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プロローグ



 世界には、死獣というものがいる。


 正式名称はデス・イーター。


 響きだけ聞けば、どこかの吟遊詩人が酒場で格好つけて歌いそうな名前だけれど、実物はそんな洒落たものではない。目が三つある狼、肺の代わりに炎を吐く鹿、地面から生えた腕みたいな植物、誰かの声で助けを呼ぶ肉の塊。ああ、最後のやつは思い出しただけで胃が重くなるから、できれば朝食前には語りたくない。


 死獣は、ただの化け物ではない。


 魔素粒子に生命の構造を書き換えられ、位相領域という現実の不具合みたいな場所に適応してしまった、生物の成れの果てだ。そう説明すると少し賢そうに聞こえるけれど、現場で必要なのは学術的な理解よりも、まず噛まれないこと、毒を浴びないこと、仲間を見失わないこと、そして倒したあとに死骸へ不用意に近づかないことである。


 私はハルカ・レイゼンベルク。


 ラウゼンフェルド支部所属の討伐士で、ジョブはエンチャンター。武器や防具や肉体に一時的な性質を付与して、仲間の能力を引き上げるのが仕事だ。つまり、前に出て敵を斬る華やかな役ではなく、後ろから全員の状態を見て、誰に何をどの順番で付与すれば全員が生きて帰れるかを考え続ける、地味で忙しくて責任だけはやたら重い役である。


 世間では、エンチャンターというと優雅に術式を編み、指先ひとつで仲間を強化する知的職業のように思われている。間違ってはいない。間違ってはいないけれど、現実はもう少し汗臭い。泥の中で配列針を落とさないよう握りしめ、死獣の唾液を避けながら付与陣を書き換え、前衛が勝手に予定外の方向へ突っ込めば、走りながら術式の導線を無理やり伸ばす。知的職業というより、戦場の帳尻合わせ係と言った方が正確だと思う。


 それでも私は、この仕事に誇りを持っている。


 私の付与があれば、ミナトの矢は硬い外殻の隙間を抜ける。アヤネの治癒は魔素汚染を受けた傷口にも届く。前衛が敵を止めてくれれば、私は戦場の魔素を読み、敵の属性に合わせて、味方が最も安全に、最も確実に勝てる条件を作れる。


 そう、前衛が敵を止めてくれれば。


 前衛が。


 敵を。


 止めてくれれば。


「前に出すぎです! 死にたいんですか!?」


 私はその日、北方林地の外れで、喉がちぎれそうな勢いで叫んでいた。


 叫ぶしかなかった。


 目の前では、巨体の猪型死獣が地面を掘り返しながら暴れ回っている。背中には黒く焦げたような剛毛が生え、腹部には赤く脈打つ魔素核らしきものが透けて見え、突進のたびに足元の土が火の粉を散らす。推定危険度はC級。依頼書には「農地を荒らす大型魔獣の駆除」と書いてあったけれど、実際には火属性を帯びた死獣であり、依頼者の観察眼は今すぐギルドの講習を受け直してほしい水準だった。


 そして、その死獣の真正面に、カオル・グランツがいた。


 新しく私たちのパーティーに加わったバーバリアン。


 協調性は低い。声は大きい。説明を聞かない。作戦を守らない。武器は重い。態度はもっと重い。おまけに戦闘能力だけは腹立たしいほど高い。


 彼は巨大な重刃を肩に担ぎ、猪型死獣の突進を避けるどころか、真正面から受けにいっていた。私が事前に説明した作戦では、ミナトが右側の後脚を射抜き、速度が落ちたところへカオルが横から叩き込み、私が武器に水属性の抑制付与を乗せ、アヤネが後方で状態を管理する予定だった。


 予定だった。


 予定という言葉は、カオルの前では紙くずより軽い。


「後ろでチマチマやってる方がよっぽど危ねぇだろ!」


「チマチマではなく戦術です! 言葉の意味を覚えてください!」


「倒せば同じだろ!」


「同じじゃありません! 倒したあとに私たちが生きていなければ依頼達成とは言いません!」


 言い合いながらも、私の手は止まっていない。左手で配列針を二本抜き、右手で空中に導線を描く。火属性の死獣に対して、単純な水付与は危険だ。急激な冷却で外殻が硬化する可能性があるから、まずは熱の流れを逃がし、核周辺の再生構造を鈍らせる必要がある。


「ミナト、右後脚、第二関節! 拘束じゃなくて誘導!」


「はいはい、リーダー様のお望みどおりに!」


 軽い返事とともに、ミナトの矢が風を裂いた。矢じりには私の薄い補助付与が乗っている。狙いは殺傷ではなく軌道制御。猪型死獣が反射的に脚を引いたところで、巨体の重心がわずかに崩れる。


「アヤネ、カオルの右腕、反動来ます!」


「もう見えてます。カオルさん、あとで治療拒否したら縫いますからね」


「戦闘中に怖ぇこと言うな!」


「怖がる余裕があるなら下がってください!」


「嫌だね!」


 この男は本当に、どこまでも人の話を聞かない。


 カオルは崩れた猪型死獣がまだ体勢を立て直しきっていない、その真正面へ迷いなく踏み込んでいった。普通なら絶対にやらないし、…っていうかやっちゃいけない。あの距離であの重刃を振りかぶるなんて、理屈だけで考えれば無謀どころの話ではない。武器は重すぎるし間合いは近すぎるし、相手は火属性の魔素を全身から噴き上げている突進型の死獣で、しかも勢いはまだ完全には死んでいない。まともに受ければ刃を当てる前に腕ごと持っていかれる。


 けれどカオルという男は、そういう“理屈”を真正面から踏みつける。


 踏み込んだ足元で乾いた土がひび割れた。次の瞬間、彼の肩から腕にかけて黄土色の魔素痕が稲妻のように走り、振り下ろされた重刃が猪型死獣の額へ容赦なく叩き込まれる。


 鈍い音が森の奥まで響いた。


 骨を砕く音というより、もっと重い。岩盤に鉄塊を打ちつけたような、腹の底に響く衝撃音だった。死獣の頭部が地面へめり込み、周囲に赤い火の粉が弾け飛ぶ。遅れて押し寄せてきた熱風が頬を撫で、私は思わず目を細めた。


「ハルカ!」


 ミナトの声が飛ぶ。


 分かっている。


 カオルの一撃は確かに強い。それはもう、嫌になるくらいに。けれど死獣は頭蓋を砕けば大人しく倒れてくれるような、そんな親切設計の相手ではない。地面に沈んだ頭部の奥で腹部に埋まった魔素核がどくりと赤く膨れ上がり、再生のために周囲の魔素を貪るように吸い込み始めていた。


 まずい。


 私は腰の針筒から配列針を三本抜き、考えるより先に投げた。


 一本目はカオルの重刃へ。刃に残った土属性の魔素を固定するため。


 二本目は死獣の腹部、その真下の地面へ。魔素核の吸収経路を一瞬だけずらすため。


 三本目は、空中で渦巻いている熱流の中心へ。火属性の魔素圧を逃がすため。


 即席の三点付与陣。


 出力は高くない。持続時間も、せいぜい数秒。しかも少しでも配列がずれれば、死獣の熱に巻き込まれて、カオルの重刃そのものが内側から歪む。


 つまり、失敗すれば終わり。


 ……本当にもう、あの男は後先を考えてほしい。


「衝律付与、入れます! 今度こそ勝手に動かないで!」


「今から止まれるかよ!」


「だからあなたは!」


 っ、この脳筋バカ……!


