てっきり嫌っているものだとばかり思っていたが、どうもそう単純なことではないらしい。もしやツンデレ?
「せっかくの縁なのですから、彼女と話をしてあげてください。きっと喜ぶ」
「いや、俺は……」
彼の眉間に深い皺が刻まれる。心なしか顔色が悪いように見えるのは気のせいだろうか。
「殿下? お加減でも……」
「去、年……」
絞り出すような苦しげな声。やはり顔色が青白い。けれど何かを話そうとしてくれている。ラズはそっと彼の背中に手を当てた。
「ゴーゴルン公爵の宴に、……学友と共に招かれた」
ロベル=ゴーゴルン公爵。製糸業で財を成した歴史の長い公爵家だ。王家との関わりも深く、亡くなった王妃と公爵の妻が学友だったと聞いている。王城で開かれる夜会にも必ずと言っていい程顔を出している筈。ならば逆も然り。王子達も公爵の宴に招かれる機会があるのだろう。
「…娘が……」
「娘? 一人娘のリベリ嬢のことですか?」
体育座りの状態でダンはぎゅっと自分の腕を掴む。ラズの言葉に頷き、吐き捨てるように言った。
「酒に酔った友人に部屋を貸してくれると言われた。彼に肩を貸して部屋まで運んだ。そこで……」
「…………」
「リベリは、……男達とまぐわっていた」
むせ返るような香の匂い。開けたドアから見えたのはベッドの上で不気味にうごめく肌色の塊。一人二人ではない。リベリは宴に招かれた数人の男達と体を貪りあっていた。そこで彼女はうわ言の様に王子達の名を呼んでいたのだ。マック、ディン、そして自分の名を。怖気と吐き気を覚えたダンは逃げるように友人の体を引きずり馬車に乗り込んだ。そしてその光景は今もおぞましい記憶として彼の瞼の裏に張り付いている。
「……あれが、愛し合うということなら、……俺には無理だ」
初めて目にした男女の営み。それは余りにもまがまがしく滑稽で、ダンの心に澱みを残した。だからダンはマリアベルを避けるのだ。美しく清廉そうなこの女も、子を産むためにあの夜のような不気味な愛を交わすのだと。
「ダリオン殿下」
ラズは青白くなった彼の頭を抱えるように抱き寄せた。
「あなたが目にしたものはリベリ嬢の欲望と執着です。本当の愛は違う。愛は相手を想いやる心がなくては交わせません。マリアベル様のことを知れば、きっとそれが分かる筈です」
「だけど……、俺は……」
「無理にとは言いません。男女の愛でなくてもいいのです。知人や友人のように接して貰えればいいのですよ。あの日謁見の間で陛下が仰っていたでしょう? マリアベル様の意思を尊重したいと。あれは半分言い訳ではないかと思っているんです」
「……半分?」
ダンが顔を上げたと同時に腕から開放する。ラズは不安げな表情を向ける彼にそっと微笑んだ。
「えぇ。半分はマリアベル様の、そしてもう半分は殿下達の意思を尊重したいと仰っているのだと俺は思いました。国王から強制されれば苦しむのは殿下方も同じですから」
「…………」
しばらくの沈黙の後、ダンはぐいっと目元を拭って立ち上がる。そしてバツが悪そうな顔をラズに向けた。
「悪い。情けない所を見せた」
「構いませんよ。マリアベル様とだけではなく、その内俺とも茶を飲みましょう。」
笑顔で言ったラズの言葉にダンはポカンと口を開けた。まさかそんな誘いを受けるとは思っていなかったと、その表情が語っている。
「おや、お酒の方が良かったですか?」
「……そっちの方がいい」
「分かりました。こっそり用意しましょう」
彼の口元に小さな笑みが浮かぶ。それはラズが初めて目にする第三王子ダリオンの笑顔だった。
***
「どういうこと?」
リベリ=ゴーゴルン公爵令嬢は苛立ちを吐き出した。マリーゴールドを思わせる鮮やかなオレンジ色の裾が大きく広がったドレスに包まれた細い腰に豊満な胸元。男性なら誰もが振り返るであろう魅力を持っていながら、その表情は醜く歪んでいる。
「あの女は誰?」
傍に控えた公爵家の執事が慇懃に頭を下げる。王子達への面会の為に馬車を降りた彼女が目にしたのは、中庭のテラスでお茶を飲んでいるマックとディン。そして見知らぬ女が一人。太陽を反射してキラキラ光る淡い金色の髪、透けるような白い肌、コバルトブルーの瞳。今まで自分が目にしたことのないような美しい娘に両殿下が微笑みかけている。
「シィシィーレの巫女にございます」
「巫女?」
怒りを含んだ瞳が執事を睨みつける。
「巫女はあのちっぽけな島から離れられない筈でしょう? 何故ここにいるの」
「……陛下の客人として呼ばれていると」
「陛下の?」
「妃候補のようです」
「何ですって!!」
苛立ちを乗せてバシンッと手にしていた扇子で執事の頬を打つ。しかし彼は頭を下げたまま微動だにしない。
「妃は私の筈よ」
リベリの生まれは貧しい寒村だった。だが、稀少な女児は多額の見舞金と引き換えに貴族の下へ養子に行くのが今や常識になっている。女に生まれたが故に豊かな生活を手に入れ、そして何でも許される環境で育ってきた。何もかも公爵が王家へ取り入る道具になる為。王子の下へ嫁ぐ為。
実際リベリは妃候補に名を連ねていた。そして公爵家というバックを持つリベリは他のライバルよりも頭一つ抜きん出ていた筈だった。
それが何故爵位もない巫女に? 何故辺境の島の女なんかに!!
リベリは高価な羽のついた扇子を折れそうなほど握り締める。綺麗に結い上げられた彼女の赤毛はまるで嫉妬の炎のようだと、執事は胸の内だけで呟いた。