その1 押せ!
「押し方やめ。オハギ、計測!」
「はいっ」
部長に言われて萩尾はポケットから金属製の巻き尺を取り出した。
実験棟の壁に向かって並ぶ部員たちの足元にかがみ、端をぴたりと外壁につけて視線を上げる。
「吉谷、押さえててくれる?」
「はいよ」
ライトブラウンの髪にブルーグレーのデザインTシャツが嫌味なく似合う吉谷が屈みこんで細い指で端を押さえる。
2浪で今年入学、萩尾より3か月早くこの奇妙なサークルにつかまった彼はここ、理系の蟻地獄と言われるR大では完全なレアタイプだ。
それに比べて、レンガ色のチェックのシャツに眼鏡の萩尾は、代表的通常種だった。
石畳の道を北へまっすぐ、創立者の石碑へ走り、台座に端をつけて目盛を叫ぶ。
「20.22メートルです」
小数点以下は、「測り手の裁量」だ。手首を緩めればなんとでもなる。
「よし、喜べ諸君。先週より1ミリ伸びている。ということは、南に位置する本キャンパスに1ミリ近づいたぞ!」桐島が高らかに宣言する。
「おー」
「残り15500.53メートルだ。押して押して押しまくるぞ!」
「おー」
唯一の女性部員の羽根と吉谷、そして萩尾の3人が並んでぱちぱちとおざなりな拍手をした。後ろをゆく学生たちはそれぞれノートに顔をつっこんだまま、こちらを見もしない。
吉谷が今週の記録をでかでかと紙に書くと、羽根が器用にマジックで上から花文字のようにレタリングした。そこに部長の桐島がサインする。
今週の本キャンパスとの距離、1ミリ縮減を確認、桐島一馬。
目指せ都心!
「よし、次の活動だ」成果を掲示板に張り出すと、桐島は上機嫌で言った。
「成果も出たことだし」
「次ってなんすか。ぼく、帰ってレポート書かないと」おずおずと萩尾が言うと
「路地裏の散歩だ。いい物件を見つけた」
「物件?」
「押すとすごいことになる秘密のスイッチを見つけたんだよ」
「スイッチ……」
「実験棟よりは押し甲斐があるぞ。とにかく行こう」
「……」
4人はそのままぞろぞろと校門を出て、駅とは反対方向の寂しい住宅街に入った。
R大Kキャンパスは東京の北のはずれ、埼玉のほど近くに位置し、去年新設したばかりで施設はどれもピカピカだった。
何もかもが新しい香りに包まれ、歴史や伝統や土地の記憶や匂いは何もない。
入学した日、建てたばかりの中身のない博物館のようだと萩尾は思った。
そして一週間でいろいろと、ないものに気づいた。
ロッカーがない。クラブ棟がない。講義講義で潰されて休日祭日がない。女の子が極端に少ない。大学周辺にカフェも書店もない。あるのは無機質的で不機嫌で不寛容な教授陣と、冴えない表情のメガネ学生の群れだけ。
そう、都内の大学の中でも、ここR大は新入生の3割という驚異の留年率を誇る厳しい理科系の大学なのである。だが院を含め6年で過程を終えたならば、人もうらやむ就職先が約束されていた。
萩尾が、どうしてこの奇妙なサークルにつかまったか。それには多少長い説明が必要になる。
ある日、学食でテキストを見ながら好物のおはぎをモソモソ食べている萩尾の隣に座った女の子が、唐突に話しかけてきたのだ。
「ね。隣、いい?」
「はい、どうぞ」微妙に視線をずらしながら萩尾は答えた。たったそれだけのことに胸がばくばくと高鳴った。
「1年?」
「はい」
「オハギ好きなんだ」
「え、まあ。田舎で母がよく……」
「ここ友だち出来にくいでしょ、みんな個人行動派だし。わたし2年なんだけど、何だかんだで日常口がきけるのはサークルの仲間ぐらい」
ふと見れば胸に「押せ!」とかいたTシャツを着ているではないか。
たいして美人とは言えないが、色白な頬に散るそばかすがアニメのキャラのようにチャーミングで、反り返ったまつ毛もつんと上をむいた鼻先も愛らしかった。
そしてなによりTシャツを押し上げるおっぱいは目視でEカップはあった。
「……そうですか」萩尾は内心の動揺を隠すように目を伏せた。
「ね。ちょっと押してみない?」
「は?」
余裕を失った視線とEカップのおっぱいがもろにぶつかった。
お、押してみろ?