 半分怒鳴るみたいに吐き捨てながら、私は強引に術式を通した。


 配列針を起点に展開した補助陣が、淡い青白い光を帯びながらカオルの重刃へ絡みついていく。本来なら、ここまで無理やり割り込ませる付与術式はもっと抵抗を受ける。特に前衛職、それもバーバリアン系統の魔素は総じて粗い。肉体強化に特化している分、魔素の流れが獣じみていて、外部から干渉しようとすると反発を起こしやすいのだ。


 簡単に言えば、繊細な術式との相性が最悪。


 だから普通は、前衛への補助は最低限に留める。無理に流し込めば術式が弾けるし、最悪の場合は魔素同士が衝突して、内部損傷すら起こしかねない。ましてカオルみたいに、身体強化を限界まで酷使するタイプならなおさらだ。筋肉も骨格も魔素経路も、常に過負荷寸前。こちらの術式が入り込む余地なんて、本来あるはずがない。


 ……なのに。


「なんで通るのよ、ほんとに……!」


 私の術式は、驚くほど自然にカオルへ馴染んでいく。


 荒れている。魔素の流れはめちゃくちゃだ。暴風みたいに渦巻いていて、制御なんて言葉から最も遠い。それこそ普通の術師なら、接続した瞬間に術式ごと引き裂かれてもおかしくないくらいには危険な流れをしている。


 それなのに、私が導線を引くと通る。


 まるで最初からそこに道が存在していたみたいに、するりと。


 補助術式が弾かれる感覚も、拒絶される感覚もない。むしろカオル側の魔素が、こちらの術式に合わせるみたいに流れを変えるのだ。そんな現象、理論書のどこにも載っていない。載っていたら今頃、術式学会がひっくり返っている。


 理論上はかなりおかしい。


 というか、術師としては正直めちゃくちゃ気になる。


 こんな特異な魔素反応、研究対象としては垂涎ものだ。解析できれば前衛支援術式の常識そのものを塗り替えられるかもしれない。論文を書けば絶対に歴史に残る。


 ……まあ、その研究対象本人が、目の前で死獣の顔面を力任せに殴り続けるタイプの戦闘狂なので、興味を持った瞬間に苛立ちが勝つのだけれど。


「おらぁっ!」


 カオルの怒声とともに、重刃が大きく跳ね上がった。


 狙う場所はもう頭部じゃない。半ば砕けた額を踏み越えるように踏み込みながら、彼は死獣の腹部へ強引に身体を潜り込ませる。普通なら危険すぎる距離だ。猪型死獣は突進力こそ脅威だが、至近距離では前脚による掻き裂きも使ってくる。しかも今は再生中。魔素核が暴走気味に膨張している状態で近づけば、噴き出す熱だけで皮膚を焼かれる。


 けれど、カオルは一切気にしていなかった。


 というか、この男は本当に“危険だから距離を取る”という発想を持っていない。


 振り上げられた重刃の先端へ、私の付与術式が集中する。青白い術光が刃の輪郭に沿って走り、圧縮された魔素が一点へ収束していく。本来なら重量で押し潰すだけの武器だ。けれど今だけは違う。私の術式が、死獣の再生構造そのものへ干渉するための“楔”として作用している。


 狙うのは肉じゃない。


 魔素核を包んでいる循環経路、その継ぎ目。


「そこ――!」


 叩き込まれた重刃が、腹部を斜め下から抉り上げた。


 鈍重なはずの一撃が、妙に鋭い軌道を描く。肉が裂ける嫌な音と一緒に、赤熱した魔素が傷口から噴き出した。空気が焼け、視界が揺らぐ。


 その裂け目へ、ほとんど間を置かずミナトの矢が突き刺さる。


 銀色の矢羽が熱風を切り裂き、核の周囲へ正確に撃ち込まれた矢が、裂けかけた再生経路を地面へ縫い留める。固定術式付きの拘束矢。核だけを破壊しても意味がない。再生経路ごと断ち切らなければ、死獣は周囲の魔素を取り込んで再構築を始めてしまう。


「抑えるよ!」


 後方ではアヤネが両手を重ね、治癒術式を展開していた。


 淡い緑光が足元へ広がり、私たちの周囲を薄膜みたいに覆っていく。治癒というより、正確には浄化寄りの術式だ。死獣が崩壊する瞬間には高濃度の汚染魔素が漏れる。その流れを抑え込まなければ、周囲の生態系まで侵食される危険があった。


 連携そのものは、綺麗だった。


 綺麗すぎて腹が立つくらいには。


 猪型死獣の巨体が、大きく痙攣した。


 腹部で脈動していた赤い核に亀裂が走り、内側から漏れ出した熱が一気に抜けていく。熱源を失った身体から力が消え、さっきまで暴風みたいに荒れ狂っていた火属性魔素が急速に霧散していった。


 重たい地鳴りとともに、巨体が地面へ崩れ落ちる。


 直後、黒く硬質だった剛毛が、灰になった紙みたいにぼろぼろとほどけ始めた。


 死獣の死骸は、普通の獣とは違う。


 血を流して動かなくなるわけじゃない。命が尽きるというより、“そこに存在し続ける理由”を失って、形そのものが崩壊していくように見えるのだ。


 肉も骨も輪郭を保てなくなり、黒い灰となって風に溶けていく光景は何度見ても気味が悪い。


 …慣れる日なんて、多分来ない。


 森に静けさが戻った。


 私は大きく息を吐き、指先の震えを抑えながら付与陣を解除した。配列針を回収し、死骸の残留魔素を確認する。核の反応は低下。再活性の兆候なし。周辺汚染は軽度。依頼内容より危険度は上がったけれど、処理可能範囲。


 よし。


 生きている。


 全員、生きている。


 そう確認したところで、私の中の理性が一度だけ深呼吸し、感情に場所を譲った。


「カオルさん」


「あ?」


「作戦を聞いていましたか?」


「聞いてた」


「では、なぜ真正面から突っ込んだんですか?」


「いけると思ったから」


「思った、ではなく、根拠を聞いています」


「俺の勘」


「その勘をギルドの報告書に書いて提出してみますか? 査定官が泣きますよ?」


「勝ったんだからいいだろ」


「よくありません!」


 私は思わず一歩詰め寄った。カオルは重刃を肩に担ぎ直し、いかにも面倒くさそうに耳をほじる仕草をした。人が真剣に話しているときに耳をほじる男を、私は戦術以前に人類社会の一員として信用していない。


「あなたが前に出すぎるせいで、付与の導線を三回も組み替えました。ミナトの射線も潰しました。アヤネの治療範囲からも外れかけました。結果的に倒せたからよかったものの、核が爆裂型だったら全員吹き飛んでいました!」


「爆裂型じゃなかっただろ」


「結果論です!」


「現場じゃ結果がすべてだ」


「現場だからこそ過程が大事なんです!」


 カオルが鼻で笑った。


 その瞬間、私の額の血管が一本、はっきりと自己主張した気がした。


「リーダーってのは大変だな。全部自分の予定どおりに動かねぇと気が済まねぇのか?」


「仲間を死なせたくないだけです」


「俺は死なねぇよ」


「そういう人から死ぬんです!」


「だったらまだ死んでねぇ俺の勝ちだな」


「勝負の話をしていません!」


 背後でミナトが「あー、また始まった」と呆れ半分の声を漏らし、アヤネは治療鞄の留め具を閉じながら、静かにため息をついた。


 その反応があまりにも自然すぎて、私は逆に少し腹が立った。


 いや、なんでそんな“いつものことですね”みたいな空気を出しているのだろうか。原因はどう考えても目の前で死獣に真正面から殴りかかっていたこの脳筋戦闘狂であり、私は至極真っ当な苦情を申し立てているだけである。にもかかわらず、周囲の扱いはなぜか「またハルカが怒っている」になっているのだから納得がいかない。


「お前、さっき完全に核暴走圏入ってたからね!?」


「でも倒せただろ」


「結果論で会話するな!」


「死んでねぇし」


「今回はね!?」


 この“今回は”が重要なのだ。


 けれどカオルは、そんなこちらの切実な主張をまるで気にした様子もなく、肩に重刃を担ぎ直しながら「細けぇなぁ」とでも言いたげな顔をしている。いや本当に細かくない。討伐士にとって生死はわりと重要事項である。


 ミナトが肩を震わせながら笑いを堪えている横で、アヤネがとうとう額を押さえた。


「……二人とも、支部に戻るまでに一回落ち着きませんか?」


 最終的に毎回これを言うのはアヤネだった。


 これが、最近の私たちの日常である。


 死獣を倒す。生きて帰る。血と泥と煤まみれになりながら支部へ戻り、解体班へ引き渡しをして、報告書を書く。その前か後に、だいたい私とカオルが揉める。


 喧嘩というより、正確には私が正論を述べ、カオルが屁理屈で逃げ、私がさらに怒り、ミナトが横で笑い、アヤネが最終的に「二人とも座ってください」と仲裁する流れが完全に固定化されていた。


