SIDE/ミヤ・スレイ3
乾杯の夜から長い年月が経った。
ユリウスの見つけた婚約者は殺されたし、「死への隣接」という考え方に目を輝かせて帰国した公爵令嬢は行方不明になったと聞く。セイラは自死したと思ったら生きていたし、コンタクトを取った魔王は滅びたし、イオリの片眼はアルスの聖女に潰された。
なんて愉快な日々だろう。
どれがユリアナの采配で、どれが無関係のものだったのかは分からない。
だけどここ数年見てきて、目的のためなら弟の婚約者が死ぬように仕向けるくらいは平然とやるヤツだとは思う。あれは誓って私じゃない。私は別の歓待を用意していたのだ。
私が五度死にかけたうち、少なくとも二度はユリアナの差し金だった。そのときの毒のせいで、瞳の色が少し薄くなった。味覚も未だ戻らない。
でも確かにあれは効果があった。ユリアナは第一皇女派と第二皇女派という華族の趨勢を極めて緻密にコントロールしていた。アルス王国の宰相が言うところの、「紐の両端を引っ張る」というやつだ。ユリアナ風に言うのなら、「天秤の傾き」。彼女に一つ才があるとするなら、それは二者の均衡を正しくコントロールし続けることができるという点だろう。
彼女があらゆる手段で国内の勢力をコントロールしていたから、その間に私は〈掟〉や〈契約〉を通じて、〈誓約〉に詳しくなることができた。
本当はもう少し調べたかったけれど、タイムリミットは唐突にやってくるものである。
皇妃の病気。
医師曰く、もう長くはないだろうということ。
システムの動作を考えるなら、いま皇妃が死ぬとその枠は空になるだろう。「皇帝の婚姻者」が参照されて、その皇帝が空なのだから。そこ自体は問題ない。しかしその時に、〈皇帝〉がエラーを処理するために再度、〈継承権一位〉を参照する可能性が高い。そうしたら一位の私が皇帝になってしまう。ユリアナ以下の皇子女が死亡して、すべてが振り出しに戻ってしまう。もう千年くらいはこのまま回り続けてしまうだろう。
だから理屈上、最も簡単な方法は、皇妃が死ぬ前に、剣聖持ちの皇子女が全員死ぬことだ。
その後すぐに皇妃も死ねば、皇帝の参照先すべてが空になる。しかしこれはあまり現実的ではない。皇妃が死ぬ前に華族に次の継承者を立てられたら、すべてが台無しになる。
継承権はその血の正しさと〈剣聖〉の所持によって発生する。
ならば先に聖杯を破壊する?
剣聖が聖杯によって誕生するというのは正しい。ただし、ここでの〈聖杯〉の儀式的な機能は、在野の剣客に疑似的な神の血を取り込ませるというものだ。つまり神の血を引いていれば――皇帝の子孫であったなら――聖杯を使わずとも剣聖になれる資格がある、はず。
そのことに数百いる華族の誰もが気付いていなければ問題はない。だけどそれを期待して行動するのは、あまりに他力本願。賭けとしては弱すぎる。できれば最終手段くらいにとっておきたい。
加えて、皇帝の座を破壊できた後のことも考えなければならない。でないと破壊者としてあまりにも無責任だろう。
一番の問題は国としての体裁だ。皇帝不在(がはっきりと他国からも見て取れる)の国を、果たして「皇国」と呼ぶことができるだろうか。あるいはそこに付随されてきた歴史的権威は、諸外国の中で維持されるだろうか――。
聖国はいいとして、マリウス帝国は常に領土を拡大している。
現にたくさんの工作員が皇国にも入ってきていて、しばしば皇宮通りにその首が晒されている。
この皇国のことは嫌いだ。継承戦もぶち壊したいと思っている。
だけど、皇民がどうなってもいいとは思わない。
彼らもまた、皇女がそうであるのと同じように、自ら選んで皇国に生を受けたわけではないのだから。
生まれた瞬間から選別が始まるのは、私の代までで十分だ。
どこに生まれ、どんな環境で育てられようと、生死の決定権が自身に帰属し、あるいは自分次第で幸福に生きられる可能性がある――そういう皇国を私は目指したい。
……なんてことを考えるようになったのは、加齢のせいかな。あるいは最近話す機会の多いアルス聖女の影響もあるかもしれない。
最初は完全な打算だった。
魔王によって王都の破壊されたアルス王国を外交面で支援し、貸しを作っておく。
低コストの割にはリターンの大きい、美味しい投資先だった。
特に、魔王事変と呼ばれるあの日にイオリが戦ったカトレアという魔法剣士は強かった。
あの完全に斬るつもりだったイオリを相手にして、今も生存しているのだから中々の強者だ。
内政が常にぐずぐずで他国に侮られてばかりのアルス王国だけど、戦力の潜在性は高い。
そしてイオリの片目眼を潰したあの聖女。
初めのうちは、いかにその報いを受けさせるかということしか考えていなかった。
少なくとも、その両眼を抉るくらいはしてもらわないと割に合わない。
そういうつもりで彼女の眼を何度も見ていたら、ある時ふと気付いてしまった。
――あの聖女の瞳の奥には、私やユリアナよりも深い絶望の深淵がある。
