その2 来やがったな
「住人、いたんじゃ、ないですか」
コンビニ前の駐車場に座り込んだまま、荒い息の下で萩尾は言った。
「いない」
隣で吉谷が即答する。
「だって」
「写真撮ってたからわかった。あの呼び鈴はコード切れてた。電気メーターも取り外した跡があった」
「……え」
それじゃあ、と言いかけた萩尾を制して桐島が吉谷に聞く。
「お前さっき、ほかに何の写真撮ってた」
「なにって、がらくたとかお札とかポストとか」
「札か。……どんなお札だった」
「描いてあった絵から、不動明王のものだと思います。ひどく破れてたけど」
「不動明王か。……お不動さんでも信仰してたのかな」
「お不動さんって、そもそもどういう信仰?」羽根が唐突に問うと
「いきなり聞くなよ、一口で言えるほど物知りじゃないよ。その、空海の真言密教の……ええと……」
言葉を止めた桐島のあとを、吉谷が受けた。
「不動明王ってのは、大日如来の化身で、いろいろな仏の王。
人間界の煩悩とか欲望が天界に届かないように、烈火で焼き尽くす世界に住んでて、畜生道に落ちようとする外道どもを叩き直すパワーを持つとされる。で、そのパワーを身につけるための真言とか儀式とかがあるんだ」
「けっこう物知りなのね。じゃあ、真言ってたとえば?」
「たとえばって、ここで言って覚えられる? 臨兵闘者皆陣列在前……」
「あ、それ漫画で読んだことある。孔雀王だっけ? 吉谷君も読んだんだ。あれ、おもしろかったわよね」
微妙な表情で何か言い返そうとした吉谷を桐島が遮った。
「まあ、その話はいい。
肝心なこと。
今日の部活はこれで終わり。くれぐれも写真もやったこともネットに上げない。冗談でもだ。わかってると思うが、面白がるなら身内だけにしとけ」
「部活……」思わず独りごちた萩尾に
「面白かっただろ? 運動にもなったし」
冗談か本気かわからない表情で、桐島が言う。
「さて吉谷、ノートは明日渡すよ。お前ケツ出して一等賞だったしな」
「ハハ、助かります」
3人の淡々とした会話を浮かない顔で聞いていた萩尾に、不意に吉谷が声をかけた。
「後ろ向け、オハギ」
「ん?」
ズボンの尻ポケットに何か薄いものがねじ込まれる感覚があった。
「なにこれ」触れようとする手を押しとどめて、吉谷は言った。
「触らない。家に帰るまでそのまま。ぼくからの誕生日プレゼントだよ」
10月の夜空には細い三日月が出ていた。
最寄りの駅を出て、萩尾は一人とぼとぼとシャッターのしまった商店街を歩いた。
ほかの連中にはただの部活でいい。よくないのは自分だ。
2人に1人は呪われるって、じゃあ鳴るはずのないぴんぽんを鳴らした自分はどうなるんだ。誰もそのことを案じてもくれないのか。いや、結局いつものことか……
公園沿いの道を曲がったとき、萩尾の目の端に、違和感のあるものがすっと映った。
ぎょっとして立ち止まり、横目で確かめる。
屋根付きのバス停の下の、小さなベビーカー。
誰も乗っていない。少なくとも捨て子じゃない。それだけ確認して、萩尾はまた前を向いた。
次の瞬間痛みに似た戦慄が背筋を走った。
あれは。
車輪が曲がり、さび付いたぼろぼろのベビーカーは。
「押すな」と呼び鈴に書かれた、あの家。
……あの家の、
あの家の門の中にあったものだ!