 どうしてこんなことになったのか。


 原因を辿れば、数か月前にまで遡る。


 私たちは元々、三人パーティーだった。


 私がエンチャンター。後衛支援と術式制御担当。


 ミナトがアーチャー。索敵と中距離制圧。


 アヤネがヒーラー兼浄化術師。回復と汚染管理。


 構成としては地味だ。華やかさはない。けれど安定感だけはあった。


 討伐士という仕事は、強ければそれでいいわけじゃない。特に死獣討伐では、生還率と継戦能力が何より重要になる。無茶をして一回勝つより、十回確実に帰ってくる方が評価される世界だ。


 その点、私たちは堅実だった。


 依頼達成率は高い。報告書は正確。危険度査定を無視した無茶な依頼は受けない。撤退判断も早い。支部内では「若手にしては珍しくちゃんとしている組」として扱われていたくらいには、安定運用に定評があった。


 実際、ラウゼンフェルド支部の受付主任であるマルタさんに、


「あなたたちは比較的、胃に優しい」


 と真顔で言われたことがある。


 討伐士への評価としてどうなのかは若干悩ましかったけれど、少なくとも褒められてはいたので、私は素直に嬉しかった。


 ……まあ、その時のマルタさん、机の上に胃薬置いてたけど。


 問題は、火力だった。


 C級以上の死獣を相手にすると、どうしても決め手に欠ける。


 ミナトの矢は正確だ。弱点を射抜く技術は支部でも上位クラスだし、牽制能力も高い。


 アヤネの治療術は堅実で、継戦能力に関してはかなり優秀だった。汚染除去までこなせる回復役は貴重である。


 私の付与術式だって、状況対応力では負けていない自信がある。


 それでも足りなかった。


 硬い外殻を持つ個体。異常再生を持つ個体。高密度魔素で核を守る大型死獣。


 そういう相手になると、こちらの攻撃は“削れる”止まりになる。勝てないわけじゃない。けれど押し切るまでに時間がかかり、その分だけ事故率が上がる。


 最後に核を砕き切る決定打。


 それだけが、私たちには欠けていた。


 だから支部長が新規前衛の編入を提案したとき、私は反対しきれなかった。


 そして紹介されたのが――カオル・グランツ。


 第一印象は、「でかい」だった。


 背も高いし態度もでかいし、ついでに声もでかい。重刃を肩に担いで支部へ入ってきた姿は、討伐士というより山賊か何かにしか見えなかった。


 けれど実力評価だけを見るなら、文句のつけようはない。


 近接火力は申し分なし。


 位相領域への耐性も高い。


 複数支部で大型討伐実績あり。


 単独戦闘能力はB級相当。


 ――そして、同じくらい問題もあった。


 単独突出。


 命令無視。


 過剰破壊。


 パーティー離脱歴複数。


 ブラックタグ予備記録あり。


 並んだ経歴書を見た瞬間、私は「あ、これ絶対ダメなやつだ」と理解した。


 というか、備考欄の文章がもう完全に“各支部の被害者たちの叫び”だった。


『連携意識に難あり』


『突撃癖あり』


『制止を聞かない』


『壁を壊した』


『壁だけでは済まなかった』


 最後の一文に関しては詳細を読むのがちょっと怖くて、私はそっと書類を閉じた。


 普通なら断る。


 全力で断る。


 礼儀正しく断り、必要なら書面でも断り、可能なら街の外まで見送って二度と会わない。


 けれど、私たちには火力が必要だった。ギルド支部としても、彼を単独で野放しにするより、連携重視のパーティーに組み込んだ方が管理しやすいという判断があった。つまり、私たちは戦力補強と危険物管理を同時に押し付けられたのである。言い方を変えれば、私の胃に新しい試練が正式配属された。


 加入初日、カオルは私の説明を三分で遮った。


「長ぇ。要するに、俺が前に出て殴ればいいんだろ」


 その時点で私は悟った。


 この人とは絶対に合わない。


 そして、その予感は一切外れなかった。


 訓練では私の指示より先に動く。依頼前の打ち合わせでは椅子の背にもたれて眠そうにする。装備点検では「壊れたら直せばいい」と言う。死獣の属性確認中に「殴れば分かる」と言う。アヤネが治療をしようとすると「唾つけときゃ治る」と言う。ミナトが「それは治療じゃなくて民間療法以前の問題」と言ったら笑っていた。


 笑いごとではない。


 本当に笑いごとではない。


 ただ厄介なことに、彼は強かった。


 腹立たしいほど強かった。


 私たちが慎重に削るしかなかった死獣の外殻を、一撃で割る。ミナトが作った射線へ、理屈では間に合わない速度で踏み込む。アヤネの治療が追いつくぎりぎりのところで踏みとどまる。私の付与を、まるで自分の身体の一部のように使う。


 連携を理解していないくせに、噛み合ったときだけ異常な成果を出す。


 最悪だった。


 最悪なのに、必要だった。


 その事実が、さらに最悪だった。

「はいはい、お二人とも。討伐後の口論は街に戻ってからにしようね。まだ死骸処理が残ってるから。リーダー、残留値は?」


 ぴりつき始めていた空気へ、ミナトが軽い声を差し込んだ。


 こういうとき、この男の温度感は本当に助かる。


 死獣討伐の直後は、誰でも多少神経が尖る。大量の魔素を浴びた直後だし、命のやり取りを終えたばかりなのだから当然だ。そこへ真正面から理屈をぶつける私と、理屈を筋肉で押し返してくるカオルが揃えば空気が荒れるのも必然だった。


 だからこそ、ミナトみたいに“深刻になりすぎない”人間がいると場が回る。


 ……まあ、口元が若干笑っているのを見る限り、半分くらい面白がっている気もするけれど。


 私は小さく息を吐き、崩壊しかけている死獣の残骸へ視線を戻した。


 黒灰化は進行中。核反応は減衰。火属性魔素の漏出量も落ちている。


 術式眼に映る残留光を確認しながら、私は淡々と答える。


「残留値は低下しています。核片回収後に簡易浄化を行えば問題ありません。周辺土壌への浸食も軽度です。農地への影響は少ないと思いますけど、念のため報告対象には入れます」


「了解。じゃあ支部には再調査申請込みで上げるか」


 ミナトは手慣れた様子で頷きながら矢筒を背負い直した。軽薄そうに見えて、こういう実務処理はかなり正確だ。というか、私たちのパーティーは全員そこそこ報告書にうるさい。