「いいじゃない、一度ぐらい」彼女は堂々と胸を突きだしながら迫ってくる。
「いや、いやいやいや」
「最近誰も押してくれないの」
「そんなことを言われても……」
「ちょっとあっちで。ね?」
「あ、あっちで?」
わたわたしながら引っ張られて行った先が、講義棟と向かい合った実験棟の裏だった。そこには暇そうな顔をして「モーターと車輪のついたゆで卵」を走らせている2人の男がいた。
萩尾と女の子を見ると同時ににやりと笑って立ち上がり、でかいほうが口を開いた。
「来たか。やる気満々というわけか」
「はっ?」
美人局か! と逃げ腰になった萩尾の腕を掴んで、長髪に表情を隠したまま大男が言った。
「どこへ行く。おれは桐島一馬、サークル『押せ!』の代表だ。これからきみのつまらん学生生活を輝かせる恩人だ。で、きみの名は?」
「萩尾 千里……」反射的に答えてから、萩尾は慌てて付け加えた。
「いや、ぼくはサークルとかそういうつもりで」
「じゃあどういうつもりだった」
「いやその」
そのとき、長髪の隣に立っていた茶髪のイケメンが あ、と声を上げたのだ。
「きみ……、か。あのときはありがとう」
「は?」
「入試の時、芯貸してくれたろ?」
今度は萩尾が、あ! と声を上げる番だった。
入試当日、開始10分前、隣の席であたふたと鞄を探っていた男。
青い顔に冷や汗を浮かべた苦悶の表情を見て、萩尾は思わず声をかけたのだ。
「どうかしたんですか?」
「いや……。あほだ。シャープペン、買ったばかりの持ってきたのに、芯忘れてる」
「じゃ、よかったらこれ」
元来用心深い萩尾は、予備も含めてシャープペンの芯をふた箱、持ってきていた。
「まじか! ありがとう、心の底から感謝するよ。終わったらなんかおごるから」にっこり笑った顔は、思わずずるいぞこいつ、と舌打ちしたくなるぐらい恋の矢的中なイケメン面だった。女ならここで運命の鐘の音を聞いているところだろう。
だが試験が終わった途端、会場内にいた友人に声をかけられた彼は、萩尾に視線もむけずにそのまま席を立ったのだ。
別にいいさ、萩尾はつぶやいた。こんなの慣れっこだ、よくあることだ。
「あのときは悪かったな、いつかちゃんとお礼したいと思ってたんだ。ぼくは吉谷サトル、よろしく」
「わたしは羽根直子」巨乳女子が吉谷に続いて掌を差し出した。
「で、きみも勘違いしたクチだろ、彼女のTシャツで。ぼくもだ。ははは」吉谷は歯磨きのCMに使えそうな輝く前歯を見せて笑った。
立て続けに握手をしながら、なんだかのっぴきならない方向に引きずられていく自分を萩尾は感じていた。
「奇遇に乾杯だな。さて萩尾君、力いっぱい押してくれたまえ」桐島部長が建物の壁を指さしながら言い放った。
「何を……」
「この壁をだ」
「なんで、壁……」
「いいから力いっぱい押すんだ!」
「は、はいっ」
その日、なにがなんだかわからないままの萩尾の「渾身の押し」でR大実験棟は本キャンパスに1ミリ接近し、総勢3人だった「押せ!」サークルは拍手の中で4人になったのだった。
桐島の話では、このサークルは、当初はわりとまともなものつくり部だったということだ。
名前は「動け!」ではなく、「押せ!」だったという。靴や部室の椅子やテーブル、校内の台車、忘れ物の傘、目についたものに片っ端からモーター付きの四輪を付けてあちこち走り回らせていたのだが、熱中するうちに部員3人が早速単位を落とし、退部した。
それ以来「動け!」部は「押せ!」部に名前を変え、物は押して動かすのだ、という主義に移行したという。そして、このいけ好かない大学を押して押して都心の本キャンパスまで持っていこうという目標を掲げて迷走し始めた。
サークルも多く女の子もいて部室棟のある本キャンパスに。
周囲に駅前商店街以外の街灯りのある本キャンパスに。
いつかきっと到達するのだ。
「そうだ、19歳の誕生日おめでとう」
