SIDE/ユリアナ①
逃げることなどできない。
分かり切っていたことだ。
だから問題は、どう逃げるかではなく、どう死ぬか。
皇族に成る前の出来損ないとして殺処分されるか、皇族としての価値を身に纏い、それ故に尊厳を凌辱されて死ぬか。
私にはまだ前者の方がマシに思えた。
だから山を駆けた。
淀んだ池を渉り、谷底に落ち、泥にまみれ、一歩でも遠くへ行こうとした。
もしかしたら逃げ切れるかも、なんて思いながら、そんな甘い考えを首を振って否定しながら、だけれど最悪殺されても皇族に成らなくて済むのだからこの一歩一歩は事実上のアドバンテージなのだと自らを鼓舞しながら。
こんな危険な山道を選んだのは、エルフの里に出くわすかもしれないと夢見たからだ。
皇帝争いから逃げた人間の女の子が迷い込んだ山奥で拾われて、大事に育てられ、やがて認められてエルフの王になる、なんて御伽噺があったら素敵だなと思ったから。
「うそでしょう……」
そして実際のところ、私は引きが強かった。
皇族に成るというのは結局のところ運がいい、あるいは極めて悪いためにそうなってしまうのだ。私が今日この日まで生きているというそのこと自体が、私の引きの強さと弱さを物語っている。
私の天運は、エルフの里を引き当てた。
だけど極めて運が悪いことに、その里は今まさに滅ばんとしていた。
地が割けるような大魔法を放ち抵抗するエルフたちの間をなにかキラリと輝くものが抜けていく。
闇夜に浮かぶ絹糸のような煌めき。
その冬空のようなキラキラは致死性だった。
輝きが通り抜けるごとに、首を失くしたエルフたちがその場に頽れる。
エルフと人間の外見的差異が耳の形にあるとするのなら、頭部を失くしたそれらの死体はもはやエルフでも人間でもない、どっちつかずのただの肉塊だった。
やがてすべてのエルフがその宿命的絶命を終えた頃、キラキラは私の前までやってきた。
「……なんじゃい、人の子か」
針のように細い刀が首元で止まっている。
おそらく私は「人間だから」という極めて稀有な理由で目前の死を回避した。
それは人間というよりも、獣のようだった。
二足歩行で道具を使い、エルフを殺し、スレイ公用語を話す生き物。
じゃあやっぱり人間かもしれない。
そんな野蛮なことをするのは人間くらいのものだから。
それが毛繕いをするように身体をゆがめて浴びた血を落としている。
……全然落とせていない。
むしろ血が伸びて汚れが増している。
それにもはや死は感じなかった。
群れなしで野山に生きる小さな動物のようだった。
「これ全部、あなたが一人でやったの?」
「そうだけど」
風に言葉を乗せるように、それが自然に答えてくれた。
「なにか理由があったの?」
「わしのこともやしてきたもん」
それが赤く燃え盛るエルフの集落を見下ろす。
その家々の炎はきっとエルフたち自身の魔法によるものだろう。
「……なーぁ」
小動物が横目でこちらを見る。
「なぁに?」
「なんでこにゃあはすぐにこわれてしまうのかな?」
「ああ、あなたは遊んでいるつもりだったのね」
うぅん、とそれが難しそうに呻いた。
これ視点で想像してみると、自分から誘ってきたくせに軟弱すぎるという感想になるのかもしれない。
積み上げられた死体を眺める。
「……あなたねぇ、小さな子供だっておもちゃが壊れないように加減するのよ。楽しく遊びたいのなら、おもちゃに合わせて負荷を調節しないと」
「……ぬぐぅ、でもわしそういうのよく分からんもん」
「遊び方を知らないのね。私が長く遊べる方法を教えてあげようか? 知ってる? この国の華族って、エルフと人間で千年以上も遊んでいるのよ。すごいでしょう」
「んん、でも言われても、わしはむずかしいことは分からんよ?」
「ならシンプルにしましょう。思いっきりやっていいときはゴー、そうじゃないときはステイと私が伝える。それだけ守ってくれたら遊べるようにしてあげる」
「うむぅ……」
「それと私が呼んだら必ず来て。あなた、名前は?」
「ないよ」
「そう。じゃあキリヱって呼ぶわ。首を断つのが上手そうな名でしょう」
「すきにしていいよ」
「そう。じゃあ早速試してみましょう。ほら、キリヱ、人間の剣客が沢山来たわ。百人くらいかしら。すごいでしょう? 私は泉。私のいるところにはおもちゃが湧いてくるの」
