表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

「愛さない」宣言されたので喜んで引きこもりお飾り妻ライフを遂行していたら、求めていない溺愛が始まった

作者: 雨宮羽那
掲載日:2026/08/08


「メリッサ。事前に言っておこう。俺は、お前を愛すつもりはない」


 結婚初夜。

 豪奢なレースの刺繍が施された天蓋付きのベッドに正座する私へ、夫となったばかりのクイン・ハルバート公爵は端的に言い放った。

 

「お前とて、俺と結婚したことは本意ではないだろう。妻としての身分は保証するが、俺はお前に妻としての振る舞いを求めない。お前も俺に、期待しないでくれ」


 なんの感情も宿していない濃い青の瞳が、真っすぐに私を見下ろす。

 研ぎ澄まされた鋭い目元と、冷たく凍えた白銀の髪。人間離れした美貌(びぼう)をもつ彼に見据えられれば、大多数の人間は恐れおののくだろう。


 ぽかんと口を開けたまま黙り込んだ私を見て、クイン様はわずかに眉をひそめた。

 きっと彼は、私が怖がり、傷つき、心を痛めているとでも思っているのではなかろうか。

 しかし、妻になったばかりの当の私はというと——。


 (えっ、本当にいいの!? なにそれ最高のご褒美すぎる!)


 ——歓喜に打ち震えていた。


 愛し合わなくていい?

 妻として振る舞わなくてもいい?

 旦那様に気を使わなくてすらいい?


 これを喜ばずして何を喜べばいいというのだろう。

 神様ありがとう。万歳三唱。感謝感激雨あられ。

 何を隠そう私は、筋金入りの引きこもりなのである。

 

 私、メリッサは、地方にあるリーディシア子爵家の生まれだ。

 リーディシア家には、私を含めて子が3人。

 貴族学院を首席で卒業した優秀な兄。縁談話がひっきりなしに届く美しい妹。そして、その間に挟まれた、取り立てて秀でたところのないごくごく普通の一般人である私だ。

 優秀な兄と妹を持ったせいで、彼らと比べられることは日常茶飯事だった。


『お前はなぜ、兄のように気の利いた会話ができないんだ』

『妹のように、もっと容姿も磨きなさい。妹に比べて見劣りするわ』


 父や母から注がれるのは、失望と冷ややかな蔑みの視線。

 家族のだんらんに入ろうとすれば『雰囲気が壊れるから』と許されず、社交界に出れば『リーディシアの無能な次子』とささやかれる。

 何をしても否定され、存在するだけで責められる日々。

 傷つくのに疲れ果てた私が導き出した防衛手段は、部屋に引きこもることだった。

 

 不必要な外出は避け、部屋に閉じこもって気配を消す。誰の視界にも入らないように過ごす。

 自分の世界に閉じこもって読書や一人ボードゲームに没頭している間だけが、心を休められる安らぎの時間だった。

 

 そんな私がなぜ公爵家なんぞに嫁ぐことになったのかというと、ひとえにクイン様が『嫌われ公爵』だったからにほかならない。


 王の懐刀として有名な彼は、身内だろうと容赦なく汚職や反逆を暴いてきた、貴族界隈では敬遠されている男。

 誰も、痛くもない腹を探られたくはない。

 結果として誰も彼の妻に名乗りをあげず、国内外の貴族から縁談を断られ続けたらしい。

 そうして、一地方貴族の我が家にお鉢が回ってきたのである。

 弱小貴族のうちに、高位貴族からの縁談を断る選択肢はない。

 最初は、見目麗しい妹が縁談話を受けることで話がまとまっていた。けれども彼女が「嫌われ公爵の妻なんて絶対嫌!」と泣き叫んで拒否した。その結果、当然のように「お前がいけ」と私が差し出されたのだ。

 私に拒否権? そんなものあるわけがない。


 急きょ結婚が決まった私は、絶望に打ちひしがれていた。

 なんせ相手は公爵家だ。きっと、明けても暮れても「公爵夫人」としてふさわしい振る舞いと完璧なマナーを求められるに違いない。失敗すれば実家のときのように、「お前は本当に無能だな」と罵られる日々がやってくる。

 またあの息が詰まるような、誰もが私を否定する地獄が始まるのだと、ガッチガチに身構えていた。

 今夜だって、貴族の妻としての責務を果たさねばと、ベッドの上で膝を震わせながら旦那様が来るのを待っていたというのに。


 それなのに、私の前にやってきた旦那様は、今なんと言った?

