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SIDE/メイ パンの王国

 パンは手段だった。


 家を追い出され、王都にあるパン屋でエリサさんに拾ってもらい、パン作りを覚えた。


「パン」とはある種の比喩だ。

 お腹いっぱいパンが食べているその瞬間だけは、少なくとも人は幸せだと思う。思うようになった。

 だから「パン屋さんになりたい」というのは究極的には、「聖女の先輩みたいに人の幸せの一助になりたい」ということだった。


 だけどアルス魔法学園を卒業して、本格的にパンを焼くようになって、別の考えが入り込んできた。目的と手段が入れ替わってきた。

 つまりそれは――


「超激うまパンを焼きたいっ!」


 そういうことってある。


「…………メイのパンが一番おいしい」


 ライカがまさに私の焼いたパンを食べながら応える。

 ライカはたぶん本当にそう思ってくれているのだとは思うけど、彼女は私が作ったものであればなんでも美味しいと感じるから、意見としては全く参考にならないのだ。


「私も、エリサさん直伝の私のパンは我ながら美味しいと思ってるけどさ」


 出来たてほやほやの試作品を一口かじる。

 もちっとした生地の中から、閉じ込めたシチューが滲みだす。

 試作中のシチューパンだ。


「むーん、シチューを携帯できるという点ではありだけど、普通に別々に食べた方がおいしいね」


 私の舌がこの創作パンを美味しいと感じたのは、焼きたてのほかほかだからだ。単に口の中で熱々のシチューとパンが交じり合ったからだ。一度冷めてしまったら期待と違う味になる気がする。

 今みたいに私は常に熱々のパンを試食できるけれど、食べてくれる多くの人はこれを冷めた状態で口に運ぶだろう。作り手の生む情報と食べ手の得る情報は対称ではない、という単純なことに気が付くまでに存外長い時間がかかった。


「汁気を飛ばしてもっとどろどろにしてみる? チーズで固めるとか? でも結局パンにする意味ないよね」

「意味がなくてもいいと思う。パンはパン」

「深いねぇ。ライカの作るパンはシンプルだけど奥行きがあると思う。なんで?」

「私は、メイに食べてもらうことしか、考えてない」

「目的の差か~。確かにねー、あるよー、このシチューパンを誰にどんなシチュエーションで食べてほしいか私は考えていなかった気がする……」


 私はこれをいつ誰に食べてほしいのだろうか。

 先輩には食べてほしいな。

 でも先輩は冷めたシチューが嫌いだから、あんまり喜んでくれなさそうな気がする。


「コンセプト、か……」


 今パンの中に詰めたシチューは、「ステラのシチュー」で分けてもらったものだ。今や七店舗もある人気店だけれど、その人気の秘訣はおそらくコンセプトが明確だからだ。


 〝誰にでも温かいシチューを〟


 誰でも買える低価格を維持するために、日によって具材が全然違う。

 味も格別においしいというわけではない。

 だけど最後の一食まで絶対に温かい。

 〝温かい〟というのは美味しいかどうか以前に〝嬉しい〟なのだ。

 このシチューにはそういった先輩の思想がぐつぐつと煮込まれている。


「ね、ライカはどんなときに嬉しい?」

「メイといるとき」

「確かにこのパンはおいしいよ。結局こういう、親しい人とパンを食べる幸せなのかもねえ」


 ……それはそれとして!

 私は最強の激うまパンを焼きたいのだ!


「エーデル領の市場に串に刺さったお肉があったの覚えてる?」

「ん。メイと食べた」


 魔法学園の卒業時に、キエルヒ魔法学院の永久籍をロス先生に押し付けられた。そのおかげでエーデルまで行くことがたまにあるのだ。


「あんな感じでパンを丸めてさ、並べて串に刺したら美味しくならないかな」


 少し考えたライカが、ふるふると首を横に振った。


「食べにくい」

「たし、かに……」


 手で持てるパンを、わざわざ串に刺してさらに手で持てるようにすることに意味はないか。


「あ! ねえ、串焼きの最大のメリットってさ、たき火でどこでも加熱できることじゃない? そっかそっか、それの相似形なんだ。なんか分かってきたかも!」

「どういうこと?」

「えっとね、前提1、温かいものは幸せです。前提2、鳥とかウサギとか魚とか蛇とか虫とか、なんでもいいけど、屋外でとった食材を一番簡単に加熱調理する方法は串に刺して焼くことです。推論1,ここから串に刺して焼く行為が幸せへの経路であることがわかります。結論1、つまりは串に刺して焼く、という行為そのものが一種の幸福の象徴なのであるよ。分かるかな、ライカくん?」

