SIDE/ミヤ・スレイ2
セイラがユリウス皇子の剣聖となり一年が経ったころ。
「……ねえ、貴女に相談したいことがあるのだけど」
深夜もド深夜、視察から戻って久しぶりに自分の屋敷で眠っていたところを慌てた女官に起こされた。
またどんな非常事態かと問うと、ミヤ第二皇女が訪ねてきたらしい。
久々の睡眠を邪魔されて腹が立ったから三日くらい待たせようと思ったけれど、私の方が飽きてしまい、一刻ほどで出ていくことにした。
「こんばんは、ミヤ」
「おはよう、ユリアナ」
敬称なしなのは、非公式で来たというアピールだ。仮に公式でこのド深夜に来てたらヤバでしょ。
「……キリヱなしで来たの?」
「キリヱを連れて第一皇女の寝所を訪れたなら、それはもう戦争でしょう」
「その度胸に免じて会ってあげたの」
「目覚めの茶葉を持ってきましたわ。すっきり起きられますから、睡眠に悩みがあれば飲んでくださいませ」
「ありがとう。とてもうれしい。その原因が目の前にいることを除けばね」
加えて、私が先日薬草で毒殺されかけたことを彼女が知らなければ、というありえない仮定の上においては。
しばらく無言で庭園を歩いていると、彼女がポツリといった。
「わたくしの知る限り、貴女がもっとも皇帝選出のプロセスとシステムに明るい」
庭池に蛙が跳ねて、月夜にぴちゃんと波紋が広がる。
「……もっと明るい人はいるでしょう」
「信頼できる中では、貴女が一番よ」
「…………信頼?」思わず怪訝な顔が出る。「その言葉を口にする人間で信頼できる者を私は見たことがないけど」
「多義的な言葉でしたね。貴女はわたくしと損得の価値観が近いように感じています」
「でしたら『愛』とでも表現したら?」
「……貴女って面白いのね」
「それはどうも」
面白いと言われて悪い気はしなかった。
近くの四阿に腰を下ろす。
良くできる女官が先回りして茶壷を用意してくれていた。
「どうぞ」
茶杯を差し出す。
皇女が他人の差し出した飲料を毒見なしに飲むことは、単なる敗退行為だ。
「ありがとう。美味しいわ」
ユリアナがぐいと茶を飲んだ。
「……聞きましょう」
雲間から覗いた月が庭園を明るく照らす。
「単刀直入に言います。弟のユリウスを継承戦から降ろしたい」
「……セイラを斬りたい、と。私じゃなくて、キリヱに命じたら? 喜んでやるでしょう」
「そんなつまらないことでこんな時間に来ないわよ。寝起きなの?」
「ほう。つまらない喧嘩をしにきたってわけ」
「冗談を言いに来たのよ」
「つまらない冗談を言いにきたものですね。それで?」
「ユリウスを生かすために皇子にしたはいいけれど、あの子ってこういうの向いていないでしょう?」
「あなたほど彼を知りませんけど、まあ確かに、殺生を楽しむタイプではないでしょうね」
「貴女とは違ってね」
「私たちとは違ってね」
「ねえ、もしかしてわたくしたちって一生、話が前に進まないのかしら」
「うふふ、楽しくなっちゃった」
これは本当だ。普段、こうして対等に茶を飲める相手が中々いないのだ。「続きをどうぞ」
「ユリウスを他国に留学させたい。その協力をしていただきたいの」
「私に何か一つでもメリットがあるとは思えませんね」
「なければわざわざ来ません。ユリウスをアルス王国に留学させる」
「あなたが話しやすいように尋ねてあげる。なぜわざわざアルス? どうせならもっと大きくて役に立つ国がいいのではなくて?」
「あの子って不思議なことに魔法にしか興味がないでしょう。アルスの魔法学園がちょうどいいんじゃないかと思って」
「知らないわよ、そんな姉情報」
と言いつつも、この先にどんな展開がくるか、剣聖が与えられる前日の皇女のように楽しみな自分がいる。
「アルスにはエルフの王がいる。向こうの習慣では『魔王』なんて言い方もするみたいだけれど」
「……なぜ第一皇女が知らない情報をあなたが断言できるの」
「わたくしは貴女と違ってセイラと仲良しなの」
「つまり冠位案件……。でも私を説得するには弱い。他国の王だか魔王だかに興味はありません」
「エルフ族には〈掟〉と呼ばれる理外の〝理〟が存在するのは知っているでしょう。どれだけ軽薄なエルフを捕まえてきて尋問しても、絶対に里の場所は吐かない。もちろん信念ではないわ。そんな軽薄なものは、接し方ひとつでどうとでも曲げられる。そうではなくて、そういうシステムだから言えない。ねえ、これって私たちでいうところの〈誓約〉みたいだと思わない?」
