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Ⅷ 翌朝


シモンが目を覚ますと、そこは朝日の射し込む倉庫のような場所であり、リカルドの部屋に間違いなかった。

古いベッドの中、すぐ隣で、裸のリカルドはまだ寝息を立てている。

二人は確かに、一夜を共にしたのだ。


その寝顔を見た途端、シモンは何やら重い感情に押し潰されそうになった。

取り返しの付かない事をしてしまった罪悪感に似た、それでいて、これまで味わった試しのない満ち足りたような感覚もする。この上ない幸福と、それと同じくらいの後悔とも言えそうだった。

元はと言えばふたつに引き裂かれてしまったところを、いくつもの偶然が重なったお陰で、またひとつに戻れただけだと言うのに。

起き上がってみると、かつて飲んだ事のない酒が、そしてリカルドの“感触”が、まだ体の中にも外にも残っているようだった。


と、部屋の扉を叩く音がして、シモンは飛び上がりそうになった。ベランダに繋がる方ではなく、〈ピアティカ〉の三階の廊下からだ。

『私の小さなリコ。あなた、起きている? ベランダのテーブルクロスを取り込みたいの』

セラフィナの声に違いなかった。

彼女の背は、成長期を経験した少年よりも小さい。だが彼女の心の中にある長男の像は、彼が町を出た十八の頃、いやそれよりもっと幼い頃から止まったままなのだろう。


シモンはどうする事も、何を答える事もできずにいた。いつもなら元気よく返事をし、手伝いを申し出るところだが、どうして自分がここに居るのかを説明するのが、ひどく後ろめたい気がしたのだ。

