第5話「届かない手と動かない足と、駆け出す心」
――時が経つのは早い。
私がMSOを始める事になった9月が終わり、過ぎた月日は……既にひと月に届こうとしていた。
◇◇◇◇◇
ここしばらくの忙しさが嘘のような朝だった。
文化祭は目立つトラブルも無く幕を閉じ、生徒会に置かれていた私物|(ほぼ会長の物)の撤去や簡単な追い出しパーティーと次期生徒会への引き継ぎが滞りなく終わり、私は晴れて生徒会書記職をお役御免となった。
今の私はずいぶんと身軽となって久方ぶりに心置き無く微睡みの中にいた。
……しかし。
ピリリリリ……ピリリリリ……。
早朝、文化祭が近かったので日課となっていた早起き用のアラームのけたたましさに叩き起こされた私は壁を寝ぼけ眼で見つめていた。
(しまった……目覚ましを……)
昨夜、つい癖で寝る前に目覚まし時計のアラームスイッチを入れてしまったのだと思い出し、ベッドからゾンビのように這い出した。
目覚まし時計を右手で止めた姿勢のままで思う。
(もうこんな早起きしなくてよかったのに)
太陽は既に昇ってはいる。が、仕事も無くなり予習復習課題諸々も済ませているので正直あと30分は余裕で寝こけていてよかった。微妙に損をしたような勿体ないような気分に眉をしかめる。
ベッドに戻って瞼を閉じてみても一度覚めた目と頭は徐々に冴えてしまい、寝返りを打ってもカッチコッチとアナログな時計の音だけがいやに耳に残る。デジタル式にしとけば良かった。
「〜〜〜〜っ」
布団を頭から被って体を丸め、固く瞼を閉じる。秒針の音がわずかに遠ざかるけど……そうなれば残るのは冴えた頭だけ。
そして考えなくてもいい事を頭が勝手に考え始める。
そう言う時には大抵嫌な事が頭をよぎり、ああすれば良かったこうすれば良かったと、都合の悪い過去を都合の良い妄想にしようと何度も何度も繰り返す。
そう例えば――。
『お姉ちゃんのばかぁっ!』
……そんな事も。
◇◇◇◇◇
「あら、どうしたの。もう早起きしなくて良かったんじゃないの?」
「……うん、まだちょっと体内時計がボケてるみたい。起きちゃった」
あんな妄想を繰り返してまで寝ていたくは無いと、結果として早起きしてしまった。
キッチンで朝食の支度をするお母さんとテレビを見聞きしながら新聞を読むお父さんに挨拶を交わし、どうせ早起きしてやる事も無いならとお弁当作りをかって出る。
大体のメニューをお母さんから聞いてミルキーホワイトのエプロンを着て作業に取り掛かる。そう言えばこんな事をするのも久しぶりだった。
お父さん用の大きなお弁当箱と私と花菜の色違いのお弁当箱にご飯とおかずを詰めていく。途中からは朝食の支度をあらかた済ませたお母さんも手伝ってくれて早々に終わらせられた。
「じゃあ私朝ごはんの前にお風呂入ってくるから」
「ああ、それじゃついでに花菜を起こしてきてちょうだい」
返事をするのが一拍遅れる。それでも、声の調子は変わらずにすんだ、筈。
「……うん、分かった」
着替えを取りに2階の自室へ向かう。タン、タン、タン、重たい気持ち故かリズミカルさなど無いぶつ切りの足音が続く。
花菜の部屋の前に着くとガチャリ、と唐突にドアが開いた。
「あ……」
「わ……」
ギシリ。そんな効果音ででも表現されそうな程露骨に、私たちの動きが硬くなる。
咄嗟に逸らしてしまう視線に自分自身が嫌になる。パタパタと脇をすり抜けていく花菜の背中を私はただ見送るしか出来ないのだった……。
「…………っ」
ゴン。
壁に寄り掛かり頭がぶつかるとじんわりとした痛みが広がる。滲む涙の原因には少し足りない。
10月3日。
役職を解かれてよりまる1日を経ても、変化は訪れていない。
◇◇◇◇◇
朝の心境のままに時は過ぎ去り、既に数時間が経っていた。
授業の合間の休み時間。私は次の授業の準備を終え近くの席の幼馴染みらと軽くお喋りをしながら、ぼんやりと壁掛け時計を眺めたりして過ごしていた。
私は生徒会活動を優先していた為に部活も委員会にも所属していない。授業中はまだいい、けど放課後はどうしよう。昨日もする事が無く、運動部の横をぼけっと帰宅したもので……暇、は言い過ぎとしても時間には結構な余裕が出来ていた。今までが仕事三昧だったから、時間の潰し方の見当が付かない……授業中や休み時間には漠然とそんな事ばかりを考えていた。
ガヤガヤ。ザワザワ。
「がっ、宿題忘れ……見せてくださいお願いしますっ!」「今度さぁ、カレシと出掛けんだけどぉ」「あー、カッケーなあ。ね、ね、オレがバイク買ったら後ろ乗ってくんない? ギュッとこう……」「アハハハハ、貸して貸して〜」「今度のアプデで転生が実装されたとしてどれスタートが無双への近道と思うかね」「この前のプリントまだ出してない人ーっ!」
ザワザワ。ガヤガヤ。
そんな時クラスの雑多な喧騒、無邪気な賑やかさにふと、同じように楽し気だったあの街を思い出す。