『妻としての身分は保証するが、俺はお前に妻としての振る舞いを求めない』?


 (つまり、私は体裁のためのお飾りの妻っていうこと? 何をやっても怒られないし、無理に笑わなくてもいい。それに、クイン様だって私と結婚なんて不本意なんだろうから、不快な妻と過ごすよりお一人の方がずっと気が楽なはずだわ。これってもしかして、旦那様公認の三食昼寝付き引きこもりライフを決行できる!? 最高!!)


 胸の内側から湧き上がるのは、悲しみではなく言い表せないほどの歓喜である。

 しかしここで浮かれてクイン様の機嫌を損ねては元も子もない。

 私は必死で口元を引き締めると、かつてないほど神聖で淑やかな微笑みを浮かべた。

 

 (神よ、素晴らしき運命の采配(さいはい)に感謝いたします)


「かしこまりました、旦那様。すべてあなたのご意向のままに」


「……は?」

 

 クイン様が間抜けな声を漏らした。

 驚きのせいか、濃い青の瞳がわずかに丸くなっている。

 先ほどの私に代わり、今度はクイン様がぽかんとしているようだった。


「泣かない、のか……? 怒るなり、実家に訴えるなりしてもいいんだぞ……?」


「滅相もない! 妻として、クイン様からの言いつけを粉骨砕身、この命に代えても完璧に遂行(すいこう)してみせます!」


「い、いや、命に代えるほどの任務では……」


 なぜかクイン様は狼狽えているようだ。

 が、こちらとしては知ったことではない。

 せっかく手に入れた大義名分。失うわけにはいかないのだから。

 これは貞淑(ていしゅく)なる彼の妻として、守らねばならない最重要事項である。


「いいえ! たった今この瞬間から、わたくしめのことは空気と思ってくださいませ! 気配を消すのは得意なんです! どうぞ、心置きなく無視してください!」


 私はベッドから飛び降りると、クイン様の手を両手でぎゅうと握りしめた。

 きらきらとしたリスペクトの眼差しで、頭一つ分は背の高い彼を見上げる。

 この人は、なんて話のわかる心の広い旦那様なのだろう。

 たった一夜にして、入ったばかりの人生の墓場から私を解放してくれたのだ。感謝のあまり、彼を拝み倒したい気分である。


「あ、ああ……。お前が受け入れてくれるのなら、助かる……?」


 そう言うクイン様の頬が、耳にかけてほんのりと赤いのは気のせいだろうか。

 世間的には「嫌われ公爵」で敬遠されているクイン様だが、顔の造りは大層美しい。美形の困り顔は目の保養である。

 けれど、私は空気なのだ。空気がこれ以上の自己主張をするわけにはいかない。早々に退散しなくてはなるまい。


「では、私は客室を使わせていただきますね! おやすみなさいませ、旦那様! よい夢を!」


 私は満面の笑みで一礼すると、軽い足取りで寝室を後にした。

 こうして、私の完璧な「引きこもりお飾り妻計画」が幕を開けたのである。

 クイン様の視界に入らないこと。それこそが、私にできる最大限の心配(こころくば)り。恩返しなのだ。

 

 そう。この時の私は、本気で信じて疑っていなかったのである。



 ◇◇◇◇◇◇



 私が陣取った客室——もとい私の新しい自室は、クイン様の部屋から遠く東に離れた日当たりのいい一室だった。

 広々とした室内に、ふわふわの天蓋付きのベッド、猫足のソファ。アンティークなライティングデスクまである。

 昨日の旦那様の部屋に比べたら簡素ではあるが、さすがは公爵家の客室だ。元地方貴族からしてみれば、ここはもはや天国に等しい。


 (実家の私の部屋なんて屋根裏だったし、雨漏りしたままで直してすらもらえなかったのよ? それに比べてここは明るいし清潔だし最高〜〜!)