「せ、せんせい……!」


 私に付き合って、全然分かってないときの顔をしたライカが頷いた。

 たぶん私も今よく分からない顔をしている。

 煮詰まってるな。新しい視点が欲しい。


「ね、スレイ皇国に行ってみない? 理屈はさておき、視野を広げるのって悪くない気がする」

「メイとなら、どこでも行く」

「学院とスレイの皇都にある大学で提携があるってロス先生が言ってたよね? 昔、籍をもらったときに、ならお得かなと思った記憶があるもん」

「ん。言ってた。メイが行くかもと思って調べたことがある」

「ライカくん!」

「皇都には、馬身原器の二号像が、ある」

「ライカってそういうの好きだよね」

「ん」


 ライカがスレイの文化について書かれた本を本棚から持ってきてくれた。


「なんでもあるね」


 ライカの本棚を見れば、私が来年興味を抱く題材が既にそこに並んでいるかもしれない。


「あ、もうすでに正解が分かっちゃった。一馬身原器パンってどう?」


 本をパラパラめくりながら言ってみる。


「一馬身あるの?」

「一馬身原器パンだからね」

「一ミリ馬身なら」

「天才! 採用! 色んな味があったら楽しいな。へー、スレイって主食が米なんだって。米味のパンってどう? その名もパン・フォン・ライス。男爵家っぽいね」

「米を食べる」

「その通り! あ、柔らかく炊いた米を丸く固めて中に具材を入れる料理もあるんだって。ライスボール……ってこれほとんど発想がシチューパンだね。逆にその具材をパンにしてみる? 丸めた米の中にパンを詰めるの」

「食べた人がアルスのことを嫌いになると思う」

「剣と刀の違いって知ってた? へー、向こうだとエルフだと思われるからあんまり人前で魔法を使わない方がいいんだって。エルフに間違われてみたいね」


 先日の探検で見つけたエルフの里には、パンの文化がなかった。そもそも麦が実る地形や気候ではなかった。言葉も通じない中で、魔法だけが共通の言語だった。


 私は当たり前のように「美味しいパン=幸せ」だと思っていたけれど、普段パンを食べない人たちにとっては、パンは別に幸せの形でもなんでもないのだと気付いた。

 幸福とは決して画一的なものでなく、環境や文化、価値観によって異なるのだ。


 でも、

 だからこそ、

 美味しいパンを焼きたいっ!


「こういうのって傲慢かな。価値を他人に押し付けてる?」

「傲慢でいい、と思う。少なくとも、メイがそうだったから、私はここに、いられる」


 私よりも背の低かった頃のライカの手を引いて、裏山に探検に行ったことを思い出す。

 今にして思えばあれは散策だけど、あの頃の私たちにとっては確かに探検で、大冒険だった。

 私が魔法を上手に扱えるのは偶然だけど、ライカはきっと私に魔法の才がなくとも着いてきてくれただろう。


「ありがとね」


 ん、とライカが小さく顎を引く。

 私はなんだかんだ理由を付けて、たくさんの美味しいパンをライカに食べさせたいのかもしれない。



***



 皇都スレイ大学での私の身分は研究員だった。

 てっきり学生気分だったけれど、よくよく考えると私たちがキエルヒ魔法学院でもらっている身分はロス先生と同じものなのだ。確かに、それは学生ではないだろう。


 研究員といっても、義務としてはオムニバス形式の講義のうちの一回を担当するだけの気楽なものだった。あとは決められたオフィスアワーには研究室にいて、学生が来たら質問に来たら答えるくらい。その代わり研究費はほとんどもらえず、特典といえば住居を兼ねた小さな部屋が与えられる程度だった。あとは「皇都スレイ大学特別招聘講師」の肩書を名乗れるようになるらしいけれど、パン屋には不要な称号だろう。要するに、充分だった。


