SIDE/ミヤ・スレイ1
剣聖が刀一つでどこまでもいける最も自由な存在だとしたなら、皇族とはどこにも行けない、他の何者にもなれない、最も不自由な存在だ。
いくつもの腐った鎖に絡められ、五体を国に縫い付けられた供物。
命を続けたければ、すべての兄弟姉妹を殺して皇帝になるしかない憐れな生き物。
外因で死んでしまうことを前提に大量の子孫をばら撒く生物は数多いるけれど、私たちの場合は身内で殺し合うのだから救いようがない。
……救い? 己よりも上位の存在に全身を晒してただ与えられるのを待つだけの惨めなあれのこと?
こういうとき、きっと民は神に祈るのだろう。であるならば、神の血筋たる私たちは一体誰に祈ればいいのだろうか。
結論。救いを求めるな。私を救うことができるのは、私しかいない。
あるいは、そのことに気付いたのが他の兄妹よりも早かったことだけが救いだった。同時に最大の不幸だった。
初代皇帝の血を引く子どもなんて、腐るほどいる。
皇国の初期に男の皇帝が優位に多い時期があったのは、理論上、毎日子どもを増やせるからだ。そうして血を増やし、殺し合わせ、有能な一人だけを残すことによって、この国は繁栄してきた。
もっともこういった生存競争はある程度の歴史がある国ならば、どこもやっていることだとは思う。ただ、当事者から一言だけ言わせてもらうのならば――死んでしまえ。
一方で、理解する側面もなくはない。
「国」が代々繋いでいくものである以上、そこには支柱がなくてはならない。受け継がれるものがなくてはならない。例えば、聖国は「巫女による神意」、帝国なんかは「拡張の欲望」あたりだろうか。
しかし、一番わかりやすいものはやはり「血」だろう。世代を超え、どれだけ神話の時代から薄まろうとも、その身体に流れる血を人間は入れ替えることができない。唯一にして、絶対不変の正当性、〈継承〉。
逆に隣の小国――アルス王国はこれを重視していないようだ。流石に王族では血を繋いでいるようだけど、それに近しい公爵家などは「書類上でそうなっていればそれでいい」という考え方で、平気で外から跡継ぎを取っている。
なんてもったいないのだろうと思ってしまう。
「血」とは説得力であり、物語なのだ。わざわざそれを手放すということは、己の利益どころか国や民の利益まで損ねる重篤な自傷行為に他ならない。……なんて私が考えるのは、この身が皇国で教育を受けたためであろうか。
しかし現に、スレイ皇国が百代以上の皇帝を紡いでいる間に、いま「アルス王国」と呼ばれているその小さな地域の名称が、歴史上何度変わっていることだろう。不確かで非連続な「思想」などという軟弱なものを振り回しているから、そういうことになるのだと私は考える(国が長年維持されるのが良いことかと問われると、そこにはまた別の議論が必要になるけれど)。
もちろん、皇帝の血を引いて生まれたとしても、継承戦に名乗りをあげないこともできる。そうすれば殺し合いに巻き込まれずに済むから、賢明な子はそちらの道を選ぶ。一つ些細な問題点を挙げるなら、その道を選んだ瞬間にその者は価値を失い、殺処分されてしまうということだ。
当然、そのことは当事者たちには知らされない。皇都から遠く離れた里で慣れない百姓生活に悪戦苦闘しながらも幸せに暮らしていることにされてしまう。
みんな、みんな死んでしまった。
私がそのことを知ったのは、〝皇〟を戴く者――皇女になった後だった。
私はみんなの中で最も愚かで最も夢見がちな女だったから、今こうして過去を振り返る権利を与えられている。
神の血を管理する華族にとって、私たちは庭先で飼っている鯉のようなものだった。
