愛し子ではなかった少女を、精霊王が溺愛するまで
覚えている。そして見守ってきた。
世界を支える精霊王、彼は湖にとある少女の姿を浮かび上がらせる。
「……よく、耐えている」
幼い少女の姿を思い出す。傷だらけの妹を支えて、森に迷い込んできた。
精霊王は試した。その知を、勇気を、代償を。
それなのに、
「今は……囚われているのは、私か」
アルヴェインは、じっと水面を見つめる。
加護は巡り、彼が見守ってきた愛しさは、
知らぬ間に、別の少女へと流れていた。
反転の術式は、世界を今や歪ませている。
でも、あの少女が耐えるから。
自分も耐える。
しかし、
「そろそろ、潮時か……」
限界は近い、世界は軋んでいる。
湖の量が減っている。わずかながら、確かな歪み。
愛し子とは、本来清らかなもの。
それが加護の反転によって作り出された愛し子によって、精霊が、憤り、仕事を放棄している。
しかし、そばによると惹かれてしまう。それが名もなき精霊達だ。
人間との契約は、本来破るものではない。
しかし。
幼い少女を思い出す。
酷な条件の提示に迷いなく頷いた、清らかな子。
不安げに、しかし絶対に妹を助けるのだと、その瞳は強かった。
湖に映る姿を見つめる。
理不尽に耐え、尚強くある姿を。
妹の傷はすっかり癒えている。
そして世界が理不尽に歪んでいる。
アルヴェインが耐える理由は、もう、ない。
「もうすぐだ」
アルヴェインは一人ごちる。
抑えきれない愛しさを、期待にのせて。
光に囲まれて少女が笑っている。
リリアは少し離れたところから、それを眩しそうに眺めていた。
妹のルチアは精霊の愛し子だ。
森に迷い込んだあの日から、彼女はたくさんの精霊に囲まれるようになった。
笑い声が聞こえる。
ふわふわと漂うたくさんの光、ルチアの前では花が降り、光が差す。
対してリリアは、自分の周りが暗く沈み込んでいるような気がした。
森に入ったあの日、二人の運命は別れた。妹は愛され、そしてリリアは精霊に避けられるようになった。
何か無礼なことをしたのだろうと、両親に疎まれ、二人は今は妹だけを可愛がっている。
リリアは隣の庭まで掃除をする。
隣のおばさんは腰が悪いのだ。
「お姉ちゃん、まだ掃除してるの? ルチア喉乾いた」
はいはい。と頷いて飲み物を取りに行く。妹が今日も元気だ。それで、十分だ。
精霊が明滅する。
何かを暗示するように、
平和な日々を彩っていった。
森に入ると静謐な空気に包まれる。リリアは、一人森を進んでいく。少し開けたところにある、祠。ここは、精霊王に通じると伝説がある。
リリアは礼をとり、静かに掃除をしていく。リリアを避けて、精霊が逃げていく。それでも。
「……ごめんなさい。自己満足だとわかっていても、ルチアを助けてくれた精霊様に、恩返しがしたいのです」
「……精霊王さま、どうか、お許しください」
それを聞かれているとも知らずに。
リリアは掃除を終え、果物を供える。供物だ。
果物は買ったものではなく、リリアが森で見つけたものだ。リリアには、自分で果物を買うお金はない。家族のため、なら別だが。
祈りの姿勢を取る。
心の中が澄み渡っていく。
森は、好きだ。
愛されない自分を、拒否しないから。
愛し子に地位を与える。そんな知らせが来たのは、突然の事だった。
興奮した両親とルチアは、まるで舞踏会に行く貴族のようにめかし込んで、授与式に臨んでいた。
リリアは、それをひっそりとみていた。今日も、相変わらず精霊に避けられ、あたりが暗く感じる。
役人が書状を読み上げようとした時だった。
突風が吹き、光が生まれ、そして収束する。
目を開ければ、そこに背の高い人ならざるものが立っていた。
穏やかな極彩色の長い髪、
深い知性を感じさせる湖のような瞳。
「……精霊王さま?」
会った事ない、そう思うのに、リリアの唇からその言葉は自然にまろび出た。
民衆にざわめきが広がっていく。
「……娘、やり過ぎたな」
これ以上、見過ごすわけにはいかないとルチアに手をかざすと、リリアは不思議な感覚を覚えた。
まるで、何か失ったものが戻る感覚。まるで、自分の輪郭が正しくなっていくような。
「なに?」
ルチアは不安げに叫び、周りにいた精霊達が散っていく。
「加護を正しく戻した。お前は、もう愛し子ではない。貸していた力が戻っただけ。あるべき姿だ」
精霊達はルチアを避け、近づかない。まるで、今までのリリアのように。嫌われて、いるかのように。
「嘘よ。呪いだわ。あなたが呪いをかけたんでしょう」
「私は精霊王。秩序を守っただけだ」
淡々とアルヴェインは告げた。
激昂しているルチアに対して、ひどく冷静だった。
「私がここに来たのは、このためだけでは、ない」
アルヴェインの瞳が、真っ直ぐリリアを捉えた。
アルヴェインは、ゆったりとリリアに歩み寄る。自然と人並みが割れた。
「リリア」
