その3 3人の家
K病院は全館禁煙で、喫煙スペースはどこにもない。
桐島はグレーに染まった吉谷の母親の髪を見下ろしながら、腰ポケットを探った。
「それじゃおれ……ぼくらは、そろそろこれで」
ベッドわきの椅子に座って息子を見つめていた母親は、立ち上がると、深々と頭を下げた。
「遠いところをわざわざ、ありがとうございました。お話もできなくて……
皆さんのお声は、聞こえていると思うんですが……」
「きっと、聞こえていると思います」
精一杯の声で、萩尾は言った。
隣で羽根が充血した眼をしばたたかせた。
酸素吸入器に心電図、さまざまな計器が脇に並ぶ個室のベッドで、吉谷サトルは瞳を閉じたまま、ただ静かに息をしている。
長い睫、高い鼻、ただ気持ちよく眠っているように見えるその顔が、いっそう痛々しかった。
「……主人は、いつかこんなことになるかもしれないから、宮司を継がせるのは無理だなと言っていたんです。ある種の能力は確かにあるけれど、人間的にダメなやつだからと。
情のままに女の子を渡り歩いて、我慢を知らなくて、無責任で優柔不断で。
でも親から見ればやさしい子なんです。誰でも受け入れてしまう、バカで無知で考えなしの子なんですが。
目を覚ましたら、いっぱい叱ってやりたいと思っています。目を覚ましてくれたら……」
じっと息子を見やると、やつれた表情の母親は目元をぬぐった。
車椅子や松葉杖の患者が日向ぼっこをする中庭で、3人は並んでベンチに座った。桐島が煙草を取り出すと、羽根がその手の甲をたたいた。
「中庭も禁煙。当然でしょ」
「わかったよ」
桐島は煙草をしまうと、下を向いてため息をついた。
「たまんないな。まだ21歳だぞ。あれきり目が覚めないなんて、どうにもこうにも考えたくない」
その夜、吉谷サトルはひとつの悲鳴も上げず、地に倒れた。
あたりに響いていたのは、頭を抱えた一人の若い女性の悲鳴だった。罠にかかった鳥のようなその甲高い悲鳴は断続的に続き、母親の悲鳴におびえた赤ん坊の泣き声がそれに続いた。
下宿屋のおかみが消火器を手に飛び出したのも、女性を襲う暴漢を泡だらけにするためだったという。だが彼女が見たものは、一段高くなった玄関のたたきに頭を乗せて仰向けに倒れ、耳から血を流している青年と、そのそばに座り込んで悲鳴を上げ続ける若い女性と、倒れたベビーカーの中で泣き叫んでいる1歳の男の赤ん坊、そして地面に落ちている大きな赤いリボンだった。
「言い争いみたいな声は聞こえてたんですよ」警察の事情徴収におかみはそう答えた。
「最初は女性の声で、どうして逃げたの、ずっと待ってたのに、あなたの子なのに、あなたが育てて、とか繰り返してました。で、だから違う、それは違うだろ、とかなんとか男性が。ぼくじゃないとか、お前もお前じゃないとか、あとはもうごちゃごちゃで、ああ迷惑な痴話喧嘩だなと……」
「おまえもおまえじゃない?」刑事はいぶかしげに聞き返した。
「よくわからないけどそんな風に聞こえたんですよ。そのあと、何かがぶつかるようなドンって音が聞こえて、すごい悲鳴が響いて。
だからてっきりお嬢さんのほうがやられたのかと」
加害者の名前は河本有香。23歳のエステティシャン。
吉谷と有香には、交際歴があった。
2年前、男性向けのエステティックサロンにお試し期間の客として訪れた吉谷は、有香と半年交際し、別れた。有香はそのときすでに妊娠しており、当人は周囲に、名門大学の学生の子だ、と話していたという。だが生まれた子は褐色の肌をしていた。
「東南アジアのホテルで臨時雇いの仕事したとき、現地の恋人ができたと聞きました。でも彼女は吉谷君の子だというほうにかけたんだと思う。そのぐらい、惚れてたから」
それが有香の友人の証言だった。結果、彼女は賭けに負けた。
出産後、彼女は実家に戻り気持ちを切り替えて子育てに専念、やがて子どもは母親に預けて新しい職場で忙しく働くようになっていたという。
そういう事情なら、なぜいまさらその彼女が吉谷の元を訪れていきなり襲ったのか、捜査側にとっても釈然としないところだった。それに、専門家に診察してもらっても、有香の「何も覚えていない」は、芝居ではないという。彼女は自分があの日、リボンを頭に結び赤ん坊を連れて吉谷の元へ向かったこと自体、記憶していないというのだ。ただ自分が吉谷を襲ったという事実に打ちのめされて、そんなはずはない、そんなはずが、と取り乱し続けていた。
「お前もお前じゃない、っていう言葉がほんとにあったとしたら、そのことを言っていたのかな」
萩尾はぼそりと言った。
「そのことって?」羽根が問い返す。
「そこにいるのは有香さんじゃない、という意味で」
「つまり、彼女は正気じゃなくて、なにかに憑かれていた。とか、そういうこと?」