品評会で模様や体型を競わせるように、私たちは比べられた。鯉との違いがあるとするのなら、鯉は大事に育てられるということだろう。
かつての好色家の皇帝のおかげでその血を引く者はそれなりにいた。加えて私たちの教育には、特に後期に莫大なリソースがかかるから、こいつは駄目だと判断されたなら、さっさと損切りをして次の候補を見繕った方が効率的だとされている。
もちろん、皇帝の血族を理由なく殺すことは大罪だから、不運にも倉庫に自ら錠を下ろしてしまい餓死するまで発見されないだけ。
私の場合は、馬の飼料を食べ、馬糞を喰らい、己が吐瀉物を舐め、唯一の友達だった馬を喰らい、その血を飲み、骨を齧り、湧いた虫を啜っていたころ幸運にも発見された。
皮肉なことに、この意地汚く生にしがみつく姿勢が評価されたのか、私は舞台に戻され、そこにリソースが割かれるようになった。
この頃になって、私には明確な目標ができた。皇帝になりたい理由ができた。前向きに生きられるようになった。見たい夢ができた。
私が皇帝になった暁には、華族を全員殺す。鏖殺してやる。
――もちろんそれは、不運な事故によって起こるものだろうけれど。
*****
「しけた顔してんね」
皇女になり、イオリという名の剣聖を受け取ったころ、そんな風に絡まれた。
「驚いたわ。最近の刀は喋るのね」
「……今の返しはちょっと良いと思うよ。でもウチは、しけた女のしけた鞘には入りたくないワケ」
「わたくしだっておしゃべりな刀を握っていたくはないわね」
誰もが(私ですら!)憧れる剣聖を手に入れて最初に覚えた感情は嫉妬だった。
剣聖の造られ方を私は知っている。
知人友人縁者そのすべてを斬って、彼女は今ここにいるはずだ。
自分と同じくらい酷い環境を生き抜いてここにいるはずなのに、彼女の瞳に怨讐の色は見られなかった。
それは私が求めたものではなかった。私が真に欲しかったのは、決して最強の剣客などではなく、互いの心の傷を舐め合える歳の近い友達だったのだ。
なのにコレは自身の負った痛みにも、持ち主にも無関心だった。
過去への感情に縛られず、自由に在った。そのことが私をひどく不快にさせた。
彼女は私と最も相反する生き物だった。
剣聖に与えられる誓約は、「持ち主を斬らない」の一点だけ。
つまり皇宮で生きるしかない私と違って、彼女がその気になればどこへでも行けるのだ。
同じ地平に立ちながら、飛ばないことと、飛べないことの間にどれだけ深い断絶があることか。
私はその剣聖にも、怨讐に焼かれた無翼の竜であってほしかったのだ。
もちろん、気に入らないからといって一度賜った剣聖を返品交換することなどできない。
剣聖に人格の良し悪しは求められないし、皇子女が選ぶこともできない。ただその瞬間に場にある最も強い刀が〈剣聖〉として与えられるだけだ。与えられた刀を振って生きていくしかない。
そこに別れがあるとすれば、皇女が死ぬか、剣聖が死ぬか。
「理由くらい話してよ。ウチが斬ってあげるからさ」
「なんなの、その冠位みたいな言い方。やめて、気持ち悪い」
なんて言いつつ、興味を持たれたことが嬉しくて、ついつい口が軽くなってしまった。
このときの浮ついた気持ちを思い返すたびに後悔する。
誰かに自分の話をするとするのなら、一蓮托生の存在である剣聖がいいのだろうなんて甘い言い訳を己にしながら、語ってしまった。
この世で唯一、これからも傍にいられる歳の近い女の子に憐れんでほしかったのだ。
結局、イオリは憐れんでくれなかった。「ふーん」と頷いて刀の手入れに戻っていった。
ま、知ってたけどね。