たった一度訪れただけの、楽しかった記憶と苦い記憶がない交ぜになったあの空想の街を。
(ゲーム……か)
あの日、私は現実を優先して背を向けた。でも……幾つもあった理由はもう無くなっている。
だとするのなら――。
『キーンコーンカーンコーン』
その考えを断ち切るように、スピーカーから予鈴が響く。立ち込めていた喧騒は薄れ、廊下からは年配の先生がスリッパを鳴らして教室のドアを開けた。
(いいのかな)
思考の欠片を転がしながら授業が始まる。……今日の授業はきちんと受けられる自信が無かった。でも、そうしたいと確かに思う。
「起立、礼」
日直の号令と共に頭を下げる。当たりませんようにと先生へのお願いと、きちんと受けずにごめんなさいと心の中だけで呟きながら。
◇◇◇◇◇
学校からの帰り道を私は1人で歩いていた。
元々部活や委員会には所属しておらず、生徒会役員でもなくなった今の私は正式な帰宅部員として日夜部活動に励んでいる。
……言ってて虚しい。
あの後、結局“これから”について授業中は良策には至らずじまい。かと言って授業に集中する事も出来ない自分の不器用さに若干頭が痛くなってしまった。
その為、家まで歩く間にも考えを巡らせている最中だったりして、少し肩を落とし俯いて歩いていた。
――後から思えばきっと、それがいけなかったのだろう。
――だから、厄介事がやって来た。
「えいっ♪」
ずどんっっ! と。
軽い調子の声とは裏腹な異音が響くような速度と威力を伴って、私の背中に平手打ち|(多分)と言う名の奇襲攻撃が炸裂した。
無論そんな運動部でも御免被る攻撃に、基本文系で特に鍛えている訳でもなく必要最低限の筋力しか持たない私が耐えられる筈も無く、前のめりに数歩たたらを踏んだ挙げ句に咳き込む羽目になるのは自明の理だった。
「ごほっけほっ?!」
とりあえず電柱を片手で抱いて支えにしてゆっくりと呼吸を落ち着ける。
背中がまだジリジリと痛い。きっと帰って背中を見たらキレイな紅葉模様が出来ているんだろう。
「ふふ、どうしたのかしら。貴女の力はこんなもの? 書記子の名が泣くわよ」
泣いてしまえばいい、そんな局地的なあだ名。
「こほっ……いきなり、何を、するんですか、けほ、会長」
「こらこら、わたしはもう会長じゃないのだから前を付けなさい、前を。もしくはさくらさんとか、春日野の君とか?」
そう、そこにいたのは私の通う高校の3年生であり、元私の上司である前期生徒会会長の春日野さくらその人だった。
「あの、私ももう書記じゃないですよ」
「会長は役職、書記子はあだ名、だからいいの」
これだもの。屁理屈だろうと理屈だからと押し通す、春日野さくらとはそんな人だった。
私より頭1個分程高い背、長く明るい色の茶髪は腰の辺りまで伸びている。
整った顔を強調する鋭い瞳からは強い、もとい若干強すぎる意思が込められた光を放っている。
同じ制服の筈だけど彼女が着ると余程あか抜けて見える。……いつも思うのだけど腰の位置がなんであんなに高いのだろう。
陽の光の下だと尚の事魅力的に映る。改めて見ても美人。美人、なのにねー……。
「なんか今微妙に可哀想なものを見る目を向けられたような気がしたわ。気の所為かしら?」
「気の所為ですよ、気の所為です。で、何か用事でもあるんですか? 会長の家は反対方向でしょう、確か」
「んー? 下校しようとしたら書記子が俯いてうんうん唸ってるんだもの、気になったからストーキングしてたの」
「……そうですか」
ストーカー規制法に引っ掛からないかなこの人。
ほんとにもう、会長を退いても相変わらずなんだから……。
「ま、それだけでもないのだけど」
「?」
「さ、何か悩み事があるんでしょう? お姉さんに話してごらん、1年分の年の功で相談に乗ってあげるわよ」
「はあ……きっと、遠慮しても聞きはしないんでしょうね」
「何を今更、貴女と私の仲だもの。拒否権なんか無いわよ」
ふにふにと私の頬を摘まみながら、随分とまた横暴な事を言う。文化祭の時の神妙な雰囲気はどこに行っちゃったのか。存外会長を退く事にセンチメンタリズムでも感じてたのかもだけど、辞めたら辞めたで1周して元に戻ったらしい……あのままで良かったのに。
「っていうかここまで言ってその元気の失せ具合で十分重症の部類じゃない。生憎わたしは会長職こそ辞めたけど貴女の先輩ではあるんだから、心配ぐらいさせてもらいます」
先輩はすっと表情を引き締めて私を見詰める……そんな事を、そんな顔で言われたら、少しばかり涙腺にも影響しちゃう。
その間隙を突いて、今度は私の手首をガッシと掴んでぐいぐい引っ張って行く。
まるで1年と少し前に生徒会に誘われた時と同じように――。
「そこの喫茶店、前に見かけてから気になってたのよねー」
一瞬で台無しになった!!