 無事に一夜が明け、私はベッドの上で幸福を噛み締めていた。

 そのとき、部屋の扉をノックする音が聞こえてきた。


「奥様、失礼いたします。朝食をお持ちいたしました」


 ノックとともに室内へ入ってきたのは、この屋敷のベテランメイド長、ノエラさんだった。

 昨日私がこの屋敷へやってきた時に初めて顔を合わせたばかりではあるのだが、昨日に比べて今朝の彼女の表情は暗く重たい。

 おそらく、「初夜から別室で過ごすことを余儀なくされ、冷遇されている新妻」を哀れんでいる、といったところだろうか。


 (どうしたものかしら。上手く伝えないと、クイン様に抗議でもされたらたまったものじゃないわ。せっかく手に入れた楽園を失いたくない……)


 あれこれ考えを巡らせていたのだが、ふとノエラさんの持っているトレーの上のものに目が吸い寄せられてしまった。


「おはようございます、ノエラさん! ……わぁ、すごく美味しそう……!」


 ほかほかと湯気を立てるスープに、焼きたてのパン、かりかりのベーコン。新鮮なサラダまである。


 (すごい! 豪華だわ!)


 実家ではふかふかのパンを食べる家族を横目に、私だけ冷えてカチカチになったパンを出されていたのだ。

 目の前に置かれた豪華な朝食に、私の目はすっかり釘付けである。

 

「食べていいんですか……!?」


「え……、ええ。奥様のためにご用意したものですから」


「ありがとうございます……!」


 (なんて素敵な朝食なの……! 嫁に出て良かった!)


 いそいそとトレーの置かれたテーブルの前に座ると、私はありがたく朝食を口へ運ぶ。

 幸せの極みだ……。

 もう二度と実家には戻りたくない。こんなおいしいものを食べられるのなら、私はここで一生空気として生きていく。

 

「奥様……。昨日、旦那様が奥様に冷たいお言いつけをなされたことは、わたくしたち使用人の耳にも入っております。それなのに、こんなにも気丈に振る舞われて……」


「もふ?(何て?)」


 口いっぱいに広がるパンの香りとふかふかさを堪能していると、何やらノエラさんが涙ぐんでいた。


「傷ついて……おられ、るのです……よね?」


 パンを頬張る私と、ノエラさんの瞳がかち合う。

 彼女の瞳に宿る色が、同情から困惑へと変わっていくのが私にもわかった。

 私はごくりとパンを飲み込むと、彼女の懸念を払拭すべく笑顔を浮かべた。


「いいえ、まったく。むしろ、クイン様には感謝しておりますわ」


「え……っ?」


 ノエラさんがぽかんと目を見開く。

 私は胸の前で両手を組み合わせ、うっとりと目を閉じて語り始めた。

 私の旦那様はいかに寛大で素晴らしい方なのか、彼へのリスペクトの気持ちをしっかりと伝えなくてはならないだろう。……彼女を味方につけるためにも。


「私は、兄妹に比べて出来損ないの一般人でございます。日々お忙しく、国を守るために働かれているクイン様のお邪魔になることは避けたかったのです。それなのにクイン様は、『妻として振る舞わなくていい』とおっしゃってくださった……! これ以上の慈悲がありましょうか……っ!」


「は、はぁ……? で、ですが、それでは奥様があまりにも不憫で……」


「不憫だなんてとんでもない! ですのでノエラさん、お願いがあります。私の毎日の食事はすべて、この部屋に運んでくださいませ。食堂に行ってクイン様の視界に入り、お食事を不味くさせることは避けたいのです」


「お部屋で……お一人で食べられるのですか……?」


「はい! それと、おいしいお菓子とたくさんの本を貸していただけたら、私は世界一幸せな妻になれます!」


 力説する私に、ノエラさんはしばらくの間口を開いたまま呆けた様子だった。

 けれど、やがて目元をうるませると、組み合わせていた私の手をしかと握りしめてきた。


「なんて……なんて健気な……! 本来でしたら、豪華なドレスや宝石を買い漁っても良いお立場だと言うのに、旦那様のため、自ら自室にこもられるなんて……!」


「ドレスも宝石も必要ありません! むしろ必要なのは快適な部屋着です!」


「奥様……っ! わかりました。このノエラ、奥様の健気なお気持ちに全力でお応えいたしますわ! まずは、シェフに特製のおやつを作るように伝えてまいります!」


「本当ですか!? ありがとうございます!」


 とりあえず、メイド長を味方にすることに成功したらしい。

 そこからの日々は、まさに夢のようだった。

 朝は小鳥のさえずりで目覚め、美味しい朝食をいただく。

 食後はふかふかのソファで、書庫から借りてきた小説を読破。

 おやつの時間になれば、シェフ特製のさくさくのクッキーやクリームのついたシフォンケーキが、紅茶とともに運ばれてくる。


 (最高……! 私、もしかしたら前世で相当な徳を積んだのかもしれないわ!)