 討伐士は戦うだけの仕事じゃない。


 どこで、何が、どれだけ危険だったか。


 それを正しく残さないと、次に来る誰かが死ぬ。


 だから私たちは、生還率と同じくらい記録精度を重視していた。


「アヤネ、カオルの腕は?」


 ミナトが視線を向けると、アヤネはすでに治療用の術布を取り出しながらカオルの右腕を見ていた。


「腱に負荷が出ていますね。骨まではいってませんけど、かなり無理をしています」


「平気だって言ってんだろ」


 本人は即座に反論した。


 しかしアヤネはまったく動じない。


「では、右腕を肩の高さまで上げた状態で三十秒維持してください」


「……」


 カオルが黙った。


 その沈黙だけで答えが出ている。


「できないんですね」


「できる。やらねぇだけだ」


「はい、治療します」


 にこり、と。


 アヤネが柔らかく笑った。


 その笑顔は穏やかで、優しくて、聖職者として百点満点なのだけれど、私たちパーティーは全員知っている。


 アヤネは怒鳴らない代わりに、“静かに絶対拒否を許さないタイプ”だ。


 案の定、カオルはわずかに一歩後ろへ下がった。


 ほんの数分前まで巨大な猪型死獣へ真正面から殴りかかっていた男が、ヒーラーの微笑みには普通に押されている。


 勇猛果敢なバーバリアン、対アヤネ戦績は圧倒的不利。


 私はその光景を見ながら、ほんの少しだけ胸の奥がすっとした。


 うん。もっとやってほしい。


 その日の依頼は、結果だけ見れば成功だった。


 農地付近へ出現した火属性死獣の討伐完了。


 周辺被害の拡大阻止。


 死骸処理も問題なし。


 簡易浄化を終えた土地は熱も落ち着き、術式計測でも危険域を下回っていた。


 私は携帯記録板へ報告内容を書き込んでいく。


『依頼情報と実際の危険度に差異あり』


『対象個体に火属性変異反応を確認』


『周辺地域の再調査を推奨』


 書き慣れた定型文だった。


 けれど最近、この“危険度差異あり”の記載が増えている気がする。


 位相領域の拡大。


 変異個体の増加。


 死獣の高密度化。


 支部でも嫌な噂は増えていた。


 まあ、それを今ここで考えても仕方ないのだけれど。


 問題は、そのあとだった。


 ラウゼンフェルド支部へ戻り、討伐報告書を提出し、仮精算を受け、傷んだ装備を工房へ預け終えた頃には、空はすっかり夕暮れ色になっていた。


 赤錆色の光が石畳を染め、仕事帰りの討伐士や商人たちが中央通りを行き交っている。


 私たちはその流れに混ざるようにして、旧宿駅区にある《リント亭》へ向かった。


 依頼成功の日に、軽く食事をして帰る。


 それはいつの間にか定着した、私たちなりの習慣だった。


 討伐士という職業は、不安定だ。


 明日も普通に食事ができる保証なんてない。依頼先で死ぬかもしれないし、汚染を受けて復帰できなくなる可能性だってある。


 だから、食べられるときに温かいものを食べる。


 笑えるうちに笑っておく。


 それは贅沢なんかじゃない。


 討伐士にとっては、割と真面目に生存戦略なのである。

 《リント亭》は、今日もいつも通り騒がしかった。


 木造の広い店内には、仕事終わりの熱気がむわりと籠もっている。隊商護衛たちが奥の席で肩を組みながら大声で笑い、煤まみれの工房職人たちはジョッキ片手に仕事の愚痴を飛ばし合い、見習い討伐士らしき若者が先輩に頭を小突かれながら説教を受けていた。


「だからお前は突っ込むなって言っただろうが!」


「でも先輩も突っ込んでましたよね!?」


「俺はいいんだよ!」


 理不尽である。


 けれど討伐士の世界では、わりとよくある光景でもあった。


 店主のおじさんはそんな喧騒をまるで気にした様子もなく、片手に皿を三枚積み上げたまま客の間を器用にすり抜け、騒ぎすぎている常連の後頭部をついでみたいに軽く叩いている。


 焼いた肉の脂の匂い。


 煮込み豆に使われた香草の香り。


 麦酒の発酵臭。


 汗と鉄と木材の匂いまで混ざり合った空気は、綺麗とは言い難いのに妙に落ち着く。


 窓際では旅芸人らしい女性が弦楽器を爪弾いていて、酔っぱらいの笑い声に埋もれながらも、ゆるやかな旋律だけは不思議と耳に残った。


 私は本当なら、静かに食事を済ませるつもりだった。


 依頼成功の確認。


 報酬配分の調整。


 明日の休養予定の共有。


 それを終えたら、今日は早めに帰る。


 討伐後は身体より頭が疲れる日もある。そして今日は割とそのタイプだった。


 本当なら。


「で、結局お前は俺がいなきゃ、あの猪に何分かけるつもりだったんだ?」


 カオルが、麦酒のジョッキを片手に実にいらないことを言った。


 私はちょうど煮込み豆を口へ運ぼうとしていたところで、その手をぴたりと止めた。


 ……ああ。


 始まった。


「少なくとも、作戦を守っていれば負傷リスクは三割下がっていました」


 私はできるだけ冷静に返した。


 冷静に。


 本当に、可能な限り冷静に。


 しかしカオルはどこ吹く風である。


「その代わり時間は倍かかったな」


「安全性を確保するための時間です」


「死獣相手に“少々お待ちください”って頼むのか?」


「だから事前に誘導すると説明したんです!」


 私は思わず声を強めた。


 あの猪型死獣は突進特化型だ。進行方向を限定できれば包囲は容易になる。地形利用と誘導陣を組み合わせれば、正面火力に頼らず処理できた可能性は十分あった。


 なのにこの男は。


「回りくどいんだよ」


「あなたが単純すぎるんです!」


 即答だった。


 もはや反射に近い。


 隣ではミナトが完全に面白がっていた。パンをちぎりながら肩を震わせている。絶対笑ってる。


 助ける気ゼロである。


 アヤネは静かにスープを飲んでいた。


 こちらを見ないようにしてるのはなんとなく伝わってくるけど、耳だけは絶対こっち向いてる。


 あの“巻き込まれないように気配を消している時のアヤネ”だ。長い付き合いなので分かる。


「だいたいな、ハルカ」


 カオルがジョッキを机へ置きながら、いかにも“分かってないな”みたいな顔をした。


「お前、考えすぎなんだよ」


「考えなさすぎる人にだけは言われたくありません」


「戦場じゃ迷ったやつから死ぬ」


「考えることと迷うことは違います」


「似たようなもんだろ」


「全然違います!」


 私は机を軽く叩いた。


 木皿がかたんと鳴る。


 周囲の客が何人かこちらを見たけれど、討伐士同士の口論なんて珍しくもないので、すぐ興味を失って酒へ戻っていった。


 ラウゼンフェルドでは平和な日常風景である。


 本来なら、この辺りで終わるはずだった。


 いつもの軽口。


 いつもの言い合い。


 お互い少し苛立って、でも本気で険悪になるほどではない、そんな程度のやり取り。


 問題は、カオルがさらに余計な一言を足したことだった。


「そんなに自分の理屈に自信があるなら、飲み比べでも勝てるんじゃねぇの?」


 私はぱちりと瞬きをした。


 ……は?


「……今、何の話をしています?」


「理屈が強いなら酒にも勝てるんだろ」


「理屈と酒量には何の相関もありません」


「難しいこと言って逃げるのか?」


「逃げていません」


「じゃあ勝負だな」


「勝負ではありません」


「怖いのか?」


 私はジョッキを置いた。


 静かに。


 かなり静かに。


 アヤネが小さく「あ」と言った。ミナトが「これは止めた方がいいやつかな、面白いから少し見たいけど」と最低なことをつぶやいた。


「カオルさん」


「何だよ」


「私は、無意味な挑発に乗るほど子どもではありません」


「へぇ」


「しかし、あなたに逃げたと思われるのは、業務上の指揮系統に悪影響を及ぼします」


「つまり?」


「受けて立ちます」


 ミナトが天井を仰いだ。


 アヤネが額に手を当てた。


 カオルは獣みたいに笑った。


「いいねぇ、リーダー。そういうところは嫌いじゃねぇよ」


「私はあなたのそういうところがだいぶ嫌いです」


 そこから先の記憶は、最初のうちはまだはっきりしている。


 問題は、“最初のうちは”という部分なのだけれど。


 一杯目は、普通の麦酒だった。


 リント亭でいつも出している、癖の強い北部産の麦酒。泡は粗くて苦味も強いけれど、討伐帰りの身体には妙に合う。特に塩を強めに利かせた焼き肉との相性がいい。疲労した身体が塩分と水分を欲しているせいか、喉を通る感覚がやたら気持ちよかった。


 私は普通に飲んだ。


 カオルも普通に飲んだ。


 お互い、顔色一つ変わらない。


 その時点でやめておけばよかったのである。


 二杯目は黒麦酒だった。


 色の濃い、重たい酒だ。香ばしさが強く、後味がどっしり残るタイプ。リント亭の黒麦酒は度数もやや高めで、普段なら私は二杯目以降にこれを選ばない。


 けれど、その日は妙に負けたくなかった。


 いや、別に飲酒勝負で勝敗を競う理由なんて一切ないのだけれど、カオルが終始「余裕だなぁ」みたいな顔をしているのが地味に腹立たしかったのだ。


 しかも本人、酔いが回るどころかむしろ機嫌が良くなっている。


「お、意外と飲めるじゃねぇか」


「あなた基準で“意外”判定されるの不本意なんですが」


「細っこい術師って弱ぇイメージあるしな」


「偏見です」


 偏見だった。


 私は酒に弱い方ではない。討伐士は酒席も仕事のうち、みたいな空気があるので、ある程度は付き合えるようになっている。


 ただ、このときの私はまだ知らなかった。


 “付き合える”と“張り合っていい”は、まったく別概念であるということに。


 三杯目は果実酒だった。


 透明な琥珀色の酒で、香りがやたら良い。口当たりも軽くて甘みが強い。


 つまり危険である。


 甘い酒は飲みやすいぶん、感覚が鈍る。気づいた頃には回っている。討伐士の酒席事故で最も多い原因の一つだと、昔ギルド講習でも聞いた覚えがあった。


 なので私は、ちゃんと飲む前に水を挟んだ。


 …うん、我ながら偉い。


 非常に理性的な判断である。


 するとカオルが、案の定みたいな顔で鼻を鳴らした。


「なんだその小細工」


「水分管理です」


「飲み比べで逃げ始めたか?」


「アルコール分解効率を考えた合理的対応です」


「言い方だけ賢そうだな」


「実際賢いので」


 私は真顔で返した。


 今思うと、この辺りから若干テンションがおかしくなっていた。


 四杯目に入った頃には、周囲の客たちが完全にこちらを観戦し始めていた。


 最初は近くの席で面白がって見ていた程度だったのに、いつの間にか「まだやってるぞ」「術師の姉ちゃん強くね?」みたいな声が飛び始め、気づけば空いた席に人まで集まり始めている。