「……買い食いはダメですよ」
「飲むだけならいいんじゃない?」
アウトに決まってるでしょ、前生徒会会長。
◇◇◇◇◇
「ふぅん」
「なんですかその顔」
半年程前に出来たばかりの真新しい喫茶店は明るい色調で、防音の効いた店内は外からの雑音をシャットアウトし射し込む陽光が“穏やかな午後”を演出していた。
そんな中、店の奥の方に座った私たちは『本日のお薦め紅茶』を注文し、ちびちびと紅茶を飲みながらぽつぽつとこれまでの経緯を話していた。
妹にゲームに誘われた事。忙しさにかまけて仲違いしてしまった事。以来ギクシャクとした関係が続いている事。文化祭での出来事も含めて、今し方ようやく終えた所だった。
「要は妹と喧嘩したんで仲直りしたいんでしょ?」
「はい……」
「で、どうすればいいか解んなくて悶々としてた」
「も、悶々って、意味は間違ってませんけどもう少し言い様をですね……」
先輩は足を組み直しながらカップに残っていた紅茶をぐいっと飲み干した。
「本当に、前から思っていたけど貴女って……」
「は?」
「あ、ちょっとストップ」
私の言葉を片手で制し、端末を取り出した。バイブしているところを見るに着信だったらしく、耳に当てている。
ガタッ。
その間一言も喋らなかった先輩は端末を仕舞うと突然立ち上がり、テーブルの端に置かれていた伝票をひょいっと手に取って歩き出した。
「行くわよ」
「えっ、ちょっ、先輩!?」
ひらひらと伝票を振りながら、さっさとレジへと歩いて行ってしまう。
急かされるように、私もカップに残っていた紅茶を急いで飲んで後を追った。
「って、あれ? なんで私の分まで支払ってるんですか?」
「奢りよ。私が誘ったんだし、思ったより安かったしね」
にっ、と得意気に笑いながら全額を支払っている。
「ダメです。自分の分くらいは自分で支払います、えっと値段は確か……」
「残念、もう払っちゃったわ。もし返したかったら、今度何か奢りなさい」
「あ、ちょっと……もうっ」
先輩はそれだけ言うと自動ドアを抜けて外へと出ていってしまった。
私も渋々それを追って外へ出る。先輩はお店から少し離れた並木道の端から、こちらをおいでおいでと手まねいている。
「あの、先輩。急にどうしたんですか? さっきの電話は……他にご用事でも?」
頭にクエスチョンマークを浮かべながら話し掛ける。さっきの電話は誰からなのか、もし他に用事でもあったなら長々と話して悪い事をしてしまったかな……。
けど、そんな気配は微塵も感じさせないカラリとした笑みを形作った。
「ふふ、私を誰だと思ってるの。貴女の話を聞くと言ったからには一晩中でも付き合う覚悟よ」
「さっき人の話を聞かずにさっさと支払っちゃってませんでした?」
「……ふっ。私と一緒だったこの1年は伊達ではないようね、すっかり耐性が付いちゃって……」
「いい仕事をしたわー、私」と自画自賛し始めた。……帰ろうかな。
「ところで、書記子の家はあっちでよかったかしら?」
藪から棒に何を、と思いつつ、先輩が指差す先が自宅の方角である事を確認する
「……え、ええそうですね。大体合ってますけど、それが一体なんなんですか?」
「じゃ、向こうを向いて」
「???」
私の言などお構い無しに、先輩は背中に回り込み、私の肩を掴んで強引に方向転換させられる。
人通りこそ少ないが何分喫茶店からそう離れてもいないもので店内の何人かの目はこちらを映しているようだった。
それに当てられて体は強張る。表情こそ分からないけどそんな私を見て先輩は苦笑したような気がした。
「せ、先ぱ――」
「……全く貴女はどうして仕事だとばか丁寧できっちりこなすくせに、妹さんとの事となるとこんなにまだるっこしくなってるんだか」
「し、仕事とは、違います……」
やれやれとばかりにため息を吐く。
「これから言う事は……まぁ、単なる確認よ。なんであろうとただの確認。それを聞いた上で貴女がどうしたいかは貴女次第」
前置きを言い終えた先輩は、すぅぅぅっと長く長く息を吸う。
知っている。何度も見た。この人の癖、大事な話の前の準備。
それを、私に向けて……?