早足で歩く。人けのない通りを歩く。ただ前を向いて歩く。
道の左右が公園になる。灯りはますます少なくなる。
アパートまであと500メートルあまり。
そのとき、
はるか後ろのほうから、乾いた音がかすかに聞こえてきた。
からからから、からからからから
脇の下を汗が流れ落ちる。
誰か……
誰かが押してるんだ、ベビーカーを。あれによく似たぼろいベビーカーを。ただの親子だ。ちゃんと見さえすれば。
ぎゅっと目をつぶり、開き、勢いをつけて振り向く。
その目に映ったものは、
青白い街灯の下、
ゆがんだ無人のベビーカーがゆっくり、ゆっくりと、
ひとりでにこちらに向かって進んでくる、
うすぼんやりとした悪夢のような風景だった。
ぴぽぴぽぴぽぴぽ。携帯の着信音がいきなりポケットの中で鳴り響いた。
萩尾はぼろぼろのガラケーを震える手で取り出した。
「は……い」
『ジスイズ、吉谷スピーキング』
地獄に仏のような気分で、萩尾はその声を聞いた。
『いろいろあったしちょっと気になってな。あのさ、お前、変わりないか、今』
「ある」萩尾は即答した。
ストレートな答えに、吉谷は瞬間沈黙した。
『やっぱりか。何が起きてる。手短にいえるか』
「ついてきてる」
『何が?』
「ベビーカー」
闇のはるか向こうで、吉谷が息をのむのが分かった。
『あの家の、……か。間違いないか』
「柄と色を覚えてるし、車輪の曲がり具合も、たぶん」
『……』
からからからから。かすかな音は、早足で歩く萩尾の後を、まっすぐに追ってきていた。
『どのぐらい距離がある。誰か押してるのか』
「誰も押してない。後ろ、50メートルぐらい」
前を向いたまま答えるその声は、自分でもはっきり分かるほど震えていた。
『……やっぱりな。あんなことしちゃいけなかったんだ、まじで』吉谷の声音には後悔の苦しさが漂っていた。
『いいか、オハギ。落ち着いてぼくの言葉を聞け。
お前に渡したのはいつも身に着けてるぼくのお守りだ。ちゃんとあるか』
萩尾は泣きそうになりながらがさがさとズボンのポケットをまさぐった。
「ある、ここに」
『じゃあしっかりと握れ。なんか知らんがそいつはかなり効力があるやつらしい』
「これ、どうすれば。これ、これ、持ってるだけでいいの」
『泣き声出すな、ちゃんと聞け。オハギ、あのときぼくが羽根に教えたまじない、覚えてるか』
「ま、まじない…… て、なんだっけ」
『じゃあ今覚えろ、いいか。りん・ぺい・とう・しゃ・かい・じん・れつ・ざい・ぜん、これだけでいい。あとの真言はこちらで唱えてやる。今言った言葉が最強なんだ、九字護身法といって、あらゆる魔から身を守る真言だ』
「な、なに? もう一度」
『りんぺいとうしゃかいじんれつざいぜん。唱えながら胸の前で手で空を四縦五横に切れ』
「ええ? もっとわかりやすく」
『胸の前でタテヨコに十字を切りながら、叫ぶんだ』
からからからからからから
「もう、すぐ後ろだ。よしたに。どう、どうしよう」その声はほとんど悲鳴だった。
『言うとおりにしろ。ぎりぎりまで来たら、尻のお守りを取り出して振り向け、目を開けて。一瞬でもいい、相手を見るんだ。そしていうんだ、りんぺい……』
シャーッという雑音とともに、いきなり通話は切れた。
「吉谷。よしたに!」
携帯のバッテリーがすっと落ちた。
震える膝は今にも崩れ落ちそうだ。
あとひとつ曲がり角を曲がればアパートが見える。
振り向け? 目を開けて、振り向け? 見ろ?
からからからという音は、振り向いて大股で5歩も歩けば到達するだろうというところまで来ていた。間に合わない。
やるしかない。
ヒイラギの垣根を曲がると、萩尾はほほに涙をこぼしながらがっと振り向いた。
その眼前に、黒い影法師が、細い女の形をした透明な闇がぼうと突っ立っていた。
目も鼻も口もすべてが黒い穴となって穿たれていて、ただ口のみがぼかりと大きく開いている。
見た。一瞬でも見た!
萩尾は目を閉じると、取り出したお守りを握りこんだ手で、十字を切りながら大声で叫んだ。
「臨! 兵! 闘! 者! 皆! 陣! 列! 在! 前!