「そう」
「なにに」
「……ぼくが見たもの」
「?」
膝の上で手を組んで、萩尾は言葉を探していた。
玄関の角に打ち付けられた衝撃でくも膜下出血、いつ意識が戻るかも戻らないかもわからない。そんな吉谷の容体を案じるのが何より先で、あのおぞましい記憶を持ち出すのは不謹慎にも思え、今まで黙っていたのだ。だが語るなら今を置いてほかにないと思った。
「先輩たちの作ったおもちゃが、ぼくの後をついてきたとき」
桐島が苦しそうに顔をゆがめた。後悔しているのは十分わかっていた。
「吉谷が携帯越しにぼくに魔よけの真言を教えてくれたのは、言った通りです。
そしてぼくはそれを叫んで、だからベビーカーは帰って行った、そう思ってた。でもそれがリモコンで動くおもちゃだったとしても、ぼくの前で口を開けたあれは、説明がつかないんだ」
「あれ?」2人が同時に聞き返す。
「黒い姿の、人じゃない何か。
透明で、顔は見えない。目も鼻も口もただ、穴だった。印象としては、髪の長い女。
ただ何か言いたそうに、口は開いていた。ぼかんって。あるいは、ぼくを食べようとしてたのかな。
吉谷の助けで真言を叫ばなかったら、あいつじゃなくてぼくのほうが多分、あれにやられていたんだ」
口を押えて沈黙したままの羽根と、黙り込んだまま目を見開いている桐島の前に、萩尾は鞄のポケットから大事そうに何かを取り出した。
神社でよく売っている、ひも付きのお守りで、表記は「身代わり御守」となっていた。
「あの廃屋から帰るとき、吉谷がそっと渡してくれたんです。たぶんぼくの身を案じてくれたんだと思う。
あのあとアパートに帰って、もらったときと触った感触が違うのに気づいて、思いきって中を見たら、こうなってた」
袋を開けると、萩尾はいくつか、ばらばらの木片のようなものを取り出した。
「寄せ集めてみたら、不動明王の絵のついたお札になるのがわかったんです。
これは、ぼくの代わりに割れたんだと思う」
重苦しい沈黙が3人を包んだ。
やがて桐島は下を向き、鞄のふたを開けた。
「じゃあ、おれも思い切って見せよう。多少のリスクはあるかもしれないんで、ためらってたんだけど」
ごそごそと鞄を探りながら、桐島は続けた。
「あいつのおやじさんとは事件後、個人的に連絡を取ったんだ。そして、あいつがスマホで撮影していた廃屋の画像があるはずなので見せてほしいと頼んだ。見ると危ないからという答えだったんで、かまいません、こちらに責めのあることだし自己責任で所持しますと言ったら、一応お祓いはしたというそのブツをプリントして送ってくれた」
そして取り出したミニアルバムをめくると、開いて差し出した。
萩尾と羽根は顔を寄せるようにしてアルバムを覗き込んだ。
小さなポケットに挟まれた写真の一枚。
お札を写したものに、名状しがたいものが写っていた。
一目では何か判別できないそれは、顔を離してみると、あちらから画面のこっちを覗き込むようにしている、さかさになった女の顔だということがわかった。
いや、女の、かどうかは判然とはしない。長い髪を振り乱して画面全体を覆うかのようなそれは、顔というよりは影法師で、ただ暗い穴のような目と口が漆黒に開かれ、顔の前にはリボンの端のようなものが垂れている。画面の上下には5本ずつ、まるであちらから写真をつかむような黒い指が写りこんでいた。
「これか。お前の見たものは」
「……だ、と思います」
萩尾は全身をふるっと震わせると、目を閉じ、アルバムを桐島に返した。
桐島はそれを受け取ると、さらに覗こうとする羽根を制して鞄にしまった。
「おれたちのベビーカーは模造品、有香さんが赤ん坊を乗せていたのは本物だ。
親父さんに事件現場の写真を見せてもらって確信した。
でも、ベビーカーの出所を警察は知らない。説明もできないことだけど」
「言わなくていいの」羽根の言葉に、
「言って何とかなるか? 素人に解決できる問題じゃない」重苦しい声で桐島は答えた。
萩尾は桐島の暗い目を見つめながら、声に力を込めて、言った。
「……この影が、奇形児と二人きりでこの家に住んでいた気の毒な母親だとするなら、呼び鈴を押して彼女を呼び出したのはぼくたちですよね。
そして、吉谷を襲わせたのも。
吉谷はある種の能力を持っていて、それをぼくのために使ってくれた。でも、目の前に現れた元恋人には使わなかった。事情が事情だから、覚悟の上で自分の身に引き受けたのかもしれない。
ぼくらにできることがあるのかないのかわからない。でもこのままでいいとは思えない。というか、しなくちゃならないんじゃないですか?」
あからさまな非難を含んだその目を見つめて、桐島は苦しげに言った。
「わかってる」
そして唇をかむと、先を続けた。