「百十三おるよ」
「じゃあ私が数をかぞえてあげるから、できるだけ早く百十二人を斬ってみて。一人だけは手足を落とすだけで殺しちゃだめよ。それでこれから遊ぶ難易度を考えていきましょう」
「うむ。もういいの?」
「偉いわね。キリヱ、ゴー」
*
「いーち、にー、さーん、」
私を殺しに人間たちがばさばさと血を噴いて倒れていく。
なんて胸のすく光景だろう。
「しーぃ、ごーぉ、」
人間が嫌いだった。
あの環境にいて人間種に好意を抱くことが果たして可能なのだろうか。
便宜上、そこは農場と呼ばれていた。
表ではただの畜産農場。裏では、剣聖を失い皇都に居場所を失くした元皇族たちが自給自足の生活に勤しむ場、という認識がなされている。
実態は全くその通りではない。
神の血を重んじる国の華族にとって、「皇族の血」とは高級な嗜好品だった。
だからそこは、神の血を耕す農場だった。
かつて皇族と呼ばれていた者たちを捕らえ、手足を落とし、両眼を抉り、喉を潰し、宙から吊るし、滴る血の一滴一滴を大事に集めていた。
吊るされたまま上から流動食を流し込まれ、垂れ流される糞尿は血に交じらないように下人が毎日片づけていた。
一つの厩舎には最大十八人の元皇族が吊るされ、そんな小屋がいくつもあった。
この国は血を煮詰めることで維持されている。
「農場」は古典エルフ語をたどると、「固く確かなもの」という語源に至るようだ。それはつまり契約であり、誓約である。
古より今日までこの国に伝わる〈誓約〉もまた神の血の醸成によって成るものだ。
故に、そこは確かに農場だった。
――嗚呼、皇族に成りたくない。
自らの意志で死ぬことすらままならないこんな憐れな末路を迎えたくない。
ただその一心で逃げ出した先に今がある。
「ろーく、なーな、あら、終わったわね」
私の追っ手は自らの意志で死を選ぶまでもなく、きれいさっぱり死んでいた。
「七と半分というところだったわね」
「もういっかいやっていい? わしはほんとはもっと早くできるもん」
「ステイ。また次にね。一度にたくさんやると後で遊べなくなっちゃうわよ」
「……うむ」
「偉いわ」
そこら辺の刀を拾い、手足を失って呼吸の荒い最後の剣客に突き刺す。
私がただただ羨む「普通の血」を無駄にまき散らしながらその女が息絶えた。
頭巾の下を覗くと毎日食事を配膳してくれていた女中だった。
結局のところ私には、敵か、味方のフリをした敵しかいないのだ。
「そのうち私の剣聖を選ぶ会があるから、そのときにまた数えてあげる。これよりは強いと思うわ」
「うむ」
そう頷くキリヱにしっぽが生えていたなら、きっと左右に揺れていただろう。
彼女を楽しませてあげられたことに誇りを感じた。
人間が嫌いだった。
動物たちのことは好きだった。
だから嫌いなふりをし続けた。
好きは隙に転じる。
私が〝好き〟を見せてしまえば、それは華族にとって私を利用するための道具だと見なされてしまうから。目の前で虐待されて、私に意に沿う行動をさせ、だけどやがては殺されてしまうから。
だから私は動物を大事に思えばこそ、決して戯れるべきではなかった。
犬や猫や鳥や馬、動物たちに囲まれて暮らす日々をどんなに夢見たことだろう。
そんな中、今ここに、華族に殺されるどころかそれらすべてを皆殺しにできる力を持った小動物が現れた。
これは天啓だ。
この血にも流れているはずの「神」というものを初めて感じるその皮肉に苦笑する。
「なんじゃい」
そっと頭に触れると、猫よりも簡単に撫でさせてもらえた。
「ねえ、これからもずっと一緒にいてくれない? 貴女が楽しいと思うことをたくさん用意してあげる。貴女が全力を出せるおもちゃとも遊ばせてあげる」
「いいよ。なあ、おなかすいた」
「…………そ、私も。普段はなにを食べているの?」
「わしはなんでも食べるよ」
「じゃあ次は食べ物探しゲームをしましょうか」
「うむ!」
「エルフと人間の肉以外を探してきてね。ゴー」
キリヱが闇に消えて、ぽつんと取り残される。
元気だな。
退屈に任せて空を見上げる。
月を綺麗だと感じたのは、それが初めてだった。