秘密のボタンとやらに向かってぞろぞろ夜の街を歩きながら、羽根が萩尾に言った。
「あ、どうもありがとうございます」
「一応あげるもの用意してるの」
「え、嬉しいな」萩尾は素直に声を上げた。
「なんだろう。予想つかないな」
「後でわかるから楽しみにしてて」
「自分も楽しみにしてますから」横から吉谷が口を出す。
「なにをよ?」
「ぼくも来月誕生日なんだ」
「さーね、どうしようかなあ。キミはほかにいろいろといらっしゃるんでしょ。
それもかなーり年上のお姉さまたちと組んずほぐれつって噂じゃない」
「人聞きの悪い。ただ押しに弱いほうなんで、頼まれたら断れなくて付き合ってるだけで」
だからあの胸に押されて転がり込んだのか、とそっと萩尾は思った。
「お前は同年代口説く前に女関係整理しろよ。そのうち刺されるぞ」桐島が横目でにらむ。
「嘘は言ってないんですけどね」
「黙れ」
はっ、と肩をすくめて笑うと吉谷はそのまま黙った。
しょぼい商店街が途切れて暗い住宅地を10分ほど歩いたころ、桐島は傾いた二階家の前で足を止めた。
「ここだ」
街路灯もまばらな住宅地の中で、その家の周辺はさらに薄暗く、家の造りも分からないほどびっしりと分厚い蔦に覆われていた。
肩の高さほどのブロック塀はあちこち崩れ、外れかけた門の内側はガラクタだらけだ。
車輪がひとつの自転車、縛った傘の束、ポリ袋、破れた鯉のぼり、錆びたベビーカー……
「えらく荒れてるな。空き家かな」吉谷が呟く。
「住人は5年前自殺したそうだ。なんでも、ピンポンダッシュでノイローゼになったらしい」
表札は見当たらない。桐島は門の脇のブロック塀の蔦を指でつまみ上げた。と、その下から古い呼び鈴が現れた。
ボタンにはガムテープが貼られ、さらにその上から赤いスプレーでいびつな文字が書いてある。
『押すな』
瞬間、萩尾は背筋に怖気が走るのを覚えた。
「二週間前偶然見つけたんだ。押し甲斐のありそうないい物件だろう」得意そうな表情で桐島が言う。
「ですねえ」呑気な口調で羽根が答える。
「今日はひとつ、これを押してみようと思う」
「いや、これはちょっとまずいんじゃ……」
抵抗したのは萩尾一人だった。吉谷は眉間にしわを寄せ、ごそごそとポケットからスマホを取り出して、玄関ドアに張られた古いお札や壊れたがらくたの写真を撮ったりしている。
桐島はもったいぶった口調で説明を続けた。
「聞き取り調査の結果、住んでいたのは赤ん坊とふたり暮らしの若い女だとわかった。
赤ん坊は何か重い障害を持っていたらしい。目に見えるかたちの。つまり、奇形だな。
子どもを見た夫に逃げられて、それでも一心に帰りを待っていたそうだ。頭がいかれてからはいつも厚化粧をして、頭には赤い大きなリボンを結んで。
呼び鈴が鳴るたびに飛び出してくるのを面白がって、近所の悪ガキがピンポンダッシュ攻撃をかけた。ブチ切れて襲いかかって何人かに怪我させた挙句、赤ん坊を道連れに心中したらしい」
勘弁してくれ、と萩尾は思った。むちゃくちゃヘビーじゃないか。
「以来、この空き家には伝説ができた。なんでも、押すなと書かれたこの呼び鈴を強引に押した人間の2人に1人が確実に呪われるそうだ。何かとんでもないことが起きる、とだけ噂で聞いたが、その先の具体的なことは知らない。
どうだ、押す価値はあるだろう?」
気がつけば、全員の目がこちらを見ている。
ああ、他の部が選べた4か月前、入学当時に戻りたい、と痛切に萩尾は思った。つくづくこんな暇つぶしサークルに入るんじゃなかった、だいたい自分のポジションは見えてたじゃないか。
「そういうことよ。オハギくん」羽根が背に手を回してきた。
「ちょっと楽しんでみない?」
「いや、もう、十分楽しかったですから」
「まだ入り口よ」
「ぼくひとりですか。全員で押したらいいじゃないですか」
「じゃあ吉谷。一緒に押すか?」部長が唐突に声をかけた。