「こんにちは。私はお隣のアルス王国から来ました。この国に来てから、自分の出身国との差異にたくさんの刺激をもらっています。そう、例えば……食文化。私の国では米ではなく主に小麦――パンを食べます。お茶の色も紅いです。乳製品の割合が高く、食べ物にはあんまり串を刺しません。他にも、家は木材の比率が高くて、山の割合は少ないです。服の意匠も違うし、早朝に聞く鳥の声も違いますね。そしてなにより、魔法の比重が違います。アルスだと、魔法が使えたらお金を稼ぎやすいです。生活に使う火も水も、そのほとんどがリムと呼ばれる魔法蓄積具によって現在は賄われています。たぶん、この国では違いますよ……ね?」


 手前にいた学生が小さく頷いた。

 レスポンスをくれる聞き手ってありがたかったんだ、と学園を卒業した今になって知るものである。

 意外と聴衆が多いのは、選択制の座学の中では数少ない課題が出されない授業だからだろう。後ろの方には寝ている学生も多い。


「ほんとは魔法について語りたいことがたくさんですけど、私の担当は今日だけなので、今の研究のご紹介をしたいと思います。と、言うわけで、学長には許可をいただいているので魔法を使いますね」


 講堂の四隅にそれぞれ三個の極小の魔法陣を展開。

 計十二の魔法陣を火、風、土と三層に重ねる。

 発射。

 互いの対角を打ち抜くように、聴講者の隙間を縫うように、爪先ほどの小球を矢よりも速く放つ。

 一つだけ不発だった。


「おお、すごい。今の魔法を斬った人がいるんですね。そう、この国の一流の剣客と呼ばれる方々は魔法を斬ります。今、そちらの方がされたように」


 ユナとよく一緒にいるセイラさんがこれをやっていて、初めのうち私は俄かに信じられなかった。

 セイラさんは刀を一振りしただけで、向かってくる魔法をなかったことにしてしまう。

 魔法の()()として出力される水や火をなかったことにしているのではない。それだったら上からどんどん浴びせ続ければ押し勝てる。

 そうではなく彼女は〝魔法〟そのものを斬っている。沸き上がる水ではなく、水脈そのものを()っているのだ。


 何度かせがんで見せてもらった結果、魔術師とその人が発生させる魔法の間には見えないジョイントがあるのではないかと私は推察した。

 彼女は結果よりも手前のそこを斬っているから、魔法それ自体が一度キャンセルされてしまうのだ。

 私はこの術者と魔法を繋ぐジョイント部分を「魔法線」と呼ぶことにした。――この私の説明がふわっとしていて分かりにくいのは、私自身がうまく理解できていない証だ。これが上手に言語化できるようになることが、大学滞在中の一つの目標である。


「剣客の皆さんの目標に、あらゆるものを斬れるようになるということがあると伺っています。その『あらゆるもの』から一つ具体化させて、今回は『魔法を斬る』ということについて考えてみましょう――」