 実家での生き地獄のような日々が嘘のようだ。

 家族からの見下されるような視線を向けられることも、「無能だ」「出来損ないだ」と罵倒されることもない。

 ただ静かで平和な時間が過ぎていく。


 しかし、私は「お飾り妻」としての本分を忘れたわけではなかった。

 私の最大の任務は、クイン様の視界に入らないこと。すなわち、空気となり存在を消すことである。

 そのため、私は警戒を決して怠らなかった。


 クイン様は、公爵でありながら国王の補佐官としてお忙しい方だ。

 朝早くに出かけ、夜遅くに帰宅される。

 だが時折、書類の確認などで昼間に屋敷へ戻られることがある。

 そんな時、私は彼の視界に一瞬たりとも入ってはならない。

 ただでさえクイン様は『嫌われ公爵』なんて呼ばれて、常に周囲の人間と戦っているようなお方だ。余計なストレスを与えたくはない。

 それに、クイン様の不興を買って離婚を申し出られでもしたら私は実家送り。せっかく手に入れた快適な引きこもり生活は没収となってしまう。

 それだけはなんとしても避けねばならない。

 

「奥様! クイン様がお戻りです!」


 ノエラさんのそんな叫びを合図にして、私は日々気配を消すことに努めていた。

 廊下を歩いている最中にクイン様の足音が聞こえれば、素早く近くの物陰に隠れて息を殺す。

 庭園を眺めている時にクイン様が戻ってきたら、植木に紛れてやり過ごす。

 そして今日の私は……、書庫の本棚の間をすり抜けるようにして、クイン様の視界から逃げていた。


 (私は空気……! 私は本……!)


 心頭滅却。私は必死で気配を殺す。

 目当ての本があるのか、クイン様はつかつかと書棚の間を進んでいる。

 私は彼の視界に入らないように、棚の影に隠れながら足音を潜め移動していく。

 やがて目的の本を見つけたのか、クイン様が足を止める気配がした。


 (ほ……。助かった)


 本の背に手を当てたまま、私は心の中で安堵の息を漏らす。

 するとほぼ同時、本棚を挟んだ反対側からクイン様のため息が聞こえてきた。


「……メリッサ」


 ぽつりと。クイン様の口から囁きのように私の名前がこぼれ落ちて、どきりと心臓が跳ね上がる。


 (こんなに気配を消してるのにバレた……!?)


「お前は今……何をしているんだろうか。俺は……、なぜこんなにも……気にしているんだろうな」


 (……バレては、いないみたい?)


 独り言のように続けられたクイン様の言葉に、ほっと胸を撫で下ろす。


 (でも、なんで私みたいなただの一般人のことを気にされているのかしら?)


 私は確実に、クイン様の言いつけを守っているはずだ。お心を煩わせてなどいないはず。

 それなのに、どうして彼はさみしげな声音をしているのだろう?


「ダメだな、俺は。……早く、仕事に戻らねば」


 クイン様は自嘲(じちょう)するように呟くと、また歩き始めた。もと来た道を戻っていくように、足音が遠のいていく。


 (危なかった……)


 クイン様の足音が書庫から完全に消えたのを確認し、私はそっと息を吐き出した。

 実家で生活していた頃に(つちか)われた気配を消す術だが、今後はクイン様のためにももっと鍛えていく必要がありそうだ。


 (さて、それじゃあ私の目的をっと)

 

 そもそも私が書庫まで来たのは、お目当ての小説があったからだった。まさかそこへクイン様がやってくるとは思わなかったけれど。

 兎にも角にも危機は去った。

 読みたかった数冊の本を抱えて私も書庫を出る。

 クイン様と鉢合わせてしまう前に、さっさと自室へ戻ってしまおう。


 (早く部屋に戻って、美味しいおやつを食べながら本が読みたいわ……!)