「ええ?」吉谷がスマホから目をあげた。
「いや、ちょっと賛成しかねますね。ぼくこういうの特に向いてないし」
「ぼくだって向いてないです。誰よりも向いてないです、見ればわかるとおり」悲鳴のような声で萩尾が続ける。
桐島は長髪の下の細い目で萩尾の目を見据えると、肩に両手を置いた。
「なあ、萩尾。世の中には二種類の人間がいる。押す奴と、押される奴だ」
「はあ」
「お前はどこから見ても押される奴だ、いろんな意味で。押され押されて押された方向によろめきながら生きてきた。そうだろ?」
言われてみれば確かにそうだ。難関中学を受験したのだって親に同意を求められた覚えすらないし、エスカレーター式に押し上げられた高校では最低でもMARCH以上に合格しないと授業料を無駄にしたことになると脅されたし、この大学だって親が就職に有利だとただそれだけの理由で是非行けと「押して」きたのだ。
「だかこのサークルに入ったことで、お前は動かされる側じゃなくて動かす方、押される側じゃなくて押す方に回ったんだ。そうだろ?」
「うーん……」
「世界は誰かにいろんなスイッチを押されて動いている。動いているものにのっかってる奴にはそのからくりが見えない。だが勇気を出して押す側に回ることで、お前には世界の秘密が見えるんだ。表からは見えない、秘めたる何かが」
「……そんなもんですかねえ……」
なにか立派な演説を聞いた気がするのだが、やはりこれを押すことと子どものピンポンダッシュの違いは萩尾にはほとんどわからなかった。
「ということで、吉谷、オハギ。押せ」
「よしたほうがいいと思うんだがなあ」前髪をかき上げながら吉谷が呟く。
「お前の人生にはど壺が足りない。何だかんだでうまく立ち回ってきたんだろ、たまには地雷を踏んでみろよ」
「んな無茶な。こう見えていつだってど壺ですよ」
「お尻を出した子一等賞」桐島はポケットからくちゃくちゃのショートピースの箱を出しながら歌うように言った。
「先に押したほうにおれのゴッドレポートをおごるぞ」
「え、まじっすか」
にわかに吉谷の目が輝いた。萩尾、吉谷と同じ電気工学科に在籍する桐島の過去ノートと実験レポートのコピーは、神のノートと呼ばれるグレードで、単位を落としかけている落ちこぼれのプラチナノートと呼ばれていたのだ。
「吉谷、いきます」一度でも留年したら退学させると親に脅されている吉谷は嬉々として手をあげた。萩尾は慌てた。
「え、ほんとにやるの」
「なんかくっついてきたら払えばいいのさ。日常めったに使わない言葉で行かせてもらおう。
ええい、ままよ」
長い指でぐいと押す。
無音。
何の変化も反応もない。
蔦に覆われた廃屋は、がらくたを抱き込んだまま夕闇の中で黙り込んでいる。
家を見上げて、吉谷はふう、とため息をついた。
「さて。レッツオハギ」
こちらを見ながら桐島がにっと笑う。
萩尾は汗ばんだ握り拳から人差し指を一本、出した。
どうせ押さなきゃならないならとっとと押して終わりにしよう。もしかして何かの変化が起きて、世界のからくりが見えるならそれもいいじゃないか。
えい。
ぴんぽん
4人はぎょっとして顔を合わせた。
「今……」
口を開いたのは萩尾だ。
「聞こえたよな、家の中から」吉谷が受ける。
「ちょっとやめてよ。嘘」
羽根が震え声で受けた直後、真っ暗だった二階の窓に、厚い蔦を透かして
ぼう
と、オレンジ色の灯りがともった。
「やべえっ」
桐島が一声叫ぶと、はじかれたように全員が一目散に駅の方向に向かって走り出した。
それぞれがそれぞれの尻より一歩でも先に出ようとあがき、両手を振り回し店先のゴミバケツを蹴飛ばす。足を取られた羽根が巨乳をバウンドさせて歩道に転がる。け躓いた萩尾がその上にかぶさる。ローライズのパンツから尻の割れ目まで見せて、吉谷が駅前のコンビニ前のポストにしがみつく。
その背後で桐島部長が、しゃがみこみながら咳き込んだ。