***



 講義が終わり、学生たちがはけていく。

 私が魔法を撃った直後は背筋が伸びていたけれど、やっぱりみんな眠そうだった。


「おつかれ、メイ」


 一番後ろで聴講していたライカがやってくる。


「どうだった?」

「かっこよかった」

「ありがと」


 私が「魔法線」という概念を会得したい最も大きな理由はライカである。

 ライカの魔法は極めて速い。

 発生後に対処しようとしたら絶対に間に合わない。

 私はライカの魔法発動時の微細なクセを把握しているから合わせられるけれど、本来であれば一発で意識を飛ばされているはずだ。

 だけどもし、魔法発生の一つ手前に「魔法線」という手順があるのなら、そこを視ることで雷魔法への対応が間に合うようになるはずだ。

 別に間に合うようになったからどうというわけではない。ただ私はライカにとっての「すごいメイちゃん」であり続けたいのだ。


「ねえ、メイ先生。質問いいかな?」


 学生に声をかけられる。


「はいはい、もちろんですよー。おや、そちらのあなたは先ほどの」


 質問者と一緒にいたのは、講義で唯一私の魔法を斬った剣客だった。


「へえ、ここの大学にはエル「抜刀要請「許可」」――」


 ガキン、と魔法と刀のぶつかる音が響いた。

 剣客の抜刀をライカの雷魔法が弾いていた。


「私はまだこの大学に来たばかりできちんと把握できていないんですけど、講師の首を斬ろうとしてはいけないって学則はないんですか?」


 言ってから、今の言い方は聖女(せんぱい)っぽかったなと満足した。


「メイ、下がって」

「場所を変えていいかな。目立ってしまったね」


 まだ教室に残っていた何人かの学生がこちらを見ていた。


「いいですよー、研究室で話しましょう」



***



「アルスの紅茶しかないのですが、よかったら飲みます?」

「先に自己紹介をしてもいいかな。それが飲まない理由になるから」

「いいですよー、人には好きな時に自己紹介をする権利がありますから」


 今日の裏テーマは先輩っぽい受け答えをすることにしよう。


「ぼくはスレイ皇国第五皇子女のナタ。()は剣聖のシイナ。先生に興味があってね、潜りで聴講してたんだ」

「なるほどー、本職の方でしたか」


 この国には「剣聖」と呼ばれるものすごーく刀が上手な人たちがいるらしい。


「皇族は人から出されたものを飲まないんだ。だからぼくの分もシイナにあげていいかな」

「ミルクを入れます?」


 今のは単なる純粋な質問だったけど、先輩だったら今の言葉に「アルスのことをどれくらい知っていますか?」という裏の意味を乗せた気がする。「紅茶にミルクを入れる」というフレーズは、アルスでは「物事を台無しにする」という意味合いを含んでいる。


 シイナがこくんと頷いた。

 ライカが氷魔法できんきんに冷えたボックスから、ミルクを出して持ってきてくれた。


「感謝。……美味」

「よかったです。甘い紅茶に合うパンがあるんですけどいかがですか?」

「感――」

「その前に質問をしてもいいかな」


 遮られてしゅんとするシイナを尻目にナタが尋ねる。


「そちらのシイナさんがよろしければ」

「沈黙」

「先生はさ、どうしてあんなことを口走ったの?」

「あんなこと、とは?」

「ぼくについて」

「ああ。単に、へえ、と思っただけですけど。この国はエルフに対する迫害があると聞いていましたから。こういう大学のような公教育の場にもきちんとエルフの方が入れるのだなと、私は好い印象を抱きましたよ」

「ぼくがそう見えるのかい?」

「うーん……、お二人ともですけど」

「……なにを根拠に?」

「もしかして自覚がない感じですか?」

「自覚?」

「ええ。さっきの私の講義はきちんと聞いていましたか?」

「聞いていたよ。非常に興味深いものだった」

「なら、話は早いですね。魔素って、見えるんです。エルフの方の言い方だと、〝精霊〟かな? 講義で話した通り、魔法の企図から魔法の発生までは魔法線で結ばれます。そこに『魔法線』と呼ばれるものがある以上、観測のやり様はあるわけです。単に問題は、見えるか見えないか、感じられるかられないか、それだけです。魔法とは魔素を取り込んで行われる運動ですから、この話は魔素の動きが見えるか見えないかというところに着地します。で、私にはその魔素の流れが見えます」


 実のところ私がこれを見えるようになったのは最近だ。

 ユナに魔法線の仮説を話したところ、彼女は私に「チャンネルを合わせる」という概念を与えてくれた。

「チャンネル」とは一般には水路の意味だけど、ユナのいうそれはもっと概念的なものだった。「それが感知できる帯域に自身をコミットメントする」というような意味合いだろうか。


 ライカに何万発も魔法を撃ってもらい、私は観察し続けた。

 ただ見続けることと、それがあると信じて観察し続けるのとでは、得られる情報量が断然違う。

 魔法線よりも先に、ある日ふとライカが魔法を使うタイミングが分かるようになった。

 魔素が取り込まれ、彼女を巡り、出力されるのが()えた。

 それからは他の人でも認識(わか)るようになった。


 訊いてみたけど、ロス先生やレイさん、カトレアさんでも見えないという。

 おそらく王国で私だけだ。

 私には、私のためだけに毎日毎日飽きもせずに何万発も魔法を無駄撃ちして見せてくれる親友がいた。きっとその差なのだろう。


「上手な魔術師って、魔法を撃たないときも手癖で魔素を取り込んじゃうんです。でないと初動が遅れますからね。エルフの人たちもたぶんそう。だけど面白いことにその取り込み方が少し違っていて、それで判別が出来ました」

