幸せのプロローグ
1
そろそろ行こっか。
彼女はそういうと、足元にあったぼくのエナメルバックを持ち上げた。
「あ、ごめん」
僕は急いで彼女の手からそれを受け取る。
今日授業で使った柔道着を無理やり詰め込んだせいか、ぼくのエナメルバックはどこかいびつだった。色が茶色いせいからか、ガマガエルを想像させる。肩にかけると、柔道着の帯と思われる凹凸がぼくの腰を執拗に苛めた。
「何か変」と彼女はクスクスと笑った。
「笑わないでよ」
「だってそのエナメル、池田先生みたいなんだもん」
彼女は胸をおさえ、ふうと深呼吸をした。一瞬笑い声は止んだが、すぐすると、また可愛らしい笑い声が聞こえる。
「そんなに変かなぁ」と言い返すぼくも、確かにこのガマガエルは池田先生そっくりだ、と彼女の的確な表現に感心していた。
池田先生は、僕たちのクラスの担任。教科は日本史担当。いわゆる熱血教師で、なにかと東郷平八郎の魅力について語る。東郷平八郎ならなんでもいいのか、全く関係のない場面でも、必ず彼のことをいうのだった。僕らが3年生に進級した日も「受験はT字戦法だからな」などと訳のわからないことを叫んでいた。
そんな池田先生も、授業には定評があり、男子生徒からは人気だった。しかし、顔にイボがあり、そこが女子に嫌われていたらしい。本人はほくろだと言っているが、それは大きなニキビに他ならず、陰で生徒からはカエルと呼ばれていた。
ぼくはなにかと池田先生のお世話になっていた。というよりも、池田先生はぼくを過剰に心配してくれた。
教師という夢も、池田先生が薦めてくれた。まだ教師になると決めたわけではないが。
「おまえは頭がいいし、人に教えんの上手いだろ?だから教師なんかがいいんじゃねえのか」そう言って先生はぼくに教師の魅力を語ってくれた。でも実際、途中で東郷平八郎の話に突入して、正直そっちの話の方が印象深かった。
「今日からは池田バックだな」
ぼくはボソッとつぶやいた。どうやら彼女は気づかなかったらしい。
「よし」と彼女は腕時計を見て、机の下に落ちていた黄色く短いチョークをゴミ箱に捨てた。
「帰ろう」
「うん」
僕たちは教室を出た。そろそろ日がくれる頃なんだろう。外からからすの鳴く声が聞こえる。ぼくたちは階段につくまで無言で歩いた。
ぼくはいつもそう。
自分から話しかけることができないのだ。いわゆる優柔不断。彼女とでさえ、あまり自分から話しかけることはできない。
告白の時も、そうだった。
メールで放課後の教室に彼女を呼び出し、告白をしようと試みた。あれからまだ1ヶ月しか経っていないと思うと、月日の流れる感覚が鈍る。
部活を終え、練習着のまま彼女は教室にきた。
「話ってなに?」
何も言えずおどおどとしていたぼくを見て彼女は聞いた。
それでもしばらくなにも言えずに黙っていたぼくをみて彼女は急にクスクスと笑いだした。
「もしかして、告白?」
その瞬間、胸が締まり、息が苦しくなった。視界が急に狭くなり、皮膚から汗が噴き出した。
「告白なの?」
彼女は軽く首を傾げ、またクスッと笑った。
「うん」
その短い返事が精一杯だった。優柔不断というより、ただ単に緊張していたのだろう。足が震え、声が裏返そうになる。
「いいよ」
彼女が言った。
「え?」
思わず聞き返してしまう。
「私和也くんのこと好きだから、付き合おうよ」
それが、ぼくの幸せのプロローグだった。
2
「待って和也くん、これなんだかわかる?」
階段を降ろうとするぼくを止めて不意に彼女が言った。
手には鍵を持っている。薄汚れていて、どこにでもあるような鍵。見たことがあるようなないような、なぜかいつも近くにあるように感じる鍵だった。
「何その鍵?」
「これね、屋上の鍵」
彼女はニコッと笑い、上を指差した。
「天文部が昨日学校に泊まって屋上で天体観測したんだって。だから天文部の友達に鍵を借りたの。一緒に屋上行こう」