ノウマクサンマンダ バザラダンセンダ、マカロシャダ ソワタヤ ウン タラタ カン マン!」
そのあと自分が何を叫んでいるのかよくわからなかった。
言葉は自然に自分の口を借りてあふれてくるようで、ああこれは吉谷が時空を飛ばして言わせてくれているのかと、どこか遠くで思いながら萩尾は絶叫していた。
音はやんだ。ただ静寂だけがあった。
うっすらと開いた目の先に、あの、人の形をした闇はもうなかった。
曲がり角の向こうで、からからからからという音が再び始まったかと思うと、静かにゆっくりとそして着実に遠ざかっていくのを、萩尾は茫然と突っ立ったまま聞いていた。
音が聞こえなくなると、萩尾はその場にへたへたと座りこんだ。
汗びっしょりの掌を開くと、汗を吸ってしっとりと重い、刺繍飾りのついた黒いお守りの表面に、
<身代わり御守>という赤い縫い取りが見えた。
『終わったか』
「うん」
『首尾はどうだ』
羽根は手の中のスマホに口を寄せて声を潜めた。
「なんかすごい声で叫んでたわよ。あの、孔雀王に出てきた呪文。オハギ君、半分泣いてたし。へたり込んでると思ったら、すごい勢いでアパートに飛び込んでったわ」
『そりゃ見事にはまったな』
桐島の含み笑いを聞きながら、深夜の駐車場の隅で、羽根は目の前のベビーカーを見た。
車輪と車輪の間には、小さなモーターが取り付けてある。
「ちょっと、やりすぎ……。じゃ、ないかなあ」左手のリモコンをいじりながら羽根は言った。
『まあ、明日会って種明かしをすればすむことさ。よく考えればあるはずないってわかるだろうし、自分がどういうサークルに属しているかを考えれば』
「萩尾君、追いつかれる直前に携帯でたぶん、吉谷君と話してたと思う。そのあと早口で何か唱えてたから。でも吉谷君も、よくあんな長い呪文みたいの知ってたわね」
『吉谷のおやじは宮司だからな』
「ぐうじ?」
『実家が神社だとか、一度だけそんな話して、それっきりだからよくは知らないけど。あんな怪しい世界継ぐのごめんだからってあいつ、地方から東京に出てきたらしい。だから知識だけはある』
「じゃあ、この悪ふざけがばれたら相当怒るんじゃない?」
『ま、でも最初からばらしてたらこんなバースデーイベントに協力はしなかっただろうし。ノートくれてやればそれですむだろ。で、オハギにはリモコンつき電動ベビーカーをプレゼントと』
「でも、計画は計画通りにしてもらいたかったな。オハギ君のときだけピンポンが鳴るとか、二階に灯りがつく仕掛けまで、いつの間にやってたの」
『あれ。お前がやったんじゃないの?』
「やらないわよ、そんな手の込んだこと」
『お前が仕掛けたと思って、おれは派手に反応してやったんだぞ』
「それはこっちのせりふよ」
『え? じゃあ、あれ……』
桐島と羽根は同時に沈黙した。
何度電源を入れなおしても、電波は微弱で通話もできない。
吉谷は舌打ちしながらスマホをポケットに戻した。
通話が不可能になったことがいっそう胸を騒がせていた。オハギ、無事か。明日にならなければ、顔を見なければ、あの後のことは確認できないのか。
とりあえずオヤジに写真は送っておいた。あの影については、あとから相談しよう。
考え込みながら歩く住宅街のその先に、吉谷の下宿はあった。
古い家屋の4部屋を学生向け賃貸にしているしけた木造二階建てだ。錆びた鉄の門の上には手入れされていない庭木がぼさぼさとたれかかり、昼は木陰を、夜は街灯の届かない闇を作り出していて、鍵を取り出すときいつも苦労する。
小物入れからちゃらりと鍵を取り出したそのとき、いつも半開きの鉄の門の内側に、小さな車輪が見えた。
吉谷はぎょっとして、鍵を持った手をそのまま静止させた。
そして背をかがめ、そうっと門の内側を覗いた。
観音開きの古い玄関の前に、黒いシルエットとなったベビーカーの姿があった。
ゆがんだ車体がかすかに揺れている。
背もたれは丸くたわんでいて、ドアに向けて蹴り上げる小さな足が見える。
あー。
赤ん坊の声が、弱った猫の鳴き声のように聞こえてきた。
たんたんと、小さな足が何度も宙を蹴る。
……来やがったな。
ただその確信だけが胸を冷たく貫いた。
一歩、もう一歩、そして一歩進んで、吉谷はベビーカーの横に立った。
上から見下ろす小さな日よけの下で、毛糸の帽子をかぶった頭が左右にふらりふらりと揺れている。
あうあー。
ふと異様な気配を感じて振り向いた吉谷の鼻先に、ばさばさの前髪を顔に散らした女が、棒のように立っていた。
頭のてっぺんには大きな赤いリボンが揺れている。鉄骨のような細い五本の指が吉谷の肩にぽんと置かれ、ぎりりと食い込む。
凍りついた瞳でただ見つめる吉谷の顔を覗き込むようにして、まっくらな顔の女は囁いた。
「お 帰 り な さ い」