 

 などと考えながら、うきうきとした足取りで廊下を歩いていた、その時だった。


「うわぁっ!?」

「きゃっ!?」


 曲がり角から飛び出してきた人物と、見事に衝突してしまった。

 私の手からは本が、相手の手からは大量の書類が離れ、盛大な音を立てて廊下へと散らばっていく。


「い、ててて……」

 

「もっ申し訳ございません、奥様! お怪我はございませんか!?」


 衝撃で尻もちをついてしまった私の上に、慌てふためいた男の声がかけられる。

 顔を上げれば、そこには青ざめた顔をした執事長がいた。


「ええ、怪我はないわ。こちらこそごめんなさい」

 

 微笑みを浮かべて返事をしながら、差し出された手を借りて立ち上がる。


「いいえ。私の不注意でございますので……」


 執事長はそう言って、私の落とした本を拾ってくれた。床に残ったのは、私とぶつかったせいで撒き散らされた大量の書類。


「あ、私も拾うわ」


 執事長が拾い始めたのを見て、私もその場にしゃがみこんで手を伸ばした。


「そんな、奥様にそのような雑用をさせるわけには——」


「気にしないで、落としたのは私のせいでもあるんだから」


 恐縮する彼を制して、私は書類をかき集めていく。

 その最中、発注書と思われるものが目にとまった。


 見る限り、この屋敷で使う食材や消耗品の発注書だろうか。様々な品名と発注する数量などが整理されて、何枚にもわたってまとめられているようだ。発注書と思われるページ数の振られた書類が、いくつもあることに気づく。


 (……あら?)

 

 なんの気なしにページ順に集めながら、目を入ってきた数字の並びに強い違和感を覚えてしまった。


「これ……計算が違うわ」

 

「はい?」


「ペン持ってる? 貸してもらってもいい?」


「は、はい。どうぞ、お使いください」


 執事長は懐からペンを取り出してくれる。

 私は執事長の手からそれを受け取ると、書類をはじめから見直しながら素早く余白に計算式を書き走らせた。


「多分、一つ隣の数字と間違えて計算しちゃったのね。ここをこうして……最初からぜんぶ計算しなおしたら……。正しいのはこっちの数字だと思うわ」


 簡単に説明しながら、私は書類とペンを執事長へ差し出す。

 書類の数値と私の計算を見比べた執事長の顔が、みるみるうちに驚愕のものへ変わっていた。


「ひ……! ほ、本当だ……!」


 (よかった。お役に立てたようね)


 貴族学園での成績は兄ほど振るわなかった凡人だが、それなりには真面目に授業は受けていたのだ。

 これくらいの計算はわりと朝飯前である。

 のだが——。


「私が何日にもかけて確認したものを、たった一瞬で間違いに気づかれるなんて……! なんて優秀な!」


「へえっ!?」


 なぜか執事長はきらきらと瞳を輝かせ、頬を紅潮させたまま私の手を握りしめてきた。


「わ、私なんてただの一般人よ!? うちの兄なんて、こんなのコンマ零秒で処理するんだから……!?」


「そんなことはございません! 旦那様はなんと素晴らしい奥様を(めと)られたのでございましょう……!」


「ええええ……」


 こんな些細なことで、いたく感激したとでも言うような眼差しで見つめられると困る。

 本当に、私は兄妹に比べて出来損ないの、ただの一般人なのだから。


「お、お役に立てたのなら何よりだわ! それじゃ! 自室に戻るわ!」


 私は執事長の視線から逃げるように、慌ててその場を立ち去ろうとしたのだが……。

 廊下の曲がり角の陰に、クイン様が立っているのが目に入った。

 壁に背を預けて腕を組んだ姿勢で、真っすぐに私を見ている。


(……っクイン様!? いつからそこに……!)


 驚きを隠せないまま、私の視線とクイン様の視線が交わった。

 クイン様は目を瞬かせると、ほんの一瞬だけ口元をゆるめたように見えた。

 だが、すぐに踵を返されたせいでわからなくなってしまう。

 

(な、なに……今の……。笑った? 見間違い? まさか機嫌を損ねたわけじゃないわよね……?)


 混乱収まらない頭を働かせ、私は必死に考える。

 空気になると誓ったはずなのに、彼に姿を見せてしまった。

 それだけではなく、他にも何か致命的なミスを犯してしまったような、そんな感覚が拭いきれない。


 (なんだろう、嫌な予感がする〜!)