「擦れ違いがあった。目を背けたら、距離が開いた。開いた距離が、また開くんじゃないかって、今度は見るのが怖くて俯いた。だったわよね」
「…………そう、ですね。それで、忙しいからって言い訳して……いつの間にか」
いつの間にか、蹲る背中しか見えなくなっていた。呼び掛ける声すらも、段々弱くなっていった……。
「……こんなの、お姉ちゃん失格ですよ」
花菜にあんな顔をさせてしまった。私がもっと……花菜の事を考えていれば良かったのに。分かってあげられれば良かったのに。知ろうと努力すれば良かったのに。
浮かぶものはただ後悔ばかり。どこまでも無能な私ばかり。
「そう。貴女がそう思うのなら、きっとそうなんでしょう」
「…………」
穏やかな声音が囁くように告げる。でも、発する言葉は刃だった。
「でも、そうしたら妹さんはどうなるのかしら」
ギシリ。そんな異音が聞こえた気がした。私の心臓が刺し貫かれたかのようにその一瞬動きを止めた。少なくともそう錯覚する程に、その言葉は私にとって致命的な威力を伴っていた。喘ぐ、息が上手く吸い込めない。
「お姉ちゃん失格で、お姉ちゃんのいなくなった妹さんはどうすればいいのかしら?」
イメージが脳裏をよぎる。背中を向けて小さく蹲って泣いている花菜の姿が――。
「っ、それはっ!」
「やーっとまともに反応した」
私の叫びに、先輩はほっとしたような声音で応えた。心底嬉しいと声だけで伝わるような、そんな声音で。
振り向きかけた私はそれに戸惑い、動きを止めた。
「やっと生きてる言葉が出たわね、それが妹さんの心配とは。うん、よろしい。貴女は相手をちゃんと想ってるのが分かったわ。自分よりもずっとずっと」
私の肩を掴んでいた手の片方がすっと離れた。その手は何かを持って再び私の肩を……いえ、端末を私の耳に当ててる?
「そんな貴女にサプライズなプレゼントを進呈しましょう」
「何を……」
「メッセージだそうよ。私のクライアントからの、ね」
クライアント……依頼人?
先輩は画面も見ずに操作を行うと、ピッと言う効果音が鳴る。
流れてきたのは少しのノイズと人の声。電話?
『ザザッ。あ、あー。聞こえてますか春日野先輩。一応使えそうなのはピックアップしてお送りします。使い時はお任せしますので上手くやってください』
それはどこか軽いくせに泰然としていて少々ならずと楽しげで、何より恐ろしく聞き覚えのある声だった。
市田まこ。
クラスメイトであり幼稚園の頃からの幼馴染みなのだけど、それがどうして……いえ、先輩はクライアントと言っていた。ならこの状況も……まさか。
耳元からは再びのノイズ。続いたのは人のざわめき、明るい音楽もわずかに聞こえる。
『なぁ。行っちゃうぞ? このままでいいのかよー?』
聞こえてきたのはともすれば粗野な言動、けど心配そうに揺れる言葉の端々にあるのは優しさ。声質は綺麗なソプラノ。こちらも同様に聞き慣れた幼馴染みの声。
佐原光子。
『花菜っちよー。休憩時間あんま無いって話なんだぞ? これ逃したらもうアイツ暇無しだぞ。多分』
(花菜?! 休憩……? あ。まさか、文化祭の2日目なの?!)
