Ⅸ 農場にて
そんな人気者のリカルドが町を去る事は、瞬く間に知れ渡った。
町を騒がせた放蕩息子の帰郷から、わずか二ヶ月あまりの事だ。再び〈エンポリアー号〉に乗り、広い海のどこかで、別の船に乗り換えるのだと言う。
今回も人々の動揺と焦り、そして嘆きは、たいそうなものだった。女たちは若い娘を差し出してこのガラノスで身を固めるよう薦めたし、娘は皆、リカルドに娶られたがった。
男たちもリカルドを慕っている事を隠さなくなり、時には子供のように涙を流して引き留めた。この町にはまだリカルドが必要だ、恩を感じていると訴えた。
嘆かないのは父マルティンと弟アントニオくらいなものだ、と言われるほどだった。
農場に暮らすララジャ夫妻と娘夫婦、そして二人の少年は、シモンから町の様子を聞くのが楽しみだったので、そのリカルドなる男は彼の青い眼を通した中でも飛び抜けて優れた人物であり、また憎らしいのを知っていた。
特に老夫婦のイシードロとフィデリアは、二十年前、まだ自分たちの足で荷車を牽いて町へオレンジを売りに行っていた頃、〈ピアティカ〉の小さな長男が両親の使いに来たのを憶えている。
さぞ立派になったのだろうと想像し、自分たちの可愛いシモンが青年期らしい青い嫉妬に悩まされているのすら、微笑ましく思っていた。
ところが、帰らなかった日曜日の夜を境に、シモンの口から「リカルド」の名を聞かなくなったのに気が付いてもいた。
それから二週間後の金曜日の夜、彼らはようやく、その姿を目にする事になる。
なんと、リカルドと名乗る人物がわざわざアクロの丘を登り、〈夕暮れのオレンジ農場〉を訪ねてきたのだ。
夫妻は当時とあまりに変わったその風体と装いを見て仰天したが、リカルドは敵意がないのを示すように、柔和な態度で挨拶をした。
みずから動かず、寄ってきた者を片端から手玉に取る〈王〉が、直々に辺鄙な民家へ足を運んだばかりか、頭を垂れたのである。
そして、肩に背負ってきた荷物も下ろさず、背を屈めて農場の母屋へ入ると、
「この農場の将来について話したい。“夕暮れ”を“朝焼け”に変える気はないか?」
と単刀直入に告げたのだった。
いちばん驚いたのは離れにいたシモンだ。
オレンジの果樹とロバのマンチャの世話をした後は、歳の近い三人でゲームや釣りをする、いつもと変わらない金曜日だった。そうするうちにオラシオが山向こうから帰ってきて、食事の時間になる。
夕食に呼ばれて母屋へ行ってみると、町で見かけても避けていたはずの人物が、食卓にいたのである。
リカルドはシモンの顔を見ても、特別な反応を示しはしなかった。
「オレンジのおちびさんが、あと二人もいたのか」
そう言って、町でよく見せる不敵な笑みを浮かべるだけだったのだ。
夕食をとりながら、リカルドは以前〈オレンジ売り〉に話した計画が農場に伝わっているか確かめた。
そして伝わっていないと知ると、この農場でオレンジ以外の作物を育てる事や、いくらか周辺の土地を切り拓いて温室を作る事などを提案した。
ララジャ夫妻と娘のアレシアは突然持ちかけられた話に固い表情をしていたが、意外にも娘婿のオラシオが乗り気になった。彼は大きな町の学校で、農作にまつわる研究を仕事にしているもので、興味を示すのは当然と言えば当然であった。
さらにリカルドは、シモンより幼い十四歳のイニゴと十二歳になったばかりのタシトを見、
「おちびさんたちには難しかったな。食事のあと、三人で話をしないか? 俺を入れて、何かゲームをしてもいい」
と誘った。
イニゴとタシトは緊張した面持ちを見合わせる。家族は誰も口を挟もうとしない。もちろんシモンもそうする気はなかった。
「タシトは話せないよ」
赤い癖っ毛に、そばかすのある顔をしたイニゴが、弟を庇うように答えた。柔らかい髪と肌のタシトは、つぶらな黒い瞳で黙ってリカルドを見つめる。
褐色の肌に焦げ茶のつややかな髪をしたリカルドは、驚いた様子もなく、緑色の瞳で見返す。
「ああ、でも話したいことはありそうだ。違うか?」