 

 背中に嫌な汗が流れるのを感じながらも、私は自室へと逃げ帰ったのだった。


 

 ◆◆◆◆◆◆


 

 執務室へ向かうために屋敷の廊下を歩きながら、俺——クイン・ハルバートは胸の中に残る熱を感じていた。

 脳裏に浮かぶのは、先ほど廊下で見かけたメリッサの姿だ。

 

 大量の書類をまき散らした執事長を気遣い、なんのためらいもなく書類を拾うことを手伝った。

 それだけではなく、たった一目見ただけで計算の間違いに気づき、鮮やかな手際で正してみせた。

 婚前に身元調査をしたときには『無能な次子』と評価されていたことは小耳にはさんではいたが、彼女のどこが無能なのか。

 あれほどの聡明さをもちながらも謙虚にふるまう彼女を、どうしてさげすめるのだろう。


(お前は一体、どれほどのものを隠してきたんだ)

 

 結婚初夜、俺は彼女に「愛すつもりはない」と告げた。

 家の存続のため、俺はどうしても結婚しなければならなかった。

 正直気乗りはしなかったが、国王から命じられればさすがに身を固めざるを得ない。

 しかし、身内すら容赦なく裁いてきた俺は、貴族社会で『嫌われ公爵』と呼ばれ忌み嫌われている。

 結婚相手探しは、予想よりもはるかに難航を極めた。

 そんななか、ようやく結婚までこぎつけられたのがメリッサだった。

 

 俺の妻になれば、敵の多い俺の巻き添えになり、妻のメリッサまで嫌がらせだけでなく命の危険にすら晒されるかもしれない。

 それはさすがに本意ではなかった。

 だからこそ、俺は「妻としての振る舞いを求めない」と言った。

 彼女を突っぱね、遠ざけることで守ろうとした。


(そんなのは俺の逃げで、ただの言いわけだ)


 気配を消し、俺の視界に入らないように過ごしているメリッサのことを思うたび、胸が痛んだ。

 誰よりも孤立するつらさを知っているはずの俺が、自らの手で彼女を日陰に追いやっていた。

 彼女は、俺が『嫌われ公爵』と呼ばれていることを知った上で、そばに来てくれたというのに。


(こんなにまで、彼女に惹かれるなんて思わなかったんだ)

 

 あの夜俺の手をぎゅっと握りしめてきたメリッサの、柔らかくて小さな手が忘れられない。

 真っすぐに俺を見上げきたラベンダー色の瞳の輝きが、頭の奥に焼き付いて離れない。


 あらゆる汚職を暴き、誰に対しても心を閉ざしていたはずの俺が、たった一度の温もりと真っすぐな眼差しにこうもあっけなく心を奪われた。

 ……日頃みなに恐れられ、仕事ばかりと向き合ってきた。おまけにろくに女性と接してこなかったツケが回ったのだろう。

 自分でも呆れるほどの単純さだが、俺を恐れることなく直視してきた彼女に、すっかり恋に落ちてしまっていた。


(だが、メリッサは俺を嫌っているだろう)


 あの夜からメリッサは徹底的に俺を避け、俺の視界に入らないように生活している。

 どう考えても、あの日の発言が原因だ。


(馬鹿だな、俺は)


 今更後悔しても遅いというのに、あの日の自分の言葉を悔やんでならない。

 短く息を吐いて、俺は執務室の扉を開ける。

 机の前に腰を下ろしたその時——。

 

「「旦那様!!」」

「うわ……っ!」


 メイド長と執事長が執務室の扉を押し開けて、俺の元まで駆け寄ってきた。

 二人とも、かつて見たことがないほどに目を血走らせているように見える。


「旦那様……! わたくしもう我慢なりませんわ!」


「何があった……落ち着いて話してくれ……」


 大きな声でキンキンと叫ばれては耳が痛くてかなわない。

 俺は耳を押えながらノエラを落ち着かせるように声をかける。

 けれどもあまり効果はなかったようで、ノエラはまくしたてるように続けた。


「奥様は『旦那様のため』だとおっしゃって、お食事をお一人で召し上がっておられるのですよ!? ドレスも宝石もねだらず、シェフのお菓子だけを所望されて……。健気にもほどがあります!!」


「そ、そうなのか……」


 ノエラの口から語られるメリッサの様子に、俺はほんの少しだけ安堵する。

 俺の目からは、メリッサの日常を観測することができないから。

 それなりには落ち着いて過ごしているのだな……と思ったのもつかの間。


「それなのに旦那様と来たら……! 男として、夫として、恥ずかしくはないのですか……! あの方は、日陰にいて良い方ではありません!」

 

 ノエラは俺を責め立てるように言った。


「そうです! あの方は、かなりの枚数があったはずなのにもかかわらず、書類のミスを一瞬で見抜いてくださいました! あれほどの頭脳を持ちながらも旦那様を立て、あえて自室に閉じこもっておられるのですぞ!? あのような聡明で謙虚なお方を放置するなど、ハルバート公爵家の名折れ! 見損ないましたぞ……!」


「……っ」


 普段は口数の多くないはずの執事長からも続けて責められ、俺は言葉に詰まってしまった。


 (俺だって、好きで放置しているわけじゃない……!)