確かに音楽に聞き覚えもある。時折呼び込みのような声も混じってる。
(じゃあ……それじゃあ……)
ぐらぐらと視界が揺れる。
ついこの前に開催された文化祭の一般開放日。私に割り当てられた休憩時間の最中、まこにクラスから追い立てられ、光子はクラスにおらず、当ても無くさ迷い歩いていたあの日。
花菜は来ていないと思ってた。結局そのまま会う事無く休憩時間は終わってしまったから。だからとても悲しかった。とても寂しかった。
でも。
(来てた……)
その事実だけで目頭が熱くなる。会ってくれなかったとしても、来るだけはしてくれたから。
けど、話はまだ終わらない。
『…………』
『会いたくねーの?』
その質問にギュッ、と心臓が縮こまる。
『…………』
『いなくなっちゃうぞ?』
それから少し、周囲の音しか聞こえなくなる。逸る気持ちを唇を噛んで自制する。……やがて聞こえてきたのは小さな、嗚咽。
『えぐっ』
「花菜っ!」
泣いていると気付くと声を上げていた。録音された音声でも、体が無意識に反応する。
『わっ、ばか! こんなとこで泣く奴があるかっ!』
『ぶえええんっ、会いたいよぉ! 行っちゃやだよぉっ!』
『だったら会えばいーだろがよバッキャヤロー!』
『お姉ーちゃんに嫌われりゃらぁぁあぁっ!! おにゃあぁああっ!』
『だぁっ、話が通じねぇっ?! 場所移すぞっ、もう!』
ガタガタッ、と音がして録音は終了し、またもザザッとノイズが走る。
(嫌われ……そう思われて)
それを聞いて、私の体は小刻みに震え、涙が滲む。そんな風に思わせる態度を取り続けてしまっていた自分が許せない。先輩がいなければ崩折れてしまっていたかもしれない。
「まだよ、続きがあるわ」
そんな冷静な声が耳朶を叩く。「え?」と思う間も無く、ピッと次の録音が再生される。
『ねぇ花菜ちゃん。久しぶりに会いに来たんだから一緒に遊ばない?』
今度は周囲から雑音は聞こえない。花菜に話し掛けているのはまこだけど、今度は一体いつの話なのか……。
『あら嫌なの。どうして? わたしたちの事、嫌いになっちゃった?』
しかし、花菜の声は未だに聞こえてこない。まこの探るような声だけが続く。
『ああ違うのね、良かった。でも、だったらどうして?』
『どうしてそのゲームをしたがるの?』
ゲーム……MSO? 確かに花菜はあれから家にいる大半の時間をプレイに費やしているようだけど……でも、おかしい。
花菜はまこと光子とも仲良しで、2人がうちに来れば向こうから一緒になって遊ぼうと混ざるのに躍起になるくらいだった筈……なのにどうしてMSOを?
『…………もん』
『ん?』
か細い花菜の声に、私は耳を澄ませる。もう一言も聞き逃したくはないから。
『……お姉ちゃんが、迎えに来てくれるもん……向こうにいれば迎えに来てくれるんだもん。だから……だから』
普段の明るい花菜からは想像も出来ないくらいに沈んだ声に胸が痛くなる。
花菜はそれ以上語らず、まこの『そう』と言う素っ気無い言葉を最後に再生は終わった。先輩は端末を仕舞い再び私に語り掛ける。
「……ねぇ。貴女はお姉ちゃん失格って言っていたけど、そもそも1人じゃお姉ちゃんになんかなれないのよね。妹がいるから姉になる、なら……失格になるのだって決めるのは1人じゃないと思わない?」
「…………」
「そして、もう1人の方は……失格だなんて思ってもいないみたい。だったら貴女はどうする? どうしたい?」
体に力がこもるのが分かる。
望まれていると分かったなら私は……。
「私は……私は花菜のお姉ちゃんでいたいっ」
「……なら、やる事なんか決まってるじゃない」
「……え?」
「うりゃ」
ぽん、と何気無く私を押し出す。体を支える為に右足が出る。
「な、何を――」
「振り向かない!」
ぴしゃりと叱られる。
「いい加減、立ち止まるのにも飽きたでしょ。ほら、前を見てさっさと行きなさい。じゃなきゃ、話は始まらない」
強い言葉が、背中を押す。
「いい? 相手が遠くにいるとしても俯いて立ち竦んでるなら、貴女が前向いて駆け出せば、追い付けない訳無いじゃない」
「…………っ」
「お姉さんでいたいなら、ちゃんと迎えに行ってあげなさい!」
その一言が、きっかけだった。
左足を前へ一歩。
次は右足を。
後はその回転を上げて。
「そう! 行け、書記子ーっ!!」
前を向く。
駆け出す。
(お礼は、今は……ちゃんと、仲直り出来てから……っ)
貰った勢いを失いたくないから。
だから、走る。
今は、走る!