 …ほんとにやめてほしい。


 私は静かに食事をしたかったのである。


 しかし事態をさらに悪化させたのが店主だった。


「ほらよ、せっかくだしこっちも試してみろ」


 そう言って運ばれてきたのは、明らかに度数の高そうな蒸留酒だった。


 なぜ出すのか。


 止める側ではないのか。


 討伐士二人が張り合い始めている時点で、普通は水を出して解散させるべきでは?


 けれど店主は慣れた顔で「壊すなよ」の一言だけ添えて去っていった。


 今なら分かる。


 この街の大人たち、討伐士の愚行に慣れすぎている。


 五杯目を越えたあたりで、ミナトが完全に調子に乗った。


「はいはい注目ー! 現在オッズはカオル一・三倍、ハルカ二・八倍となっておりまーす!」


「あんた何始めてんの!?」


 私は即座に抗議した。


 しかしミナトはパンを片手に、やたら楽しそうである。


「いやぁ、ここまで来たらもう勝負だろ?」


「勝負じゃありません!」


「えー、でもハルカめちゃくちゃ負けず嫌いの顔してるし」


「してません!」


「してる」


 横からカオルが即答した。


 …腹立つなぁ、もう


 アヤネは「ミナト、やめましょう……」と控えめに止めようとしていたけれど、周囲がすでに盛り上がり始めていて、もはや止まる空気ではなかった。


 私はたしか、「賭博行為はギルド規定に抵触する可能性があります」とか何とか言った気がする。


 誰一人聞いていなかった。


 非常に遺憾である。


 そして六杯目あたりから、記憶が若干あやふやになる。


 いや、正確には“場面の繋がり”が怪しくなる。


 気づいたら店が変わっていた。


 なぜ変わったのかは分からない。


 たぶんカオルが「この店の酒は軽い」と言ったのだと思う。


 それに対して、たぶん私は「では別店舗で比較検証しましょう」と返した。


 検証しなくていい。


 過去の私へ全力で言いたい。


 そこで水を飲んで帰れ。帰宅しろ。寝ろ。


 なのに当時の私は、なぜか妙に論理的な顔で二軒目へ移動していたのである。



 旧宿駅区の酒場を、そこからさらに何軒か回った記憶がある。


 ある、というか、断片的に残っている。


 完全に繋がってはいない。ところどころ抜けているし、場面転換も妙に雑だ。たぶんその時点で酔っていたのだと思う。いや、たぶんじゃない。確実に酔っていた。


 ただ、それでも旧宿駅区特有の雑多な空気だけは妙にはっきり覚えていた。


 夜の旧宿駅区はうるさい。


 昼間は荷運びと鉄道搬送で騒がしい地区だけれど、夜になると今度は酒と笑い声で騒がしくなる。石畳の通りには酒場の灯りが並び、酔っぱらいの怒鳴り声と、どこかの店で鳴っている楽器の音がごちゃ混ぜになって流れてくる。


 討伐士、隊商護衛、工房職人、旅人、流れの傭兵。


 危険職ばかり集まるせいか、全体的に声がでかい。


 一軒目を出た時点で、すでに私たちはかなり目立っていたらしい。


「おー、さっきの飲み比べの奴らじゃねぇか!」


 どこかの酒場前で、隊商護衛らしい大柄な男たちに声を掛けられた覚えがある。


 そして、煽られた。


 ものすごく煽られた。


「まだ勝負ついてねぇのか!?」


「兄ちゃん強そうだけど、術師の姉ちゃんも結構飲むなぁ!」


「追加一杯!」


 なぜ他人の飲酒勝負にこんなにテンションが上がるのか。


 いや、気持ちは分からなくもない。安全圏から見る分には面白いのだろう。完全に他人事だから。


 しかし当事者側からすると非常に迷惑である。


 ……まあ、その追加酒を普通に受け取って飲んだのは私たちなのだけれど。


 さらに別の店では、工房職人たちに囲まれた。


 あの人たち、酔うとすぐ“自分たちの特製酒”を出してくるのは何なのだろうか。


「これ試してみろよ! 喉焼けるぞ!」


 焼けるのはダメでは?


 私は差し出された透明な酒を見て、本気で一歩引いた。


 匂いが強い。


 強すぎる。


 アルコールというより、もはや揮発性薬品寄りの刺激臭だった。


「……これ、本当に飲用ですか?」


「飲用飲用!」


「装備洗浄用ではなく?」


「がははは!」


 笑って誤魔化された。


 いや誤魔化せていない。


 絶対危ないやつだった。


 なのに私は飲んだ。


 なぜ?


 いや本当に、なぜ?


 過去の自分へ問い詰めたい。


 勝負とは、人間の判断力を破壊する極めて危険な儀式である。


 しかもカオルが横で平然としているのがさらに腹立たしかった。


「お、結構いけるな」


 とか言いながら飲むな。


 死ぬぞ。


 その辺りから、記憶がかなり怪しくなっている。


 ただ、カオルと言い合っていたことだけは覚えていた。


 酔っていてもそこは変わらないらしい。


「お前、ほんっと細けぇよな」


「あなたが粗すぎるんです」


「針何本持ち歩いてんだよ」


「十二本です。予備を含めれば十八本です」


「多すぎるだろ」


「あなたの武器の傷の数より少ないです」


「俺のは勲章だ」


「私の針も命綱です」


「命綱にしちゃ細ぇな」


「あなたの神経よりは太いです」


 ……たぶん、そんな感じの会話だったと思う。


 いや、細部は怪しい。


 でも“ずっとこんな調子だった”という部分だけは間違いない。


 途中、どこかの屋台にも寄った。


 炭火の匂いがしたので焼き串だったはずだ。


 カオルが肉串を二本まとめて口へ突っ込んでいた記憶がある。


 食べ方が雑すぎる。


「ちょっと、消化器官にも礼儀を持ってください」


「肉は噛めば同じだろ」


「そういう問題ではありません」


「細けぇなぁ」


「だからあなたが大雑把すぎるんです!」


 私が酔っていたせいか、会話の論点はだいぶ迷子になっていた。


 けれどカオルは終始楽しそうだった。


 酔って声が大きくなっていたし、笑う回数も増えていた。


 その笑い方がまた、妙に遠慮がない。


 子供みたいに気持ちよく笑うので、腹立たしいのに調子が狂う。


 ……いや、腹立たしいことに変わりはないのだけれど。



 そのあと、私たちは夜の街を歩いた。


 どの店を出たあとだったのかは、もう曖昧だ。


 けれど、夜風が気持ちよかったことだけは覚えている。


 ラウゼンフェルドの夜は、昼より少し優しい。


 昼間の旧宿駅区は、とにかく騒がしい。荷車の音、鉄道搬送の蒸気音、怒鳴り声、工房の金属音。人も多く、空気も熱を帯びていて、街そのものが常に動き続けている感じがする。


 でも夜になると、その喧騒が少しだけ遠のく。


 完全に静かになるわけではない。酒場の笑い声はまだ聞こえるし、夜勤の搬送列車が遠くを走る振動も残っている。それでも昼間ほど尖っていない。街全体が、一日の疲れを吐き出すみたいにゆるやかになるのだ。