「少し、飛躍があるように感じるわ。点と点を無理やり線で繋いで一人で気持ちよくなってない?」
「……そう言ってくれる貴女だから声をかけた。〈掟〉や〈誓約〉のような長い時間かけて編み込まれる拘束力を、魔王はインスタントに使う。〈契約〉というそうだけれど。古典エルフ語に語源を遡ったなら、同じ単語に行きつくのではないか、というのがわたくしの推測」
「ずいぶんと詳しいのね」
皇国におけるエルフの地位は極めて低い。皇国民として扱われていないことに加え、魔法の地位が低いためだ。魔法を使えるエルフがいたとしても「安く使える便利な存在」程度に思われている。必然、その研究にも国家予算はほとんど割かれていない。
「わたくしの管轄の一つがアルス王国エーデル領と接しているから。部下が実際に何人か死んでいるわ」
「それはその〈契約〉で?」
「そう。まるで継承戦。向こうの王宮に置いていた間諜で魔王と契約したと言う者が複数いたわ。要領を得ないから呼び戻してみたのだけど、そうすると何か条件を満たすみたいに、理外の力で自死してしまうの」
「……面白い、とは思う。ところで矛盾していない? あなたは弟を逃がしたくてアルスにやるのでしょう?」
今の話の流れだと、〈契約〉について探るためにユリウスを魔法学園に潜伏させる、という話のように聞こえる。
「身を案じることと、能力を信頼することは両立するのよ。それに……どこにいようと継承権を持っている以上ノーリスクはあり得ない。徹底したゼロリスクを目指すなら、華族に飼われていた頃が正解になってしまう。そんなのって……あまりにあんまりだわ……。それにセイラがいるしね」
確かに、あの子は中々のものだ。
刀のコレクトにしか興味がないイオリが関心を示しているし、ユリアナのところの剣聖も夢中だ。おかげでイオリに絡んでくる頻度が減って、正直ありがたい。
「つまりユリアナ、あなたの問いは、皇国の権威の象徴である剣聖を長期間国外に出して、継承戦のシステムに裁かれないか、ということね」
「全員が貴女と同じくらい話が早ければいいのに」
「……そのシチュエーションはかつて検討してみたことがあるわ。結論からいうと、大丈夫。一度スレイの外、マリウス帝国領内で剣聖を斬ってみたことがあるのだけど、位が〈空〉にはならなかった。きちんと死亡の判定が入ってた」
「よくやるわ」
「生憎、あなたよりもだいぶ皇女歴が長いの。でも一応、刀神例祭には帰ってこさせてね」
「……ご意見、感謝します」
ユリアナが頭を下げた。
「ところで、仮に魔王の事例から〈誓約〉をハックできたとして、あなたはなにを望むの?」
「そんなの決まっているでしょう。このくそったれな継承システムを持つこの国を破壊する。そのためにならわたくしはこの命を賭けられる」
「……………………」
「あら、貴女だってそうでしょう?」
「………………………………どうしてそう思うの?」
ユリアナが私の隣に座り直す。
「ねえ、私の目を見て」
そう囁いて、吐息のかかる距離まで顔を近づけてくる。
そこに覗いた瞳には――なにもなかった。
喜びも、痛みも、悲しみも、恐れもそこにはなかった。
月の光も、星の瞬きも、なに一つその瞳は反していなかった。
この瞳に小石を投げ入れても、きっとさざ波一つ立たないだろう。
光を飲み込む深い虚無だけが、濃淡なく広がっている。
「貴女も同じ瞳をしているのよ」
彼女が耳元でささやく。
「……それは、……知りませんでしたね」
「己の瞳を覗くことはできない。古エルフの言葉」
「金言ね。覚えておくわ」
「わたくしは貴女ではないから、貴女の気持ちは分からない。だけどこの皇国で貴女の気持ちに一番寄り添えるのは、やはりわたくしだとも思う」
瞬間、過去に華族に飼われていたころの嫌な記憶が頭を巡る。
嫌だ。やめて。どうしてこんなことするの。お願いします。ごめんなさい。いやだ。死にたい。助けて。殺してやる。
実際のところ、ユリアナは私と同じいわゆる五華族と呼ばれる勢力の出自だ。似たようなつまらない体験を、おそらくはしていることだろう(どこかの剣聖のおかげで一時期は「四華族」になりかけていたけれど)。
スレイ皇国に教会が置かれず、他国からの干渉をほとんど受けないのは、この国が剣聖で成り立っているからだ。上位の剣聖が一人いたなら、相手が国王だろうが聖王だろうが、城に乗り込んでその首を獲ることができる。実際に、そういう歴史の積み重ねで今の安定が築かれている。