◇◇◇◇◇
タッタッタッタッタッ……。
「ぜっ、ぜはっ」
走る。
走る。
走る。
帰り道をひたすら走り抜ける。
息は荒らぎ苦しい、脇腹がズキズキと痛い。律儀に色々と詰め込んだ鞄の重さが恨めしい。
日頃の運動不足を少しばかり反省しつつ、私の頭にはある記憶が浮かんでいた。
それはきっと花菜の言葉を呼び水にした。だから昔の事が、もう10年近くも前の事がよぎってる。
その日は花菜とちょっとしたトラブルがあった。いやそれこそ年がら年中あるし、現在進行形であの子とはもめたりもしてるのだけど。
一番最初がその日だった。
◇◇◇◇◇
私にはお母さんがいない。
3歳になったばかりの頃にお母さんは、野々原縁は事故で死んでしまったから。
それから4年、親戚もいない私にとってはお父さん、野々原武だけが家族だった。
そんな私の生活がガラリと変わったのが7歳の時。
お父さんが職場の同僚だった月岡千鶴さんと再婚して、突然私に4歳の妹が出来た。
それが花菜、血の繋がらない私の妹。
◇◇◇◇◇
その日は朝方から雲行きが怪しかった。どんよりと空を覆う黒雲は切れ目も無く、朝起きてから学校に着くまで延々と陽の光を遮ぎり、降水確率も0ではなく正直いつ降りだしてもおかしくない、そんな空模様だった。
そしてお昼になり、ようやく雲が薄れて陽の光がわずかばかり漏れ始めた。梅雨の晴れ間はいつでもありがたい、こんなかすかな光でも。それは子供でも分かる事だ。
「はれたねぇ〜」
「せんたく物がかわくからありがたいよね」
「ゆっちんはしゅふだなー」
私|(当時8歳)は帰り道を幼馴染みのまこ(まこまこ)と光子(ひーこ)の3人で、長靴をがっぽがっぽと鳴らしながら歩いていた。一応の用心に履いたけど無駄になってしまった。まあ、どうしてだか長靴と言うだけでウキウキする年頃だったので気にならなかったものだけど。
周りには下校中の生徒が雨も降ってないのに傘を広げてぐるぐる回しながら談笑したりふざけたりしながらはしゃいでいる。晴れ云々よりも学校から解放されたからっぽい。
隣を歩くまこも上機嫌にくるくる傘を回しながら私に話し掛けてきた。
「今日もあの子のおむかえなの〜?」
「あの子」とは妹の花菜の事、まだ2人とはあまり面識が無かったりする。
この頃はまだ共働きだった両親に代わり、私が幼稚園に花菜を迎えに行っていた。
その為に2人とは途中で別れる事になる。
「うん、そだよ」
「おーう、今日もゆっちんがうわきするぜー、すてないでー」
「ひーこの言うことにイラッとする今日このごろ」
光子はいつもならくっついてくるけど、傘という武器兼防具を装備しているから諦めている。この時ばかりは今日の天気に感謝した。
しばらくおしゃべりをしてT字路に差し掛かったので私は右へ、2人は左へと別れる。
「まこまこ、ひーこ、じゃーねー、また明日ー」
「おー、たっしゃでなー」
「ゆっちん、またねぇ〜」
傘をお互いに振り合い、私は花菜の待つ幼稚園へと歩き出した。幼稚園までには多少距離がある、これで方向がもう少し違えば2人と一緒に行く事も出来るのに。
歩道を1人歩きながらそんな事を考えていた。
幼稚園の玄関はお迎えのピークから若干ずれたのか静かなものだった。
私はこことは別の幼稚園出身だけど、小さい靴箱やいくつか残る傘から感じる雰囲気はやっぱりどこか似ていた。
「先生、こんにちはー」
「はい、こんにちは。待っててね、花菜ちゃん呼んでくるから」
「はーい」
出てきたのは20代後半のあかり先生。動きやすいジーンズにエプロン、髪は後ろで束ねていて朗らかな笑顔を振りまいていた。その笑顔になんとなく安心出来る辺り園児にも好かれそう。
「お待たせー。さ、花菜ちゃん、お姉ちゃんがお迎えに来てくれたよー」
「……」
「かなちゃーん、かえろー」
花菜は幼稚園の制服の上から雨ガッパを着ている。靴箱には長靴が、傘立てには花柄の傘が置かれている。
でも、そんな明るい装いにも関わらず花菜の顔は暗い。まるで朝からの曇天のような、そんな顔。
「……せんせ、またあした」
「はいまた明日ね、花菜ちゃん。お姉ちゃんもまたねー」
花菜が長靴を履き終えるのを待って先生と挨拶を交わす。傘を渡して、私たちは幼稚園を後にした。
その後はお互いに特に話す事も無く手も繋がずに帰路を歩く。いつもこの調子だ。色々と話は振るのだけど、先に続かずにこうして沈黙に陥るのが常だった。
横断歩道に差し掛かり、赤信号が青に変わるまでの手持ち無沙汰を紛らわそうと、私は隣に並ぶ花菜へと言葉を投げた。
「かなちゃん、なにかおもしろいこととかあった?」
「……べつに」
「そっかー」
ぽそりと抑揚の少ない言葉を紡ぎながら花菜は下を向く、肩に下げた傘の柄をギュウッと握り締めていた。