「今もかい?」

「はい、この国は魔素の通りが随分と悪いですけど、そのおかげで逆に分かりやすいですよー」

「皇国でそれを知る人間がいないことを願うばかりだ。流石はアルス魔法大会二連覇だね」

「おや、ご存じでしたか」

「先生の申請に署名をしたのはぼくだからね。まさか魔素が見えるほどとは思わなかったけれど。取引をしないかい?」

「美味……」


 シイナが美味しそうにパンを食べてくれていてとても嬉しい。


「取引、ですか?」

「ああ。だけどその前に少しだけ自分の話をしてもいいかな? 先生は先ほど、いつだって自己紹介をしていいと言ってくれたからね」

「もちろんですよー。特に先生というのは学生が話をしてくれると嬉しいものです」

「ありがとう。端的にいうと、ぼくたちはいわゆる神の血と、エルフの血のミックスだ。そしてそれはこの皇国の在り方とは矛盾するものだ。七つ首の竜(エルフ)の否定が現在のこの国の価値観の礎にあるからね。だからぼくたちはそのことを秘している」


 ナタが髪をかき上げて見せた。耳の上部に先端を切断したような痕跡があった。


「それは失礼しました」

「構わないよ。先生の優秀さを想定していなかったぼくのミスだ。話を戻すけど、ぼくたちの一族はある華族の後ろ盾で代々このミックスを維持してきた。いつかこの皇国を根元からひっくり返すためにね」

「もう一つ食べますか?」


 シイナがこくりと頷く。


「温めましょう」


 パンを風魔法で浮かせて、全方位から火魔法を当てる。

 火で焼くのではなく、水や風や土と混ぜながら結果としての熱だけを与えるのがポイントだ。


「はい、どうぞー」

「感謝」

「……やっぱりぼくももらっていい? 先ほどの発言は撤回する。とても良い香りがする」

「いいですよー、パンとは求める者すべてに等しく与えられるべきものですから」

「先生は崇高なんだね」

「先生はパン屋さんなんですよー」

「シイナ、一口くれる?」

「拒否」


 ナタが肩をすくめた。

 シイナに取られないようにルートを取りながら、パンを一つ出してあげる。


「この国の人たちは小麦を全然食べないんです?」

「気候のせいだね。いくらかは穫れなくはないけど、あまり伸びがないから美味しくならないんだ。それに残りは麺にしてしまうからね」

「まあ確かに、お米があったらパンを焼かないのかなぁ」

「神の血がエルフの血を排斥したいのと似てるかもね」

「ちょっと無理がありません?」

「パンの否定が現在のこの国の価値観の礎にあるからね」


 ナタが先輩みたいに笑った。


「取引でしたね?」

「そうだった。一つは当然、ぼくたちのことを黙っていてほしいということ。おそらく先生さえ黙っていてくれたら、誰も気づかない」

「いいですよー。先生とは学生の秘密を守るものです」

「もう一つ、ここからが取引だ。半年くらい先に、大刀神例祭という大きな催しがある。そこで大会が開かれるんだ。先生がかつて優勝していたみたいなね。それに出てほしい」

「私に言うってことは、魔法の大会ですか?」

「魔法もありにしてみせる」

「私を出す意図は?」

「まず一つ。先生はおそらく出場資格を得られる。なんといっても隣の魔法の国の絶対王者だからね。華族は魔術師の代表が凡庸な剣客にあっさりと負けるところを見て、気持ちよくなりたいんだ。出場が認められないはずがない」

「ふむん、二つ目がありますか?」

「その大会で優勝を目指してほしい。理由は敢えて口にしないよ。先生の品位を下げてしまうからね。代わりと言っては何だけど、先生の望みを叶える。ぼくはある程度の我儘が通る立場にいるからね」

「……私がこの街でパン屋さんを開きたいと言ったら?」

「土地と建物と許可書、必要だったら人手や器具、材料も用意しよう」


 先輩だったらきっともっと色々考えるのだろう。罠じゃないかとか、見落としがあるんじゃないかとか。きっと結婚の申し出(プロポーズ)されたときと同じくらい思慮深く、真剣に熟考して正しい答えを出すだろう。だけど私はパン屋だから、そこにプライオリティがある。


 ライカはいつものように何も言わない。

 だけどきっと応援してくれる。

 ライカが応援してくれるのなら、私はなんだってできる気がする。

 だから答えは、

「いいですよー」

 一択だった。


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