 喉まで出かかった本音をどうにか飲み込む。

 言葉を探す俺を見かねたのか、ノエラははぁとため息をつくと、仕方がない子どもを見るような視線を向けた。


「旦那様のお考えは、おおよそ察してはおります。奥様を突き放したのは、奥様を身の危険から遠ざけるためでございましょう」


「それは……」


「それでも……『俺が守ってやる!』くらいの気概はないのですか。何のための地位と権力なのですか!」


「!」


 ノエラの言葉に、がつんと頭を殴られたような衝撃を受けた気がした。

 はっと、目が覚めたような心地だった。


「やはり……俺は間違っていたのか」

 

 独り言のようにつぶやくと、より強く実感する。

 俺は間違っていた。

 俺は……何を臆病になっていたのだろう。

 

 公爵という地位があるだから、こういう時にその権力や財力を生かさなくてどうするのだ。

 彼女に惹かれてしまったことを自覚しているのなら、嫌われてしまったと後悔するのなら。俺の持ちうる力すべてを使って、これから好かれるように努力すればいいではないか。

 もしもメリッサの身を脅かす者が出てくれば、すべていつものように厳正な対処をすればいいだけだ。


「……今からでも、間に合うだろうか」


「もちろんですよ、旦那様!」


 独り言のようにつぶやいた俺に、ノエラたちはしかとうなずいた。


「決めた。明日からメリッサを正しく『公爵夫人』として扱い、望むものすべてを与えよう」


 

 ◇◇◇◇◇◇


 

 翌朝。

 私がいつものようにふかふかのベッドの上で目を覚ますと、室内がまばゆいばかりの輝きに包まれていた。

 窓から差し込む太陽の光、ならばよかったのだが……。室内には、どちらかというとそれを反射する光が満ちていて目がチカチカする。


「な……何これ……?」


 困惑と、目の前の光景を信じたくない思いでいっぱいだ。

 部屋の壁際に、見たこともないほどに絢爛(けんらん)豪華なドレスがずらりと並べられている。

 机の上にはガラスのケースがいくつも並べられ、中には溢れんばかりの輝きを放つ色とりどりの宝石たち。

 そのほか、髪飾りにバッグに靴……。ところ狭しと、お高そうな品々が私の自室を圧迫している。

 あまりにもあまりな状況に、しばし呆然としてしまった。


 (これは、夢? もし夢なら完全に悪夢方面だけれど……)


 むしろ、悪夢でも構わないから出来れば夢であってほしい。現実だと思いたくない。


 (よし、二度寝しよう)

 

 もしかしたら私は疲れているのかもしれない。

 実家にいた頃と比べてずいぶんと自由気ままに過ごさせてもらってはいたが、過去の心痛がぶり返したのかも。もしくは幻覚だ。そうに決まってる。

 私が二度寝を決め込もうしたその時、部屋の扉が開かれた。

 姿をのぞかせたのは、なんとクイン様だった。


 (ってえ!? なんでクイン様がここへ!?)


 信じられない状況が立て続けに起こったせいか、私は瞬きすらできない。


「メリッサ」


「は、はひ!?」


 クイン様に短く名前を呼ばれ、私は情けない声とともに肩を震わせてしまう。

 私はごまかすようにとっさに毛布を引き寄せると、身を守るように体に巻きつけた。


「……すまなかった。あの夜からずっと、お前に寂しい思いをさせたことを後悔していたんだ」


 クイン様は申し訳なさそうに美しい眉を下げる。


「そ、そんなことは……。ところでこの大量のドレスやらは……」


 寂しいだなんて一瞬たりとも思っていないから、気にしないでいただきたい。

 混乱と胸の動悸が収まらない中、私は恐る恐る部屋を占拠する輝かしい物体たちを指さした。


「これは詫びの品だ。受け取ってほしい」


「詫び……?」


 嫌がらせではなく? という言葉を口に出すことは、どうにかすんででこらえた。

 クイン様から詫びられる理由も、こんな品々を贈られることにも理解が追いつかない。

 戸惑う私をよそに、クイン様は真摯な瞳で私を見つめた。


「遅いと言われるかもしれないが、夫婦生活をやり直すチャンスがほしい」


「はぁ……」


「朝食も、これからは食堂で共に食べよう」


「えっ!?」


 思わず私の声が裏返る。

 朝食を食堂でクイン様と共にする?