 旧宿駅区の通りに並ぶ魔導灯は、白く鋭い照明ではなく、淡い橙色をしている。


 ぼんやりと石畳を照らす光が、夜露を含んだ地面に滲んでいた。


 水路区の方から吹いてきた湿った風が、酒で火照った頬をゆっくり冷ましていく。


 酔って熱を持っていた頭が、その風で少しだけ楽になった。


 遠くでは馬車の車輪が石畳を鳴らしている。


 どこかの建物の窓からは、酔っぱらいの歌声まで漏れてきていて、音程は酷かったけれど、不思議と嫌な感じはしなかった。


 私たちは、そんな夜道を並んで歩いていた。


 カオルは隣にいた。


 いつもみたいに大声で騒いでいるわけでもなく、酒場で見せていた勢いも少し落ち着いている。


 妙に静かだった。


 ……いや、静かというより、“ぼんやりしていた”に近いかもしれない。


 重刃を肩に担いだまま、ゆっくり歩いている。


 討伐中はあれだけ荒々しいのに、こうしていると変な脱力感があった。


「お前さ」


 しばらく沈黙が続いたあと、カオルがぽつりと口を開いた。


「何ですか」


「いつもそんなに気張ってんのか」


 私は少しだけ瞬きをした。


 酔っていたせいか、その質問の意味を理解するまでに少し時間がかかった。


「……リーダーですから」


 考えて出した答えというより、反射的な返答だった。


 パーティーの状況を見るのは私の役目だ。


 依頼の危険度確認。


 装備消耗の管理。


 魔素残量。


 撤退判断。


 報告書。


 前衛が無茶をしたときの胃痛。


 特に最後。


 最近かなり重要。


「疲れねぇ?」


 カオルが前を向いたまま聞いてくる。


 声音が妙に静かだった。


 いつものからかう調子ではない。


「疲れます」


 私は素直に答えた。


 たぶん、酒が入っていたからだと思う。


 普段ならもう少し取り繕った。


 リーダーが弱音を見せるべきじゃない、みたいな意識は一応ある。


 けれどその夜は、変に気を張るのが面倒だった。


「正直だな」


「酔っていますから」


「そりゃそうだ」


 カオルが笑った。


 その笑い方に、私はなぜか少し困った。


 いつもの挑発的な笑みじゃなかったからだ。


 「ほらまた怒るだろ」みたいな顔でも、「面白ぇな」みたいな煽り顔でもない。ただ力が抜けた、年相応の青年の顔だった。


 討伐士としてじゃなく、戦闘狂としてでもなく、ただ普通に笑っている感じ。


 そういう顔をされると、調子が狂う。


 というか、怒る理由を見失う。


 さっきまであれだけ腹を立てていたはずなのに、妙に静かな空気になるせいで、こちらまで変に落ち着いてしまうのだ。


 非常に迷惑だった。


 ……本当に、かなり迷惑だった。


「あなたこそ、いつもあんな戦い方をしていたら身体がもちません」


「もってる」


「今は、でしょう」


「今もってりゃ十分だろ」


「十分ではありません。明日も、明後日も、次の依頼もあります」


「真面目だなぁ」


「あなたが不真面目すぎるんです」


「俺は真面目に殴ってる」


「殴る以外の真面目さを身につけてください」


 その会話のあと、何があったのか。


 そこから先は、霧がかかったように曖昧だ。


 笑った気がする。


 怒った気もする。


 カオルが何かを言って、私が言い返して、二人でまた別の店に入ったような、入らなかったような。


 ミナトとアヤネは途中でいなくなっていた。いなくなったというより、たぶん私たちが勝手に移動しすぎて置き去りにした。ごめんなさい。本当にごめんなさい。後日きちんと謝ることになる。主にアヤネに。


 ――そして、夜は終わった。


 終わった、はずだった。


 少なくとも私の記憶では、途中から景色が曖昧になっていて、会話も断片的で、最後の方なんて「たぶん歩いていた気がする」くらいしか残っていない。


 だから当然、あとは普通に解散して、それぞれ帰宅したものだと思っていたのである。


 問題は、朝だった。


 私は鳥の鳴き声で目を覚ました。


 やけに澄んだ声だった。


 窓の外から聞こえる小鳥の囀りと、遠くで荷車が軋む音。それから、階下で誰かが水桶を運んでいるらしい物音まで混ざっている。


 つまり、朝だ。


 非常に健康的な朝である。


 その一方で、私の体調はまったく健康的ではなかった。


 頭が痛い。


 いや、かなり痛い。


 脳の内側で誰かが小槌を振っているみたいにずきずきする。口の中は乾いているし、胃は微妙に重いし、視界の焦点も少し遅れる。


 完全に二日酔いだった。


 …ああ、やってしまった。


 討伐士として酒量管理を怠るのはよくない。判断力低下は命に直結する。私は普段ちゃんと気をつけている方なのに。


 ……いや、本当にどうしてあそこまで飲んだのだろう。


 そこまで考えたところで、私は違和感に気づいた。


 天井が知らない。


 木造の天井だった。


 見慣れた自室の天井ではない。木目の入り方も違うし、梁の位置も違う。薄い朝日が差し込む角度からして、窓の向きも自宅とは別だ。


 ぼんやりした頭で周囲を見回す。


 簡素な木壁。


 薄い生成り色のカーテン。


 小さな丸机。


 隅に置かれた水差し。


 どこにでもある安宿の一室だった。


 旧宿駅区の宿なら、まあこんな感じの部屋はいくらでもある。


 討伐士として、知らない宿で目を覚ますこと自体は別に珍しくない。依頼帰りにそのまま泊まることもあるし、夜遅くなれば宿を取った方が安全な場合も多い。


 だから、宿にいること自体は問題じゃない。


 問題は。


 私、この宿に来た記憶が一切ないんだけど?


 という部分である。


 しかもそこで、さらに嫌な違和感が増えた。


 ……布団、妙に温かくない?