その剣聖は、何千もの死体の上に作られる。
「死に隣接した過酷な生存環境だけが〝本物〟を作る」という成功体験を、皇国は何十世代にも渡って積み上げてきてしまった。――それは当然、継承者づくりにも汎用される。特に五華族においては。
「ねえ、ユリアナ。私ってそんなに酷い眼をしてる……?」
「安心して。貴女がわたくしに対してそう思わなかった程度には、装えていると思うわ。その眼を見抜くにはよほどの絶望が必要でしょう」
「確認させて。あなたは――」
「ええ。わたくしはこの皇位継承戦を破壊する」
「…………」
きっとこの継承戦に思うところのある人間はたくさんいただろう。だけどそれを口に出した人間を、私は初めて見た。
「貴女も口に出してみて」
「…………こ…………こ……え……………――」
言葉にならなかった。
思っていることを口に出すことがこれほどに難しいなんて。
今、私の唇を重く塞いだのは、歴史の重みであり、価値観の刷り込みであり、重心を移すことへの恐怖である。
口にしてしまうことで、なんだか二度と取り返しのつかないところまでいってしまう気がする。
ユリアナはそんな私を傍目に、静かにお茶を啜っている。
気なんて遣いやがって。
「こ、……こ、…………皇位継承戦を、破壊、する」
言えた!
「皇位継承戦を破壊する。私は皇位継承戦を破壊する」
もう言える。一度言えたなら、何度だって言える。
考えることと、口に出すことにこれほどの違いがあるなんて!
この高揚感はなんだろう。
思考が言葉になって、意味として私の芯になるような――。
ぼやけた視界が定まったような、なにかが啓いていくような。
「あは、あはは」
なんだろう、堪えれば堪えるほどに口角が上がってしまう。
「あはははは」
皇族失格だ。笑みを内心に留めておくことができない。
「それが、生きる、ということだとわたくしは思う」
「不思議……身体に火が、灯ったみたい。今、存在していることが、楽しい」
「……きっと貴女が解放してあげた皇子女たちも同じ感覚だったでしょうね」
庭園を見回す。
先ほどまで背景に過ぎなかった草木たちが、ひっそりと夜の眠りについていることが分かる。庭池の魚たち。羽を閉じて休む蝶。石の卓の冷たさ。雲の濃淡。風の匂い。
あの日、馬小屋に閉じ込められたあのときから、私は今日まで死んでいたのだ。
そのことに、今この瞬間まで気付きすらしなかった。
きっとこれは目覚めだ。
「おはよう、ユリアナ」
「おはよう、ミヤ。この茶葉はもう不要ですわね」
「一言多いってよく言われない?」
二人して笑った。
「……夜が明けたなら、わたくしは今日の訪問意図を皇宮で問いただされるでしょう。そうしたら宣戦布告をしたと答えるわ」
「それが一番自然よね。私たちは皇国を斬ろうとしているのだから。皇国中を欺かなければいけない。でもきっと、用意周到なあなたのことだから今日までに種は撒いているのでしょう」
今日という日に火がついてもおかしくないように、私のことを散々悪く言い回っていたに違いない。
残念なのは、もらったこの茶葉をゴミのように扱わなければならないことだ。
「気にしないで。それはパフォーマンスで燃やすなりなんなりして。そこらへんで摘んできた雑草だから。わたくしに摘ませたという点では価値があるかもしれないけれど」
「……私、あなたのことが嫌いかも。演技が不要で助かるわ」
「わたくしたちは今後、明確に敵対する。私的な会話などあるはずがない。そんな隙は皇宮にも華族にも見せない。当然、相応の機会があればあるだけ、わたくしは貴女を殺しに行く。その中で貴女が本当に死んだなら、その程度の使えないヤツだったと思うことにする。わたくしに殺されるような人間に、皇国は斬れない」
「なら当然、私もあなたを殺しに行くけれど?」
「もちろん、お好きに。お互いがんばって相手の真の意図を察し合いながら、あとは流れに身を任せてやっていきましょう」
ユリアナが笑う。
「千年をかけて編み上げられた緻密な〈誓約〉の軛を絶ち斬れるものがあるとしたなら、それは一夜でなされたなんの計画性もないただの口約束なのかもね」
装っていない彼女の瞳は、相変わらず深淵のように遠くて暗い。
だけども、深い暗闇の中でだけ観測できる淡い星の光があるのではないか、と今の私は考えることができる。
聖杯ではない、ごく普通の湯飲みに茶を注ぐ。
「ただの口約束に……」
「「乾杯」」