見てはいけないものを見てしまったようでドキドキした。
高揚に胸が弾んだ。
ユリアナが私を見つけたとき、きっとこんな気持ちだったのだろう。
あるいはこの聖女は、私たちよりも酷い目に合ってきているかもしれない。
そういった瞳の人間が、だけども人前では明るく装い、他人のことを一所懸命に考え、幸せについて説いていることが、健気でいじらしく、とても愛らしかった。
気付けばいつも目で追っていた。
使者を使えば済む用事でさえ、なにかに託けて自分で王宮まで行った。
彼女とお茶をするのが楽しかった。
こんな瞳をした子が他者の幸福について考えているのだから、私にもそれができるのではないかと、最近思うようになった。
嗚呼、ねえ、ステラ。
あなたが決して誰にも見せないであろうその暗がりを、私に覗かせて。
「――わたくしはあなたとわたくしの幸せな婚約について話しているのだけれど」
宰相様の顔が怖い。
悪いわね。ちゃんと返すから、少しだけこの愛しの婚約者様を借りていくわ。
別にあなたたちが思っているような深い政治的意図なんてないの。
ただ最期に少し、「幸福」というものを体験をしてみたくなっただけ。
彼女が視界にいると、それだけで嬉しい。
もう私には紅茶の味を感知できないけれど、彼女が私のために淹れてくれたというだけで美味しく感じられる。
話し方が好きだし、たまに変な思考の跳躍をするのもかわいい。
優雅な振る舞いをしたかと思ったら、急に野蛮な思想になるのもドキっとする。
社交の場で気の利いたことを言おうとして轟沈しているところを見るのも楽しい。
常に鍛錬を欠かさず、会うたびに前回よりもスキルアップしているところもかっこいい。
神の血統を管理するために幼少期に諸々の機能を破壊された自分には「恋」なんて机上の観念に過ぎないと思っていた。
その言葉の定義を誰かに教わったこともない。
だけど、直感があった。
だってこんなにも好きで、胸が苦しくて、楽しいのだから。
傲慢で、優しくて、独りよがりで、かわいい、私の聖女様。
きっとこれが〈恋〉なのだ。
*****
「――ご苦労様、シェイリ。この短期間で一振り回収できたのなら、満足よ。望みの報酬を与えます。刀はあとでイオリに渡してちょうだい」
「は。……それと一つ、お知らせしたいことが……」
「なぁに、歯切れが悪いわね」
「道中で、ステラ……様、とお会いし、この命を救っていただきました」
「流石わたくしの婚約者様ね。ですが問題はない。お行儀よく迎えを待ってくれるなんて都合の良いことは思っていないもの。あなたたちの命は私のモノ。なにかお礼を用意しておかないといけないわね。もう皇都に来ている?」
「はい、先ほど」
「では明日にも会いに行きましょう。イオリと行くわ。来たかったらあなたも来ていいわよ」
「それがその……ユリアナ様とご一緒で……」
「うん?」
華族時代だったら折檻――数日は吊るされて食事がもらえなくなるだろう、皇女らしからぬ音が出てしまった。
「昨晩、合流されています」
「それはそれは」
私だって網を張っていたけれど、ユリアナの方が感度が良かったということらしい。
「まあ良いでしょう。いずれはステラの義妹となるユリアナです。精々仲良くしていればいいわ」
今後私が死んだら婚約者様が困るだろうから、二人の間の関係幅が狭まっておくのは悪いことではないだろう。
「二人は仲良くやっていて?」
「はい。昨夜は同じ寝台でお休みになったようです」
「…………はい?」
「また、結婚のお約束もされたようです」
「誰と、誰が?」
「……その、ユリアナ様とステラ様です」
「そう。報告をありがとう。下がっていいわ」
……私たちは継承戦の破壊という共通のゴールに向かって走っていた。
その線上にあるとき、私とユリアナは政敵であり、同志だった。
互いの先を読み、あれから一度足りとも私的な会話をすることなく、ここまで協力し合ってきた。
主だった敵の排除は概ね完了し、今やこの継承戦破壊行為はクロージングを迎えつつある。それが――。
「まさかこんな最後で、あなたと道を違えるなんてね」
私がステラの絶望を好むのであれば、ユリアナもまたそうかもしれない。
私の絶望の中に星を見出してくれたのは、ユリアナだから。
だけど、それとこれとは話が別だ。
「あなたを斬ることになるなんてね、ユリアナ」
口に出してみる。――その行為の意味を私に教えてくれたのは、外ならぬ彼女だ。
だんだん可笑しくなってくる。
皇妃の死は近く、大刀神例祭も近い。シェイリの報告を聞くに、おそらく帝国の第三勢力も暗躍している。未だにやることが多い。美しい幕切れに向けて、こんなことをしている場合ではないのだけど――。
「あはっ! あはは、あはははは!」
これまでの人生で今この瞬間が一番楽しいかもしれない。
あの憎き政敵から、ステラを奪い取る。
生まれながらに強制された闘争ではない。
これは私が初めて自らの意志で身を投じる無用な戦い。
――恋の継承戦だ!