翌朝、いつもより早い時間に目が覚めると、私に与えられた皇女宮に厳戒態勢が敷かれていた。
普段は無表情の女官の一人が歪んだ顔つきでやってきて、私の育った屋敷に住んでいた華族が全員斬られたことを聞いた。
「どの家の者からもまだ報告はきていません。首謀者がどの家であれ、背景を潰しておいてミヤ様へのアプローチをしないとは考え難い。決してイオリから離れられませぬよう。これより先、御身へ近づくはたとえ私であろうと斬り捨てなさるよう、謹んで申し上げます」
女官が去ると、屋敷が夜のように静まり返った。
おそらく、私とイオリを残して全員が敷地外に出たのだろう。そういう緊急時のマニュアルがある。
すべての出入り口に竜の鱗で作られたよろい戸が敷かれ、屋敷の中から外光が消える。
いくつかのロウソクに火を分けた。
「それで……あなたがやったの?」
指先で灯火を斬って遊ぶイオリに尋ねる。
「まさか。ウチはただの刀。握っているのは、ミヤ」
どうやらこの非常事態を引き起こした犯人は、私を護るためのこれだけの厳戒態勢の中、私の隣で寝転がっているらしい。
「…………っ!」
怒りを通り越して、脱力が湧いてきた。
「さえない顔してんねー」
言いたいことが五つも六つも浮かび上がってきたのをぐっと堪えて、まずは息を吸い込む。すぅ……――。
「…………う・し・ろ・だ・てぇ! カネェ! コネェ! 順番があるでしょ! 順番ってものが! 初手で華族の後ろ盾を手放してどうやって戦っていくのよ」
それもそうだけど、とにかくこいつのやってやったぜ感が気に入らない!
同情を求めてきた不幸な女のために一肌脱いでやったぜ感が真に気に入らない!
「ったく……なんなのよぉ~……」
皇族という言葉には、二つの意味合いがある。
一つは純粋な血統性。初代皇帝――わずかでも神の血を引く者。
もう一つは、皇帝に成る余地があるもの――皇位継承権保持者を指す。
普段、私たちが「皇族」という単語を使う時は後者、すなわち「次代皇帝性」という機能だ。血統のある者が剣聖と契りを結ぶことで初めてその機能を獲得する。
一般には継承戦は握っている剣聖の強さで語られがちだけど、それは大衆レベルのエンタメにまで情報量を落としたらそうなるというだけの話であって、その奥には当然、権力や資金力が控えている。
そ・れ・を!
この女!、は!
一夜にして葬り去ったのだ!
「ハァ……あのさぁ、ウチにはよく分からないんだけど、皇女ってのは、一人じゃなにもできない人がなるわけ?」
「…………~~っ!」
「つまんないね」
彼女の吐息が灯火を揺らす。
それは、昨晩の私が最も欲しかった憐れみの声色だった。
「皇女やめたら? 剣聖が死んだら降りれるんでしょ? なんか可哀想だし、いま死んであげよっか……?」
「はぁ……? ちょ、ちょっと待って。あなたはなんのために剣聖になったわけ……?」
「んー、一度神刀ってやつを振ってみたかっただけ。これね。剣聖にならないと触れないって話だったから。でもナー、大したことなかったし、ウチはもう、概ね満足してる」
「ちょっと待ちなさ――イタッ」
イオリが刀を首にかけるのを止めようとして、指を切ってしまった。こいつッ、嫌味や表明ではない。私への一時の些細な憐れみから、本気で自死しようとしている!
いやいやいや、私は皇帝になるのだ。神の血を引いたという意味不明なただ一点の理由で子供を虐げるすべての華族を皆殺しにするのだ。こんなところで盤上から降りるわけにはいかない。
「ほ、他に振ってみたい神刀はないの?」
なんで私がこいつのご機嫌取りをしないといけないわけ!?