低く、穏やかなのに甘く呼ばれて、リリアの胸が震える。
リリアは静かに膝を折り、礼をとった。
アルヴェインが微笑む気配がする。
「祝福を。精霊からではないーー私から」
それは、精霊王が誰か一人に与えるには、あまりに個人的な光だった。
リリアの身体があたたかな光に包まれ、花びらが降った。
あたりの人々が、息を呑む気配がする。誰も、何も言えない。
リリアは、驚いたように目を見開いた。
「今は、思い出せなくていい。いずれ……思い出させる」
何かを堪えたのに抑えきれなかったような声が、リリアの胸を打った。
アルヴェインをじっと見つめる。目を逸らせない。けれど、この人を知っている。
そんな気がした。
今ではない。遠い彼方で、何か大事な約束をーー
ずきりと頭が痛んで、リリアはこめかみを抑えた。
「無理をしなくていい」
アルヴェインは静かに言って、リリアの肩を支える。
精霊王様が触れている。リリアは動揺した。
「……私、不快ではないですか? 精霊には好ましくないと思うのですが」
恐る恐る、と投げられた問いに、アルヴェインは首を振った。
「全て、理由がある。
でも今は、明かすべきではない」
「お前に負担がかかりすぎる」
もう休め、と彼は優しい声で言った。今まで避けられていたはずの精霊が、ふよふよと寄ってくる。
ーーこの方が、救ってくださった。
リリアは、アルヴェインに深く感謝をした。
結局授与式はお開きになった。
精霊王の介入
歴史的な珍事だ。
ルチアは今やヒソヒソと噂話を囁かれ、全てに愛された少女の姿はどこにもない。
両親は、腫れ物に触るように機嫌を取るが、ルチアは閉じこもっている。
精霊の多い場所に行くと、自分が精霊に好かれていないのがわかってしまうから。
「どうしてよ。この間まで何もしなくても鬱陶しいくらい寄ってきてたじゃない」
その声に、返る答えは無い。
その日も、リリアは森の祠を掃除していた。アルヴェインに加護をもらってから、精霊に避けられなくなった。
おかげでお供えの木苺もたくさん取れた。
リリアはいつも通り礼をとり、丁寧に掃除を始める。
空気が揺れた。
「リリア」
柔らかな声。アルヴェインだ。
「精霊王さま」
慌てて膝を折ろうとするリリアを押し留める。
「私の名はーーアルヴェイン」
それが鍵だった。
もの凄い速度で記憶が巡る、蘇る。
「アルヴェイン、さま」
リリアの口から漏れた言葉が過去に重なる。
「アルヴェインさま、いもうとをたすけて」
確かにリリアはそう言った。
「私……」
「思い出したようだな。……すまなかった」
つらかっただろうと言われて、そのあまりに優しげな瞳に、リリアの瞳から涙が溢れた。
「いいえ、いいえ……私が選んだのです」
「妹を助けてくださって、ありがとう、ございます」
リリアの震える肩を、アルヴェインは抱いた。
「お前はよくやった。見てみろ」
リリアが顔を上げると、精霊達が祝福するように舞っている。
「リリア、お前の心は、届いている」
「お前の妹に流れていたお前の加護は、正しくあるべき形へ。お前に精霊が寄ってくるのは、私の加護のせいではない。……リリアに精霊が惹かれているのだ」
アルヴェインは宥めるように、リリアに寄り添った。これ以上傷つかないように、理不尽な世界から守るように。
精霊王が、目線をただ一人の少女に合わせた瞬間だった。
あれから、世界は少しだけ優しくなった。精霊に避けられなくなってから、両親は気まずそうにリリアを見る。
光に囲まれているリリアを見て、もう避ける人はいなかった。
羨ましそうな視線。これが、ルチアの今まで見てきた世界。
そう思うと、少し胸が痛んだけれど、お隣の庭を今日も掃き、森の祠に今日も手を合わせる。
いつもの日々だ。
自分が何かを失っていたつもりはない。少し周りが羨ましかったのは否定しない、けれど、リリアは変わっていないのだから。
あれから、森の祠を掃除しに行くと、必ずのようにアルヴェインがやってくるようになった。
会えなかった日が寂しくなってしまうくらいの頻度で。
「私……だめになってしまいます」
「何が駄目なんだ?」
アルヴェインは不思議そうに首を傾げる。
「だって、あなたに会えるのが、“私の普通”になってきちゃって。こんなの贅沢すぎます」
「リリア」
アルヴェインはそっとリリアを抱き寄せた。逃げられはした。けれど、リリアには逃げる理由がなかった。
「また、甘やかして」
アルヴェインはリリアの額にキスをする。
柔らかな祝福。
「私はそろそろ、祝福のいらないキスをしたいんだが?」
贈ってもいいか、と彼は問うた。
リリアは覚悟を決め、そっと目を伏せる。
唇が触れ合った。
柔らかくて、熱い。
リリアの頬がさっと染まる。
「もう一度」
今度はもう少し深く、長く。
アルヴェインは満足そうに笑った。
「ずっと、ずっと触れたかった」
リリアは答えた。
「……私もです」