 いや、もちろん布団なのだから多少は温かい。


 けれどそういう話ではない。


 体温。


 人肌的な。


 なんかこう、“自分一人分じゃない熱”がある。


 嫌な予感がした。


 ものすごく嫌な予感だった。


 そして人間、嫌な予感ほど当たる。


 布団の向こう側から、規則正しい寝息が聞こえていた。


 私は一瞬、思考を停止した。


 いやいやいや。


 待って。


 落ち着こう。


 可能性はいろいろある。


 例えば酔っぱらい同士で雑に雑魚寝したとか。宿側の手違いとか。討伐士用の大部屋とか。そういう平和的な理由かもしれない。


 そうであってほしい。


 私は祈るような気持ちで、ゆっくりと横を向いた。


 そこにいたのは、カオルだった。


 かなり近かった。


 というか近い。


 顔が近い。


 同じベッドの上だった。


 しかも距離感がおかしい。


 寝返りを打ったら普通にぶつかる程度には近い。


 そして何より問題なのが――服を着ていない。


 いや、正確には上半身が見えていた。


 見えてしまった。


 鍛えられた肩とか腕とか胸板とか、そういう“普段は鎧の下に隠れている部分”が普通に視界へ飛び込んできて、私の脳が一瞬完全に処理を拒否した。


 私はそっと目を閉じた。


 深呼吸した。


 大丈夫。


 落ち着け。


 これは夢かもしれない。


 酒のせいで変な幻覚を見ている可能性もある。そうだ、きっとそうだ。討伐後の疲労とアルコールで脳が誤作動を起こしているだけで、現実にはもっと平和な状況のはず。


 私はもう一度、ゆっくり目を開けた。


 カオルがいた。



 ……現実だった。



 しかも普通に寝ていた。


 なんなら寝顔が妙に無防備だった。


 腹立つ。


 いや今はそこじゃない。


 私は恐る恐る、自分の状態を確認した。


 布団の中へ視線を落とす。


 肌。


 布。


 肌。


 ……服がない。


 思考が止まった。


 声を出そうとした。


 でも出なかった。


 喉の奥で変な音だけが引っかかる。


 その瞬間、私の頭の中で、これまで積み上げてきた知識という知識が全部まとめて机から落下した。


 魔素理論。


 付与術式。


 討伐戦術。


 ギルド規定。


 治癒術基礎。


 酒場での会計記録。


 昨日の死獣の核構造。


 全部。


 ばっしゃーん、と。


 綺麗に。


 何一つ残らず吹き飛んだ。


 そして脳内に残ったのは、たった一つ。


「……なんで」


 声が震えた。


「なんで、あんたがここにいるのよ」


 カオルの眉がぴくりと動いた。彼は寝ぼけた顔で薄く目を開け、私を見た。


 数秒、沈黙。


 彼の視線が私の顔から、布団へ、部屋へ、自分の状態へ移動した。


 目が覚めたらしい。


「……それ、こっちの台詞なんだけど」


 私は布団を胸元まで引き上げた。


 カオルも同じように布団を引いた。


 お互いに、絶対に相手の方を見ないようにしながら、ものすごく見ていた。


「ちょ、ちょっと待って!? 私たち……その……」


「知らねぇよ! 俺も記憶ねぇんだよ!!」


「記憶がないで済む状況じゃないでしょう!」


「俺に怒鳴るな! 俺だって混乱してる!」


「混乱しているのはこっちです! 服! 服はどこですか!?」


「知るかよ!」


「探してください!」


「どうやってだよ、この状態で!」


 部屋の隅に、私の外套らしきものが落ちていた。椅子にはカオルのベルト。床には片方だけの靴。窓辺にはなぜか配列針のケース。壁に掛かった燭台には、私の髪紐が引っかかっている。


 意味が分からない。


 なぜ髪紐が燭台にあるのか。


 なぜ配列針が窓辺にあるのか。


 なぜ服が、部屋のあちこちに散っているのか。


 私は昨夜、いったい何をしたのか。


 いや、待って。


 落ち着いて。


 ハルカ・レイゼンベルク、落ち着きなさい。


 こういうときこそ状況確認。事実と推測を分ける。感情に呑まれてはいけない。私はエンチャンター。戦場でも混乱せず、魔素の流れを読み、最善手を選ぶ女。


 現状の事実。


 一、知らない宿で目覚めた。


 二、隣にカオルがいる。


 三、二人とも服を着ていない。


 四、昨夜の記憶が途中からない。


 五、部屋の状態が非常によろしくない。


 推測。


 考えたくない。


 非常に考えたくない。


「ハルカ」


「何ですか」


「お前、顔真っ赤」


「あなたに言われたくありません!」


「いや、俺は別に」


「耳まで赤いです!」


「見んな!」


「そっちこそ見ないでください!」


 二人同時に反対方向を向いた。


 沈黙が落ちた。


 鳥の声がする。


 宿の廊下を誰かが歩く音がする。


 隣室から、いびきが聞こえる。


 世界はこんなにも平和なのに、私の人生だけが今、崖から転げ落ちている。


「……まさか」


 私は小さくつぶやいた。


「私たち、変なことしてませんよね」


「俺に聞くなよ」


「では誰に聞けばいいんですか!」


「宿の主人とか」


「聞けるわけないでしょう!」


 想像してしまった。


 受付で真顔のまま、「昨夜、私たちは何をしていましたか?」と尋ねる私。


 無理。


 死獣の巣に入る方がまだまし。


 カオルが頭を抱えた。


「とにかく、服を着るぞ」


「そうですね。まず服です。人間として最低限の尊厳を回復しましょう」


「言い方」


「事実です」


「そっち向いてろよ」


「あなたこそ」


「見ねぇよ」


「信じられません」


「俺だって信じられてねぇよ!」


 私たちはしばらく無言だった。


 いや、正確には“声を出したら何かが決定的に終わる気がして黙っていた”が近い。


 部屋の空気が重い。


 妙な緊張感がある。


 同じ死獣相手に共闘している時ですら、ここまで気まずくなったことはなかった。


「…………」


「…………」


 気まずい。


 とんでもなく気まずい。


 けれど、だからといってこのまま布団に籠もって現実逃避し続けるわけにもいかなかった。


 まず状況確認。


 討伐士として大事。


 非常に大事。


 私はぎこちなく視線を逸らしながら、ベッド脇へ落ちていた服を拾おうとして――そこで、カオルと動きが完全に被った。


「っ」


「……悪ぃ」


「い、いえ」


 なぜ謝られたのか分からない。


 いや分かる。


 分かるけれど、今それを深く考えたくなかった。


 私たちは結局、背中合わせみたいな状態になりながら、布団を半分盾代わりにして服を回収し始めた。


 問題は。


 服の散らばり方が、ものすごく意味深だったことである。


「…………」


 私は無言で、自分の外套を持ち上げた。


 その下から、なぜかカオルの革手袋が出てきた。


 意味が分からない。


 さらに、カオルが拾い上げたシャツを振った瞬間、袖口から私の配列針が一本ころりと落ちた。


「……なんでだこれ」


「私が聞きたいです」


 本当に聞きたい。


 どういう経緯を辿れば、服と術式具がそんな絡まり方をするのだろうか。


 討伐中の事故現場の方がまだ状況推測しやすい。


 しかも問題はそれだけではなかった。


「…………え」


 私は拾い集めた自分の術式具を確認しながら、固まった。


 腰帯に固定していたはずの術式封が、いくつか外れている。


 配列針の保護固定も解除されていた。


 これは、本当におかしい。


 私の装備には簡易保護付与がかかっている。


 術式具は精密機器みたいなものなので、勝手に暴発したり、酔っ払いが踏んで壊したりしないよう、最低限の安全封が施されているのだ。


 そしてその封は、普通なら酒に酔った程度で自然解除されたりしない。


 つまり考えられる可能性は三つ。


 誰かが意図的に解いた。


 強い魔素干渉を受けた。


 あるいは――


「…………私が、解除した……?」


 口に出した瞬間、頭痛が悪化した。


 いや待って。


 なんで?


 どういう状況で?


 何の目的で?


 酔った状態の私、何をしていた?