「神刀じゃないけど、冠位の刀には興味があるかも。よし、さいごに斬りに行くか」
「あなた葛藤という言葉を知っている? 躊躇とか逡巡でもいいけれど。ルール知ってるぅ? あなたが今冠位を斬ると、私が死ぬので却下よ却下! 物事には順序があるの。それを知りなさい。よく分からないならじっとしてて。冠位を斬るのは私が第一皇女になってからにしてちょうだい」
「…………」
「なによ」
「いや、急に元気になったね」
「……私にもっとも腹を立てさせた者が王になれる国があったとするでしょう? おめでとう。あなたが国王よ」
パチパチと拍手を送る。
「あはは、ちょっと良い。そのミヤならウチは握られてもいいと思う」
「はァ? 名刀は人を選ぶってやつ? 人を選ぶような刀なんて二流なんじゃない?」
「ま、ウチは持ち主が望むものしか斬らないからね。最初はだれがいい?」
「……順当なところで剣聖四位かしら。勝てると思う?」
「ハァ~~……。ウチの握り方を教えたげる。『斬れ』でいいの」
「でしたら、わたくし、剣聖四位の血でお茶が飲みたいわ」
言われるがままに『斬れ』と口にさせられるのが癪で、変な言い方になってしまった。
「もう少し上手な言い方をしてほしいけど、いいよ。……ちな、本当に飲む?」
「ええ、飲みたいわ。わたくしの喉は血に飢えているの」
翌日、イオリは本当に剣聖四位だったものを持って帰ってきた。
「飲むんでしょ?」
「え、ええ……」
がんばって飲んだ。
良き皇女は約束を守るのだ。
私は第四皇女になった。
*****
その後、第三皇子が第一皇子に挑んで負けたおかげで、何もせずに第三皇女になった。
その様子は私も見ていたけれど、第一皇子は頭の切れる人で、剣聖一位のワタリベは本当に強かった。なぜそんなに強いのに皇子に甘んじているのか。それはひとえに皇帝付きの剣聖、当代最強の剣客〈冠位〉の存在があったからだ。
逆に言えば、〈冠位〉という高い壁があったからこそ、私は生きながらえることができていた。
聖杯による皇位継承システムは思いのほか奥が深い。例えば剣聖一位が皇帝を殺しそうになった時、私は皇帝サイドに付くべきだ。なぜなら、剣聖一位が勝てば私は死んでしまうけれど、皇帝が勝てば労せずして順位が一つ上がるから。
皇帝殺しを目論むものが、保身のために皇帝の味方しなければならない。剣聖一位は、他の剣聖すべてを相手取らなければ皇帝に至れない。しょうもない国には、しょうもないシステムがあるものだと感心せずにはいられない。
そこからは、情報収集のフェイズだった。
一番剣聖の情報を得られるのは、年に一度の刀神例祭だ。国庫に眠る名刀たちを剣聖が振ってあげる、いうなれば刀のメンテナンスを行う祭事である。
この祭りは、皇国の建国神話がモチーフとなっている。
かつて初代皇帝に打ち倒しされた竜が残したとされる七振りの神刀を皇帝の前に揃える、という神話の反復。血統と同じく、伝統や伝説もまた一種の継承されるべき経糸である。
だけど個人的にはそんなのはどうでもいい。
この祭りには、演舞のほかに、国宝指定刀を利用した剣聖同士の試合が行われれるのだ。
普通なら剣聖同士がきちんと立ち会って死者なしなんてぬるいことを言えるはずがないのだけど、この日だけは別だった。刀に乗せて国中に皇族の威信を示すという趣旨だから、死合ではなく、あくまで試合だった。
皇妃付き剣聖〈天位〉の流麗な舞を見たあと、剣聖一位と二位、四位と五位の試合を見た。
技術と研鑽、世代を超えて、今日まで積み重ねられてきたもの。
どれも本当に美しく、素晴らしく、胸が熱くなった。
自国を代表する「武」が、こうも完成されていることに、一人の皇国民として誇らしくなった。なぜそう感じるのかは分からない。竜の血、神の血、あるいはそのどちらでもない皇国で育った人間の血。どれが呼応しているのか分からないけれど、この荘厳な皇国の一部に自身が組み込まれていることに強い自負を覚えた。