 つまり、一人まったりと部屋着で食べる至福の時間は失われ、早朝から着飾られた状態でありもしない優雅さを必死で取り繕いながら食べろということか。

 なんという地獄。


 (嘘でしょ!? 私の自由な幸せご飯タイムが……!)


 私の背中に、嫌な汗がじわりと流れ始める。

 顔から血の気が引いていくのが自分でもわかった。

 そんな私の様子に気づいていないクイン様は、ゆっくりとベッドの縁へ腰を下ろすと私の手を優しく包み込んだ。


「メリッサ」


 低く甘い声が私の名を呼ぶ。

 なんかいい雰囲気をかもし出しているクイン様には大変申し訳ないが、こちらは嫌な予感で胸がいっぱいだ。

 

「俺は、お前の健気な態度と優しさ、そして聡明さに惹かれた。お前が望むものはなんでも揃えてやる。望む場所があれば連れて行ってやる。必ず、俺がお前を守ろう」


 直視できないほどの美貌を持つ男が、熱を帯びた真剣なまなざしで、とてつもなく甘ったるい言葉を吐いている。『嫌われ公爵』と呼ばれるほど、容赦のないはずの彼が。別の意味で恐ろしい。

 それよりさらに恐ろしいのは、私の完璧な引きこもりお飾り妻計画が未曾有(みぞう)の危機に瀕していることである。


「あ、あの、クイン様! お気持ちは大変ありがたいのですが、私はそのような大層な扱いをしていただかなくても——っ」


 クイン様の(ありがた迷惑な)申し出を必死で辞退しようと私が口を開いたその時、再度部屋の扉が開いた。

 室内へ入ってきたのはノエラさんだ。

 

 (あっ! 助けてノエラさーん!)


 助けを求めてノエラさんへ目配せをする。

 私の視線を受けてか、ノエラさんはパチリとウインクをしてくれた。


 (良かった、助か——)


 私が安堵したのもつかの間。

 

「良かったですね、奥様! わたくしも、自分のことのように嬉しいです!」


 ノエラさんの口から放たれた言葉は、助け舟ではなく追い討ちだった。

 ノエラさんは胸の前で両手を握りしめ、うっとりとしている。


 (なんでそんな感動的な物語の見納めみたいな顔をしているの!? 私は全然嬉しくないから! 祝福しないで!? それに、私の味方してくれてたんじゃないの!? もしかして裏切ったわけ!?)


「社交界にも、近々お前をともなって顔を出そうと考えている。俺の……自慢の妻だからな。お前が俺を嫌っていても、俺は、そう思っている」


 私の心の叫びなど知るよしもないクイン様は、さらにとどめの一言を放った。

 若干照れたように言わないでほしい。こちらは照れよりも戸惑いと恐怖が心を占めている。


 (終わった)


「他の貴族たちがお前に手出ししようものなら、俺がすべてねじ伏せよう」


 そう言ってクイン様は、優しく握っていた私の指先へ口づけを落とす。まるで誓いを立てるような仕草だ。


 贅沢なドレスに、たくさんの宝石、夫からの情熱的な愛。そして、夫に守られて華やかな社交界へ足を踏み入れる。

 世の女性たちが夢見るような、幸せな公爵夫人としての生活が今まさに誓われようとしている。

 けれども対する私はというと、もはや引きつった笑いを浮かべることしか出来ない。


「は、はは……」


 (私の三食昼寝付きの引きこもりライフを返してえええ!!)


 こうして、私の完璧だったはずの「引きこもりお飾り妻計画」は、旦那様の溢れんばかりの(ありがた迷惑でこちらはまったく望んでいない)愛によって、もろくも崩れ去ったのだった……。


 

旦那様は意外にもピュアピュアです(*´︶`)

今後のメリッサの生活に平和が訪れるか&旦那様の想いが報われるかは乞うご期待ということで……♡



面白かったよ!と思っていただけましたら、ブクマや評価などをしていただけましたらとても励みになります!


また、作風や文体がお気に召しましたら、他の作品も読んでいただけると大変嬉しいです♡

最後までお付き合いいただきありがとうございました〜!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