口角を持ち上げた表情に、幼いタシトは何かを感じ取ったらしい。席を立つと、テーブルを回り込んでリカルドの腕に抱きつき、親愛を示したのだ。
リカルドはそのタシトが首から提げているペンダントを目に留めた。円型に切り出したモミの木に精巧な彫刻を施した物で、表面には磨かれたメダルのような光沢がある。
「いい趣味をしてる。が、あまり見ねぇ代物だ。これは町で買ったのか?」
そう尋ねられたタシトは首を左右に揺らしてから、イニゴを指差した。
「買ったんじゃない……作ったのか? 本当に?」
驚いた様子で聞き返すリカルド。彼は言葉を発さないタシトの意図を容易に理解していた。
イニゴは手先が器用で、暇さえあれば何か手仕事をしている。タシトへやったペンダントだけでなく、この食卓にある食器のいくつか、母屋の壁や家具の上を彩る置き物、三人で遊ぶパズルやゲームの駒まで手掛けていた。
タシトはそれらを一つずつ指で示し、リカルドの手を引いて家の中を歩き始めた。
その様子を見て、イシードロも加わった。食事の途中にもかかわらず立ち上がって、自慢の孫と呼べるイニゴの“作品”を紹介し始めてしまったのだ。
リカルドはその度に大きく感心した。
図らずも注目を集めてしまったイニゴが、どうするべきか迷っているのは明らかだった。
「シモン、あの人は……」
小さな声で助けを求めてくる。
しかし、シモンにはそれを止めさせる理由がない。
「リカルドが悪い人じゃないって、イニゴなら分かるはずだよ?」
「だけど……」
イニゴの不安はまだ拭えない。訪問者すらも珍しい農場で育ち、見ず知らずの、それも見慣れぬ格好をした大柄な男を警戒してしまう気持ちも分かる。
シモンは優しく勇気付ける。
「タシトだって懐いてるじゃないか。このシモンの弟なら、それに兄なら兄らしく、しっかりした態度を見せなくちゃ」
文字通り大人しい子供であるタシトが、あのような態度を取るとは誰も予想しなかった。
町の住民をそうしたように、リカルドという男は、ただそこに居るだけで、人を惹き付けるのにやはり違いない。
そしてシモンは、タシトに手を引かれて食卓に戻ってきたリカルドに、わざとらしいほど他人行儀に頼んだ。
「僕の弟たちは、農場の外の人とほとんど会わないんだ。色んな話を聞かせてあげてよ、リカルド?」
提案通り、夕食を食べ終わるなり、リカルドは二人の少年と一緒に外へ出て行った。
オラシオはさっそくリカルドに感化された様子で、何やら資料をかき集めると、夫婦の寝室にこもった。リカルドが荷車も使わず背負ってきたのは、新鮮なレモンとライムの実をいくつかと、その特質や栽培法にまつわる書物だった。
シモンは自分だけが誘われなかった疎外感や、三人が何を話しているのかが気になったが、夕食の片付けを終えると素知らぬ顔をして離れに戻り、早々に自分のベッドにもぐり込んだ。
藁に古いシーツをかけただけのそれは、あの夜を過ごしたベッドとは比べ物にもならない。あそこではたとえ裸でいても、ちくちくする感触などしなかったものだ。
元はと言えば納屋だった小さな建物の、さらに小さな屋根裏部屋と、今は立派なレストランの倉庫に使われているとは言え、店を継ぐはずだった長男の自室とでは、あまりに違いすぎる。広さも、置かれた物も、香りも、明るさも、見える景色も。
シモンは寝そべったまま、窓から外を見る。
三人はきっと、西側の高台に行ったのだろう。輝く月と星々の下、小さな町を見下ろし、海の向こうからやって来たリカルドの話を聞くのは、いつかの〈ピアティカ〉の屋上で自分がさせてもらったのと似ている。
足を引きずっていて町へ下りる事も叶わないイニゴや、市場に出ても客と言葉を交わす事のできないタシトにとっては、またとない経験だ。
今やガラノスの〈王〉とも言えるリカルドは、誰か一人が独占するなど、夢にも見てはならない存在なのだ。
彼を避け続け、そして今日も他人のように接するうち、二人きりで過ごした夜は夢だったのだと考える方が、シモンは納得できる気さえした。