当のリカルドはまだ目を覚まさないらしい。


どうしたものかと考えているうちに、そっと扉が開き、セラフィナが部屋に入ってきた。

磨かれた石造りの床にサンダルの音をさせて、黒い半袖の服に熱帯葉柄のスカートを履いている。手には大きなバスケットを持っていた。

そして、両手で口を押さえて自分を見ている二つの青い眼に気が付くと、リカルドと同じライム色の目をぱちくりさせて、

「あら、シモン?」

と聞いた。


意外そうなのも無理はないが、ベッドに横たわるリカルドがまだ寝息を立てており、シモンもまたその隣で裸でいるのを見ても、咎める様子はなかった。

「リコはいつも朝が遅いのよ。あなたは月曜日も町にいて平気なの?」

取り乱す事も、責め立てる事もせず、スカートの裾を軽く縛りながら尋ねるばかりだ。

「……僕、その……」

何と答えたものか、シモンはうつむいて赤面し、口ごもる。

その様子にも、彼女は何も言って来ない。

「友達を連れてくるならこんな倉庫じゃなくて、二階の談話室を使いなさいと言っておくのだったわ。兄弟みたいにね」

そう、母親然としてふるまうばかりだ。


彼女がスカートと同じ柄のカチーフでまとめた髪は、リカルドのそれと同じ焦げ茶色をしているが、このふた月ほどで少しばかり白髪が増えたようにも見られた。

〈リコ〉と特別な名で呼ばれるリカルドが彼女からどのように教育され、愛されているのか、シモンは知らない。知りようもなかった。

ただ、ベランダへの扉を開け、朝日の中に消えていくセラフィナに対して、なにか申し訳が立たない気もした。

この複雑な感情がどこから湧いてくるのか。文字も読めず、〈半分のオレンジ〉の意味すらも知らなかったシモンには、言葉で言い表せそうにない。


その時、リカルドが小さく唸り、寝返りを打った。

隣に座っているシモンの腰に褐色の腕を回し、むき出しの白い腿に顔を乗せる。編み込んだままの髪が触れ、下腹をくすぐる。

「シモン……」

形のいい唇が動き、小さく呼んだ。まだ夢心地であるのに、さも望んでいた幸せを手に入れたかのように。

それを聞いたシモンは、かっと耳まで熱くなるのを感じた。


昨夜の記憶が一気に脳裏に蘇る。肌で感じたリカルドの体温に触れ、自分のものではなくなったような声や体の感覚を思い出し、居てもたってもいられなくなった。

「……僕、農場に帰らなきゃ!」

そう言って転がるようにリカルドの腕とベッドを抜け出すと、椅子に置いていた服を急いで身に着け、ベランダへ飛び出した。


大判の真っ白なテーブルクロスを一枚ずつ取り込み、バスケットに入れていたセラフィナが驚いて呼び止めてくる。

「シモン! どうしたの? いったい何があったの?」

「ごめんなさい、なんでもないんだ! チャオ、セラフィナ!」

シモンにはそう答えるのがやっとだった。

建物の裏手に繋がる階段を駆け下り、アクロの丘を目指しながら、胸が張り裂けそうに痛んでいた。ちぎれそうなサンダルを脱ぎ、両手に持って走った。


セラフィナの顔を、あのライムの皮に似た緑色の瞳と長い髪を見た時、昨夜リカルドとの間で交わされたすべてを白状しなければならない気がした。

そして、何かとても重大な罪を犯し、それについて謝らなければならない。そんな居心地の悪さから、一刻も早く逃れたかったのだ。  



それからと言うもの、シモンはまたあからさまに、リカルドを避けるようになった。

憎んでいるわけでも、嫌っているわけでも決してない。ただ、彼に近付くと、自分がそれまでの自分でなくなってしまうように思えるのだ。

彼と二人きりで過ごした夜は、自身の内に秘められた知らない誰かに出会ってしまった気分がしたものだから、それが何とも気味が悪く、恐ろしかった。


また、セラフィナと裸で顔を合わせた際に襲ってきた、言葉にできない違和感もついて回った。

この関係を打ち明ければ、いや打ち明けずとも、誰かに咎められそうな気がして、気が気でなかった。


ララジャ夫妻や娘夫婦は、日曜日の夜に帰って来なかった件について、シモンを責める事も、興味津々に何があったか尋ねる事もしなかった。

マンチャを連れて町に下りて、市場でオレンジを売り、〈ピアティカ〉や〈ルビーニ〉に卸し、子供たちと遊んで、夕方にはアクロの丘へ帰る。シモンがこれまで通りの生活を送るのを、誰も気に掛けなかった。


ただ、その間にリカルドの姿を見かけても、挨拶はおろか目を合わせようともしなかっただけだ。

オレンジ売りを見た猫のように、ムスクの香りが近付くと逃げた。町に流通していない香料は、ただ一人の彼の存在を印象付けるのに充分だったのだ。


リカルドもまた、取り立ててシモンに執心しては来なかった。 

特定の誰か、一人の相手にかまけている暇はないとでも言いたげに、住民の教育に注力したのだ。

表立って行動する姿は相変わらずの放蕩ぶりに見えるが、よく気を付けると、リュートを奏でるのが彼から弾き方を教わった者の役目となっていたり、市場のテントが動線を確保しやすいように整理されていたり、香辛料貿易に携わる女の姿まであったりと、着実に変化しているのが分かる。


港や町はずれの畑には、エウリーコがよく現れるようになった。これまでは町の様子を見回り、工房や家々を訪問する方が多かったものである。

その際に大工を引き連れている事からも、港はより整備された形へ、畑はより広くなるよう山の麓の土地を開拓するための視察らしかった。


計画が進んでも、反対する者など現れなかった。

土地を広げる事で、また新しく仕事が増え、対外国の売り上げと、食料の自給率が上がると理解できていたからだ。

半島の先にある小さな町の人口を、労働力で賄えれば、定期船で運ばれてくるのを待つ必要もなく、そこに宛てていた費用を浮かせられる。

住民の手で同じ品質の物を生み出せるかは不明だが、海の上を何日もかけて移動する間の傷みに比べれば損にはならない。

古くからそうあるべきと思い込んだ者が見落としていた問題点を突くだけでなく、その解決方法まで示せるのは、広い視野と知識を持った者だろう。


やがて、ダリアは〈ルビーニ〉での給仕係をいとこのブリタに託し、女だけでなく、海に出られない男を率いて、ブドウの栽培を始めた。新たに開拓されたばかりの土地は日当たりも良く、肥沃な土壌らしかった。

ホセとソフィーは、間もなく産まれてくる子供の名付け親になるよう、リカルドに頼んだと言う。

中年以降、あるいは若い男の、彼に対する態度が軟化し始めたのも感じられた。

今や〈放蕩者〉という評判は鳴りをひそめ、〈人気者〉と呼んで差し支えない。町の皆がリカルドに声を掛け、手を振り、話して歌うように教えを乞うのだ。


リカルドは人目を引く〈王〉の仮面の下で、水面下から獲物を狙うように、それとは気付かせない形で、故郷ガラノスの町を動かしているのだった。


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