会話にもならない返答に私は声を詰まらせてしまう、取っ付きにくい事この上無い。
昔の花菜は大人しく物静か、と言うよりいつもどこかおどおどしていて口数が少なかった。笑顔だってお母さんに向けた、ほっとしたようなものの他には見た事も無い。
はっきり言って今とは本当に同一人物かと思う程に違う。
そうこうしていると、いつの間にか点滅を終えた歩行者用の信号が青へと変わっていた。
また変わってしまわない内にと私は1歩を踏み出す。が。
「かなちゃん?」
花菜は下を向いていたから信号が変わった事に気付かなかったのかもしれない。
そう思った私は一旦戻り急がないと信号が変わると思い、花菜と手を繋ごうと手を伸ばした。
瞬間、びくり、と花菜が震え――。
「やっ!」
ぺしんっ。
特に痛くもなく、ショックにも感じなかった。ただ手を弾かれただけ。
だから私は不思議だった。
血の気の引いた花菜の顔が。
「あ、あ、あ……」
「かなちゃん?」
私が手を伸ばすと一歩後退り。
私が近付けばまた一歩後退る。
震えるように首を振り、ダッと横断歩道へ走り出す。
「え?」
突然の事に不意を打たれた私は戸惑って動きが止まる。
そして我を取り戻した時には信号は再度赤へと変わり、全力の1歩目は2歩目の急ブレーキで無駄に陥る羽目になった。
花菜の背中を追っても止まる気配は無く、そのまま先へ先へと駆けていってしまう。
それに対して私はと言えば、この交差点には車は殆ど通らないと言うのに信号が変わるのを今や遅しと足踏みしながら焦っていた。
「どっ、どどどどうしよー?! ちょっ、まってよー!」
今か今かと律儀に待ち焦がれた青信号になり、私は全速力で花菜の後を追い掛けた。
既に花菜の姿は遠く、もう米粒程度になってしまっている。年の差があり足のそう速くない私でも負ける気はしないけど、とにかく離された距離がキツくて見失わないように私は走り続けた。
みるみる周りが知らない景色に移り変わり、不安に苛まれるが前方の花菜はどうにも進み方に迷いが無かった。
もしかしてどこかを目指しているのだろうか?
そうして数分ばかり、右へ左へと走ってもはや道順など覚えきれず、帰りは花菜頼りになるのは間違いない。
その花菜はと言えば私の追跡には気付かないまま、目的地なのか2階建てアパートの敷地へと入り階段を駆け上がって行く。
私は初めての場所という事もありキョロキョロと辺りを伺いながら慎重にソロソロと後を追った。
コンクリート製の階段にタンタンと靴音が鳴り、折り返しを経て2階に辿り着く。
そこにはいくつかドアが並んでいて、奥から2番目のドアの前で花菜は膝を抱えて座り込んでいた。
後から聞いた話ではそこは再婚以前にお母さんと花菜が2人で住んでいたアパートだったそうだ。
座り込むのが住んでいた部屋だったのか、ドアノブは開けようとしてか少し汚れていた。
(どうしたのかな?)
少しの間様子を見てみたけど、花菜がそこから先は動く気配は無い。
私はこのままにしてもおけないので、息を整え意を決して階段の影から出ていった。
「かなちゃん」
「えっ?!」
ずざっと音を立てて、花菜は後ずさる。顔には驚愕がありありと浮かんでいた。
「どこ行っちゃうのかってしんぱいしたよ」
「あ、う……ご、ごめんなさいっ……ごめんなさい、ごめんなさい」
鞄の紐を握り込み目を瞑って謝ってくる。
「うん。かってに行っちゃダメだよ、あぶないよ」
「……え?」
なでなでと頭を撫でる。
花菜がきょとんとする。
「?」
「……おこって、ないの?」
「なにが?」
「さっきの……ぶったの」
「……ああ、手をぶったから? あはは、べつにきにしてないよ、いたくなかったもん」
手をぷらぷらと振ってみる。まあいきなりでびっくりしたけど、あれで痛がる程貧弱でもない。
すると怒ってないと分かったからか、花菜はあからさまにほっとしていた。
「だから、ね。かえろ」
「……やだ……」
「えー、こんなとこにいたらおこられちゃうよ」
「ここ、あたしのいえだもん。へいきだもん」
そんな筈は無い。
私の家に引っ越したのだから解約しているでしょうに。まあ当時はそんな事知らないから「そうなの?」とか思ったけど。
「そんなにわたしの家きらいなの?」
「…………」
「それとも……わたしのこと、きらい?」
「…………」
花菜は否定も肯定もしなかった。膝に顔を埋めて、かすかに震えているだけ。
私は嘆息して踵を返し階段を降りていった。
近くにあった水道でハンカチを濡らしてギュッギュッと絞る。
そして再び階段を昇って行くと、何故か花菜が目を剥いていた。あれかな、私が呆れて帰ったとでも思ったのだろうか?