こんなにも皇国が憎いのに、私は皇国の在り方を誇らしいと感じてしまう。ひどい欺瞞もあったものである。
最後に冠位の試合が行われた。その対戦相手は剣聖三位イオリ。
「ミヤ、うれしそうじゃん?」
試合の前、イオリが静かに尋ねる。私の浮かれ具合と対照的に、彼女は落ち着いている。
「それはそうよ。あなた、冠位のご指名だそうよ。どこかで接点があった?」
観覧した二試合の高揚が残ったままに答える。
「この前、すれ違ったから、斬ろうとしてみた」
「あなたねぇ……」
ここでいう『してみた』は実際に刀を抜いたということではなく、末端の動作のみで相手に斬撃を錯覚させるあれだろう。剣気を飛ばす、なんて言い方をするやつだ。私もしばしば皇宮の剣客たちにはすれ違いざまに解体されている。初めはその隣接する「死」に怯えてしまっていたけれど、今ではもうすっかり慣れてしまった。
「全然刀が入らなかった。……ウチは舐められたんだと思うよ」
「へえ、冠位は斬れないってわけ? 私が『斬れ』と言っても?」
「いや……斬る。斬れる。だから、こんな見世物の寸止めで見えるのがやだっただけ」
「……そう。なら本当に斬ってきてもいいわよ。せっかくなら想像の中だけじゃなく、本気でやってきたら。あなたがその気だと分かれば、冠位様も斬りにくるでしょう」
「それじゃミヤ死ぬんですけどー!?」
「いいわよ。私の生死なんかよりも、剣聖に斬りたいものを斬らせてあげられないことの方がよほど惨めだわ。私はね、あなた自身に斬りたいものができたことが嬉しいわよ。あなたを握ったばかりの頃の私はあれだったけれど、今にして思うとあなたも相当だったんじゃない? 互いに若かったわね」
「いいの……?」
「あーあ、喉が渇いた。冠位の血でお茶を飲みたいわ」
「……――最高じゃんね。ウチの皇女様は」
イオリが神刀を手に、揚々と闘技場に上がった。
……なんか勢いで言っちゃったけれど、本当に冠位を斬ったらどうしよう。継承のシステムがある以上、冠位が斬られたら現第一皇子が皇帝になる。そしたら下位の私は死ぬ。まあいいか、彼女が自由であってくれるのならば。
いつしか私は、イオリの自由さに自らを重ねていた。
どこにも行けない私を、それでもどこかに連れて行ってくれるのは彼女なのだ。
それはそれとして、できれば実際に死ぬまでのラグにあらんかぎり華族に呪いをまき散らしたい。
〈誓約〉による死の発動までにどれだけの時間があるだろうか。
イオリと冠位が間合いの外で向かい合う。
イオリが刀を抜く。
冠位の刀は鞘に入ったままだ。いかにも気だるげといった面持ちでぶらんと鞘を握っている。舐められてるぞ、イオリ~!
開始の銅鑼が、鳴る。
がんばれ、私の刀!
「――――え…………」
四つの何かが、首の左右と両耳を掠めていった。
イオリの耳ではない。私の首と耳。
振り返ると、それは刀の欠片だった。
その欠片は、イオリの握る刀から生み出されたものだった。
耳の血があごを伝ってポトリと落ちる。
縦に切り込みを入れて、横に二振り。
まるで鍋に入れる野菜を切るみたいに、イオリの刀は斬られていた。
イオリは最初の構えから一歩も動けていない。
冠位も動いていない。鞘から刀を抜いてもいない。
いや、あとから仕入れた情報によると、あの日冠位が使った刀は冠位によって〝起こされていた〟そうである。だからきっと、振られていたはずだ。
抜いて、斬って、鞘に戻った。
だけど、誰にも見えなかった。少なくとも、私と剣聖三位には見えなかった。
存在不定の斬撃だった。
イオリが原型を失った自分の刀を不思議そうに眺めている。
「格が違う――…………」
〈冠位〉。
剣聖の頂き。王の中の王。
私たちは、あれに挑まなければならない。
なんて遠く、なんと崇高な頂だろうか。
視線に気づいた冠位が、無表情にこちらに手を振った。
その瞬間に己が胸中に満ちた感情を表す言葉を、私は未だ持たない。