彼女はぼくの腕を掴み、そのままぼくを引きずるようにして階段を登っていく。
「ばれたら怒られないかな?」
「怒られるよね、たぶん。」
彼女は笑いながら「まぁ大丈夫、任せて」と言った。
優柔不断なぼくは、彼女に色々なことを任せていた。いつも一緒に帰ろうというのは彼女、休日に出かけようというのも彼女、学校を出る時間を決めるのも彼女だった。ぼくはそれで満足していたし、彼女もそんなぼくを許してくれていた。
屋上にはもちろん誰もいなかった。
校庭から、サッカー部のかけ声や野球ボールがバットに当たる音、学校の目の前を通る電車の、線路と車輪がこすれ合う音、色々な音が混ざって聞こえた。
僕たちは屋上の端の方に座った。
校庭が一望できる。周りに視界をふさぐものがなにもない。
「わあ、みて」と彼女が空を指差した。
「すっごく綺麗」
「本当だ」
空がすごく綺麗だった。夕日が町を照らし、じわじわと赤く滲んでいくのが見下ろせた。その赤さが跳ね返り、空を流れていく鱗雲に映っている。
「和也くん、教師を目指すんだっけ?」
彼女が聞いてきた。
「うーん、悩んでるんだよね」
「だろうね」
彼女がクスクスと笑う。
「そんなに面白い?」
「ううん」
でも、と彼女が続ける。
「何だか和也くんには、他にない安心感を感じる。親近感っていうか、付き合う前から、和也くんには不思議な感情を抱いてたんだ」
「それって」
ううん、と彼女が手と首を横に振る。
「好きとかじゃなくて。なんか全然ちがうものをさ」
そこまで否定しなくてもいいじゃないか、と思いながらも、慌てて否定した彼女に笑ってしまう。
「本気で和也くんのこと好きって思ったこと、一回もないもん」
「えーなにそれ」
「あ、ごめん。別に嫌いって言ってるわけじゃないよ」
「もっと傷つくよ」
ぼくは、必死にフォローしようとする彼女が面白くて、声をあげて笑ってしまう。
すると彼女は僕の方に体を向け、「やっぱり好き」と言い直した。
きっとぼくは彼女のそういうところに惹かれたんだろう。どこかふわっとしているが、真面目でひたむきなその性格に。
「本気で好きって思ってるとさ、長続きしないと思うんだ」
彼女はそう言うと、ぼくの右肩に顔をのせた。
「生き物ってさ、寿命はそれぞれ全然違うけど、一生のうちに心臓が鼓動する数ってだいたい一緒なんだって。」
「あぁ、それ知ってる」
「つまり、はやく鼓動すれば寿命は短いし、ゆっくり鼓動すれば寿命が長いの。それって恋も同じだと思うんだ」
「え?」
「つまりさ、一緒にいるだけでドキドキするほど好きな人と恋しても、それはエネルギーを多く使っちゃうから、寿命が短いんだよ」
なるほど、と僕は頷く。
それは遠回しに、僕と一緒にいてもドキドキしないと言っているのだが、ぼくは全く気にしなかった。
むしろ、彼女にとってそういう存在でよかったと安心する。
「じゃあ、ぼくたちは長続きするのかな?」
「たぶん、恋の寿命より先に命の寿命がきれちゃうね」
彼女はクスクスと笑った。僕もつられて笑ってしまう。
「先生の見回りあるから、そろそろ行こうか」
しばらくしたあと、彼女はそういって立ち上がろうとした。
「待って」
ぼくは彼女の腕を掴んだ。
「もう少し居よう」
彼女はあっけに取られたような顔をみせた。おそらく優柔不断な僕がこんなことを言うのが驚きなんだろう。
しかし、しばらくすると彼女は笑顔をみせ、また僕の右に座った。
「ごめんね」
「ううん、いいよ」
彼女は空を見ていた。ぼくも空をみた。さっきより少し暗くなっていた。
歳を取っても、2人で肩を並べて同じ空をみれるだろうか。
ぼくは、古く錆びついた柵をみつめ、こんなになっても壊れていないのかと感心した。そのあとで、彼女の肩に手をやり、そっと引き寄せる。
すると突然後ろの扉が開いた。
立ち入り禁止の屋上に、2人の教え子を見つけた池田先生は鬼の形相でこちらに向かってくる。
夕暮れの町に、池田先生の叫び声が響く。