「手、出して」
「え」
ビクリと怯える花菜の前にしゃがんでその手を取る。
案の定どこかで転びでもしたのか手と膝が土で汚れている、服には付いていないのが救いか。ドアノブも汚れる訳だ。
「ん、きれいになった」
「……あ、りがと」
「どーいたしまして」
汚れたハンカチをランドセルにしまって横に置き、花菜の隣へと体育座り。スカートが汚れるかもしれないけど、まあ仕方無い。
花菜はそれにも驚いている。
「いいよ、気がすむまでいっしょにいるから。ちづるさんがかえってくるまで時かんあるし」
花菜を置いて帰るなんて出来ないし、花菜を追い掛けてきただけでそもそも道が分からないんだからしょうがない。
まだ日は高いので多少ここにいても問題は無かった。
そうしてしばらくはどちらからも話す事も無く、ぼけっとしているのも暇なので、横を向かずに声を掛けてみた。
「ね、なんでかえりたくないの?」
「…………こわいから」
「こわいって、なにが?」
「………………おじさん」
「お父さん?」
私はお父さんを思い浮かべる。最近髪を気にするお父さん、お腹が出てきたと悩むお父さん、花菜に避けられて落ち込むお父さんが次々と浮かぶ。
……恐い?
「おとこのひと、こわいからきらい」
「お父さんがいるからかえりたくないの?」
そう聞くと花菜は小さくコクリと頷いた。お母さんがいない時は部屋の隅にいるか、自室にこもるかしていたのはそれか、と納得する。
今はお父さんはいないけど、お母さんもいない。そんな時にさっきの事があったので私も怒らせたと思って逃げ出した、と。
「……むかしだれかにいじめられたの?」
「……わかんない」
今度は躊躇いがちに、言葉を濁す。
「そっかー……でもへいきだよ!」
「え……」
ばっと私は体ごと花菜に向き直る。花菜はそれに驚き固まっていた。
畳み掛けるように私は花菜に話し出す。
「ちづるさんがいなくても、わたしいるもん! いっしょにいればこわくないよ!」
にっこりと笑い、花菜の小さな手を握る。固く握られ強張った手からちょっとずつ力が抜けていく。
「でも……」
「だいじょーぶだいじょーぶ! いじめるやつなんかお父さんだってわたしがぼっこぼこにしてやるんだから!」
えっへんと胸を張る。
「……こどもはおとなにかてないよ」
「わたしお父さんにまけたことないよ!」
怒られた事はあったが。
そんな事は知らぬ存ぜぬと記憶の彼方に放り投げる。
思い出すのは何かの拍子に「お父さんキライ」と言ったらしょげかえったお父さんの小さな背中だった。
そんな事を誇らしげに思いながら、私はぎゅっと花菜の手を握った。
「だからへいき。わたしがいつでもいっしょにいてあげるからこわくないよ。しんぱいしなくていーんだよ」
にっと笑う。これでもかと笑う。きっと子供なりに花菜を安心させたかったのだと思う。
花菜は私の顔と握られた手を交互に見ている。やがてそれが止まると……小さく、小さく呟いた。
「……ほ、んと?」
「うん」
「いっしょにいてくれるの?」
縋るような瞳が私を見詰めていた。だから言ったんだ。
「あたりまえだよ、だってわたし、かなちゃんのおねえちゃんだもん!」
「おねえ、ちゃん……」
ゆっくりと、ちっちゃな花菜の手が私の手を握り返した。恐々と、でも確かに。
「ゆか、おねえちゃん」
それからしばらく、私たちは2人で座り込んだ。人が通らなかったのは運が良かったのか。
その間何かを話した訳でもないけど、ずっと手を繋いでいた。繋げた事が、なんとなく嬉しかった。
やがて陽が傾いてくると、どちらからともなく立ち上がり改めて帰路へと戻っていったのだった。
◇◇◇◇◇
これが初めてもめて、初めて花菜が私を『お姉ちゃん』と呼んだ日。
(ああ、そうか。あの日と同じだったのか)
あの時、ひと月のあの時。私は掴んであげなきゃいけなかったんだ、花菜の手を。
それが出来なくても、私もあの日と同じように追い掛ければよかった。追い掛けて、手を取って笑ってあげればよかった。それだけで、よかったんだ。
いつも一緒には無理でも、同じ場所には行けるのに。花菜はずっと待ってたのに。私に、勇気が足りなかったから……花菜に辛い思いをさせちゃった。
(まだ間に合うかな?)
(まだ待っていてくれるかな?)
(もし、待っていてくれるのなら、私は……私は……!)
喘ぐように呼吸して、顔を上げる。
私の目の前には家がある、入り口はすぐそこに。
(行ってみよう、あの場所へ。昔みたいに迎えに、だって私は……)
「花菜の、お姉ちゃんなんだから!!」
そして一歩を、踏み出した。
やっと名前が判明した主人公。
やっぱりね、最初は花菜に名前を読んでほしかったんですよ。なので主人公の本名がここまで遅れちゃいました。ごめんなさい。