 まったく記憶がない。


 思い出そうとすると、脳が嫌そうに軋む。


 酒のせいなのか、現実逃避なのか、自分でも判断がつかなかった。


 横ではカオルも、自分の重装ベルトを見ながら眉を寄せていた。


「……俺の固定具も外れてんな」


「え」


「普段こんな緩めねぇぞ」


 やめてほしい。


 追加情報を出さないでほしい。


 ただでさえ混乱している脳が限界を迎えそうだった。


 私は急いで服を着込んだ。


 シャツ。


 術式帯。


 外套。


 指先が微妙に震えて、留め具を二回も付け損ねた。


 隣ではカオルも珍しく静かに着替えている。


 普段ならもっと雑に動く男なのに、妙に気配を殺しているせいで余計に気まずい。


 部屋の空気が本当にひどかった。


 どうにか最低限の身支度を終えた、その時だった。


 こんこん、と。


 部屋の扉が控えめに叩かれた。


 私は文字通り跳ねた。


「ひゃっ」


 変な声が出た。


 最悪である。


 カオルも反射的に身体を強張らせ、扉の方を見た。


 討伐士としての警戒反応なのか、今の状況が状況だからなのか、たぶん両方だった。


「お客様、朝食のお時間ですが……」


 宿の従業員らしき声。


 私はカオルを見た。


 カオルも私を見た。


 そして二人で、同時に口元へ指を立てた。


 なぜここだけ息が合うのか。


 本当に腹立たしい。


「け、結構です! あとで行きます!」


 私はできるだけ平静な声を出したつもりだった。自分でも分かるくらい裏返っていた。


「承知しました。昨夜はずいぶんお楽しみでしたね」


 廊下の足音が遠ざかる。


 部屋の中に、重たい沈黙が残った。


 私はゆっくりとカオルを見た。


 カオルもゆっくりと私を見た。


「……お楽しみ」


「……言うな」


「今、完全に言われましたよね」


「言うなって」


「昨夜はずいぶんお楽しみでしたね、って」


「復唱すんな!」


「私たち、何を楽しんだんですか」


「知らねぇよ!」


 私は膝から崩れそうになった。


 冷静沈着。理論第一。優等生リーダー。支部の胃に優しい討伐士。


 そのはずの私が、問題児バーバリアンと飲み比べをして、記憶をなくし、同じ宿の同じベッドで、しかも全裸で目覚めた。


 こんな報告書、どう書けばいいのか。


 依頼名、飲酒事故。


 危険度、測定不能。


 発生原因、挑発に乗ったため。


 被害状況、尊厳に甚大な損傷。


 再発防止策、カオル・グランツと酒を飲まない。


 完璧だ。


 完璧だけれど、提出した瞬間に社会的に死ぬ。


 カオルは乱れた髪をかき上げ、気まずそうに視線を逸らした。


「とりあえず、昨日の足取りを調べるしかねぇだろ」


「当然です。事実確認が最優先です」


「あと……」


「何ですか」


「その、もし何かあったとしても」


「言わないでください」


「まだ何も言ってねぇ」


「言う前から分かります。言わないでください。今その話をすると、私の理性がギルドの緊急鐘より大きな音で鳴ります」


「どんな理性だよ」


「あなたのせいで壊れかけている理性です」


「俺だけのせいか?」


「半分以上はあなたです」


「半分はお前だろ」


「認めたくありません」


「俺だって認めたくねぇよ」


 また、沈黙が落ちた。


 さっきから何度目なのか分からない。


 けれど今度の沈黙は、さっきまでとは少し違っていた。


 単純な気まずさだけじゃない。


 もっとこう、互いに“どこまで口にしていいのか分からない”空気で固まっている感じだ。


「…………」


「…………」


 言いたいことは、たぶん山ほどある。


 責めたい。


 というか普通に問い詰めたい。


 なぜこうなったのか。


 昨夜どこまで飲んだのか。


 誰が宿を取ったのか。


 なぜ同じ部屋なのか。


 なぜ同じベッドなのか。


 なぜ服が脱げていたのか。


 なぜ術式具まで解除されていたのか。


 意味が分からないことが多すぎる。


 一方で、弁解もしたい。


 いや、私は何も覚えていないのだけれど、それでも何かこう、“不可抗力でした”みたいな説明が欲しい。


 誰に対してなのかは分からない。


 たぶん自分に対してだ。


 そして何より厄介なのが、昨夜の記憶についてだった。


 思い出したい。


 でも思い出したくない。


 その両方が同時に頭の中へ存在している。


 もし本当に何もなかったなら安心できる。


 けれど何かあった場合、その記憶を取り戻した瞬間に私はたぶんしばらく社会復帰できない。


 複雑すぎる感情で、頭がぐちゃぐちゃだった。


 それでも。


 それでも、ひとつだけ確かなことがある。


 これは単なる“酔っぱらい同士の事故”では終わらない。


 私は改めて、自分の術式具へ視線を落とした。


 保護封が解除されている。


 しかも雑に壊された感じじゃない。


 手順を知っている人間が、正しい順番で外した痕跡だった。


「…………」


 私は無意識に眉を寄せた。


 術式封は、慣れていない人間が触ると配列が乱れる。


 けれど今の状態は綺麗すぎた。


 まるで、解除方法を理解しているみたいに。


 そんなこと、普通はあり得ない。


 私以外で扱える人間なんて、そう多くないはずなのに。


 さらに違和感はある。


 私はそっと、自分の内側へ意識を向けた。


 魔素循環。


 術師にとっては血流みたいなものだ。


 普段なら、討伐翌日はもっと荒れている。


 死獣戦のあとは負荷が残るし、酒まで飲めばなおさら魔素経路は乱れる。軽い頭痛や循環ノイズくらい普通に起きる。


 なのに。


「……なんで」


 私は小さく呟いた。


 妙に安定している。


 循環が滑らかだ。


 昨夜あれだけ飲んだとは思えないくらい、魔素の流れが静かだった。


 違和感しかない。


 そして、その違和感はもう一つあった。


 私はちらりとカオルを見る。


 彼もこちらを見ていた。


 目が合った瞬間、互いにすぐ逸らした。


 気まずい。


 ものすごく気まずい。


 なのに。


 カオルの近くにいると、魔素の乱れが収まる。


 戦闘中にも感じていた感覚だった。


 あの男の魔素の性質は本来、荒い。


 暴風みたいに制御が雑で、普通の術師なら干渉を避けるタイプの流れをしている。


 けれど私の術式だけは、不自然なくらい通る。


 それどころか、近くにいるだけでこちらの循環まで安定する。


 理論上はあり得ない。


 属性適性でも説明がつかない。


 魔素同調にしては異常に自然すぎる。


 何か別の干渉が起きている。


 しかも。


 私は部屋の隅へ視線を向けた。


 窓際近く。


 朝日が差している床の端に、薄く、ほとんど消えかけた残滓がある。


 位相痕。


 微細な魔素の擦過痕跡。


 普通の人間ならまず気づかない程度の薄さだったけれど、術師の目には分かる。


 しかも、見覚えがない。


 私の術式じゃない。


 アヤネの浄化でもない。


 カオルの土属性強化痕とも違う。


 もっと薄くて、妙に滑らかな痕跡。


「…………」


 嫌な予感がした。


 今度は酒のせいじゃない。


 本能的な警戒に近い感覚だった。


 昨夜、私たちの間で何かが起きた。


 ただ酔って騒いで終わった、それだけではない。


 理論上あり得ない現象が、いくつも重なっている。


 そして一番問題なのは。


 その“あり得ない”の中心に、私とカオルがいることだった。


「カオル」


「あ?」


「昨夜のこと、必ず調べます」


「おう」


「それと」


「何だよ」


「この件、ミナトとアヤネには慎重に説明します」


「隠せると思うか?」


 私は、逃げ場を探すように窓の外を見た。


 薄いカーテンの隙間から覗く旧宿駅区の通りには、朝の人通りが少しずつ増え始めている。昨夜あれだけ騒いでいた酒場の店員たちが眠そうな顔で戸口を掃き、荷運び人が木箱を積んだ台車を押し、行商人が軒先で商品を並べ、朝帰りらしい討伐士が欠伸をしながら通りを歩いていた。


 ごく普通の朝だ。


 普通の朝なのに、私の胃だけがものすごく重い。


 しかも、通りの向こうで誰かがこちらの宿を見上げた気がした。


 ……いや、気のせいかもしれない。


 気のせいであってほしい。


 でもラウゼンフェルドという街は、広いようでいて妙に狭い。特に討伐士絡みの噂に関しては、風核大陸の通信網より速いと評判である。昨日あれだけ酒場を回って、飲み比べだの何だのと騒いだ挙げ句、朝になって同じ宿の同じ部屋から出てきたとなれば、もう説明の余地なんてほとんど残されていない。


「……無理かもしれません」


「だろうな」


「あなた、責任を持ってください」


「何の責任だよ」


「私の社会的信用です」


「重すぎるだろ」


「あなたが軽すぎるんです!」


 結局、私たちはまた言い合った。


 昨日と同じように。


 森の中でも、酒場でも、知らない宿のベッド脇でも、私たちはどうしてもこうなるらしい。


 犬猿の仲。


 最悪の相棒。


 協調性という言葉をどこかに置き忘れてきたバーバリアンと、理論と手順を守らない人間を見ると胃が痛くなるエンチャンター。


 普通なら、ここで終わる関係だと思う。


 組むべきではない。


 近づくべきではない。


 ましてや、飲み比べなんて二度としてはいけない。


 それなのに、私はもう分かってしまっていた。


 この最悪の朝は、ただの失敗では終わらない。


 この男との出会いは、私の計画も常識も平穏も、片っ端から乱暴に壊していく。


 そして壊されたその先に、私一人では絶対に辿り着けなかった何かが待っている。


 そんな、非常に不本意な予感があった。


 認めたくない。


 心の底から認めたくない。


 けれど現実というものは、いつだって私の理論より少し乱暴に扉を蹴破ってくる。


 その朝、私は知らない宿の一室で、頭痛と羞恥と怒りに震えながら、人生で最も面倒な予感を抱いていた。


 私とカオル・グランツの関係は、ここからさらに厄介なことになる。


 ええ、本当に。


 できることなら、昨日の私に全力で言ってやりたい。


 挑発に乗るな。


 飲み比べをするな。


 その男と張り合うな。


 そして何より、酔った勢いで宿へ行くな。


 もっとも、過去の私がそれを聞いたとしても、きっと真顔でこう言うのだろう。


「ここで退いた場合、逃げたと解釈され、今後の指揮系統に悪影響を及ぼします」


 ああもう。


 私は本当に、面倒くさい女である。


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