「警察に話さないというのは、あそこが捜査対象になるか、大家によって取り壊される可能性を避けたいからなんだ。
吉谷のおやじさんは結構霊験あらたかな人物で、月末に上京して、あの廃屋のお祓いをしたいそうだ。できれば大家ときちんと話をつけてからにしたいとおっしゃっていた。
個人的に謝っても謝り切れない話なんだけど、それでもできるだけのことはしたい。廃屋をあのままにしておいて、おやじさんのお祓いの手助けをしたい。
あとおれたちにできることは、祈って祈って、祈ることだけだ」
語り終えると、桐島は俯いた。
「……結局部長の言った通りになりましたね」
冷ややかな萩尾の言葉に、桐島は顔をあげて怪訝な表情をした。
「勇気を出して押す側に回ることで、世界の秘密が見える。
表からは見えない、秘めたる何かが。
……ぼくは見たくなかったですけど」
再び口を開こうとした桐島を羽根が制した。
「もうそこらへんにしてあげて。
一番悪いのはたぶん、わたしよ。
あなたたちを直接引っ張り込んだんだから」
そして、薄いため息とともに独り言のように言った。
「いろいろ考えると、このメンバーの中で一番『押し』に弱かったのは、オハギくん、あなたじゃなくて、吉谷君だったのかもしれないわね」
3人は中庭で解散した。
肩を並べて正門へ向かう部長と羽根を見ながら、あああの二人は付き合っていたのかとぼんやりと萩尾は思った。
眠り続ける吉谷のいる4階の窓は、うららかな秋の日差しの下で、ブラインドを下ろしている。
萩尾は閉ざされた窓を仰ぎながら、胸の中で呼びかけた。
吉谷。
ぼくの代わりに今、きみはそこで眠っている。
どういう言葉で感謝すれば、そして謝ればいいんだろう。
最初きみに会ったとき、ぼくはきみに親切にしたことを後悔した。
次に会ってからは、人生を調子よく生きてる鼻持ちならないリア充だと思った。
そして今、きみのことは……よくわからない。
まだなんにも、ぼくはきみをわかってないんだ。
ああ、きみと話がしたい、たくさんしたい。
まだぼくらは友達にもなっていないじゃないか。
いつかきっと目を覚ましてくれ。
吉谷。
きみの魂は今、どこにあるんだ。
ただの無の世界にいるのか。
それとも、長い長い夢の中をさまよっているのか……
ぴんぽん
薄い眠りの中に、呼び鈴の音が響いた。
吉谷サトルは重い瞼を開けると、目の前に垂れ下っている何かを無意識に引いた。
かちりと音がして、室内がぼんやり明るくなった。
「やべえっ」
遠くで声がして、あわただしい足音が走り去っていく。
聞いたような声だな。……なんだ、今のは。
呼び鈴押しといて。
ふと見やった窓の外は藍色に暮れている。室内に時計がないので、今が何時かもわからない。
改めて上を見上げて、自分が引っ張ったのが、電燈から長く下がったひもの先だということに気付いた。
寝たまま灯りが付けられるようにつなぐやつか。
自分でこんなのつけたっけ。
見渡せば、壁紙のはがれかけた壁際に紙おむつの袋が買ったままの状態で積み上げられ、ミルク用ポットが低いテーブルに置かれている。粉ミルク、タオル、おむつペールが並ぶかび臭い空間は、どう見ても自分の部屋ではない。
ふと隣に人の気配を感じて、右を向く。
並んで敷かれた湿った布団の上で、こちらを向いて、丸々と太った赤ん坊がきらきらとした目を開けていた。
顔の真ん中の、たったひとつの目を。
あれ、これはぼくの子じゃないな。サトルはただそう思った。だってぼくの子は、目がふたつ、あるはずだ。
……ぼくの子は。
子どもなんていたっけ? あなたの子よ、と言われたことはある気がするんだけど、どこかにいたっけ? あれ、どうして何にも思い出せないんだろう。
だがそんなことはどうでもいいように思われた。
ああ、麻酔にかかったように気持ちがふわふわして、やすらかで、のどかだ。
すべての境目を超えて、どこまでも自分が広がっている、そんな気がする。
あたりはしんとして、何の音もしない。
サトルは片手で、ひとつ目の赤ん坊を抱き寄せた。
目なんていくつでもいいよな。生きていればいいんだ、生きていればそれで。
そのときひしと、背後から細い手が抱きついた。
馳せ細った女の指が見える。這うようにして、ゆっくりと胸の前に回されてくる。長い髪が、ばさりと肩にかかる。背中に小さな胸の感触が当たる。
吉谷は女の指に指を添えた。
うん、いいよ。
ここにいてやるから。
ずっと寂しかったんだろ。ふたりきりで、すごくすごく寂しかったんだろ。なぜだかぼくはそれを知ってる。そして自分がここにいなけりゃならないことも知ってる。
ちゃんといてやるよ、安心して眠れ。
大丈夫、どこにもいかないから。
このまま、いつまでも、そばにいてやるから。