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Ⅶ リカルドの部屋


シャツについたワインの染みにようやく気が付いたのか、リカルドはシモンに着替えを手伝うよう言い、酒瓶を持って、屋内に続く扉に向かった。

シモンも断るわけに行かず、まだ果物の残っている器とコップを持って後に続く。すっかり酔いが回って火照った体を、夜風が冷やし始めていた。


扉をくぐると、そこは木箱や樽の積まれた小さな部屋だった。普段はレストラン〈ピアティカ〉とその二階に暮らす家族の倉庫として使われているらしい。

ただし、奥の一角にはベッドが置かれている。木枠はやや古めかしいが、シーツとブランケットは新しく、清潔で、柔らかそうな感触が伝わってくる。朝になれば大きな窓から陽が射し込んで、すがすがしく目を覚ますだろう。

いくら放蕩息子とは言え、追い出されるようにベランダで寝起きしているのではなかったのだ。


リカルドは慣れた様子で荷物に沿って歩いていき、酒瓶を横長の大きな木箱に入れてから、ベッドサイドのランプを灯した。石造りの、頑丈でどこか冷たい雰囲気のあった室内が、柔らかな明かりに染まる。

「こっちに来い、シモン」

呼ばれたシモンは手に持っていた物を近くの棚の空いた位置に置き、床に置かれた物の間を縫って近付く。

「脱がせろ」

リカルドは手を広げて待っていた。その胸と袖には、やはり赤ワインの染みがついている。


「まるで王様だね」

シモンは呆れて言った。ベランダで聞いた本人の展望の大きさに比べると、わざとらしく偉ぶるような態度はどうにも小さく見えるのだ。

そう言いながらも、これは自分の不注意のせいであるので、リカルドのシャツのボタンを外し始めた。


「なあ、オレンジのおちびさん」

その手つきを見下ろし、リカルドが話しかけてくる。

「なあに? 王様」

シモンは皮肉るように応じた。

酔いのせいか、向き合っている体勢からか、あるいはリカルドが首に幾重にも掛けている金のネックレスによってか、ボタンを外すのもひと苦労だった。

「半分に切ったオレンジの断面は、絶対にもう一つの片割れとしか合わないんだってな。本当か?」


「知らないよ。僕が食べるのはたいてい形の悪い物か、オレンジピールだもの」

「オレンジピール?」

「オレンジの皮を干して乾燥させるだけだよ。ジャムを作った時の余りで作るんだ。そのまま食べたり、お茶に入れたり……」

「へえ。それは売りに出してるのか?」

リカルドは興味深そうに聞いたが、シモンは肩を竦めた。

「売り物になるようなすごい物じゃない。崩れやすいし、買わなくても家で作れる。フィデラばあさんは蜂蜜漬けの名人だけどね」


「イシードロとフィデリアは、元気にしてるのか? あの夫婦はまさしく二人でひとつのオレンジだった」

リカルドが思い出したように言った。彼の口から語られたのは、丘の上でオレンジ農場を営むララジャ夫妻のことだ。

シモンは一度顔を上げ、青い目を見開いて、聞き返す。

「二人を知ってるの? それに、ひとつのオレンジって?」

「二十年も前だ。あの頃は夫婦で農場から町に来て、市場に店を出してた。今のお前がしてるみたいにな」

「今の僕はあなたの服を脱がせるのに苦労してるよ。どうしてこんなややっこしい格好なの」


シモンが唇を尖らせると、リカルドは小さく笑い、みずから指輪やブレスレットを外し始める。

「古い哲学者の考えじゃ、人間はもともと二人でひとつだったらしい。オレンジみたいな球体で、手と足は四本ずつ。それがふたつに切り分けられたのが今の人間だ」

髪を持ち上げてピアスやネックレスも外し、ランプを置いたテーブルにまとめると、またシモンを見下ろした。

「だから皆、たった一人の片割れを探し求めてるんだ。もう一度、ひとつになるためにな」


「つまり、結婚するパートナーってこと?」

シモンは顔を上げず聞き返した。

「話はそう簡単じゃない。オレンジにまつわる話は色んな土地で聞いたが、ある所では結婚の象徴で、ある所では不義の果実だからな」

「リカルドは本当に、何でも知ってるんだね」

初めの印象は町をかき回すいけ好かない男であったが、今となっては、素直に称賛できるようになっていた。

そのボタンを、ようやく上から下まですべて外し終えるシモン。


上裸になったリカルドの体には、いくつもの傷があった。いずれも塞がっているが、彼の歩んできた厳しい旅路を物語るようだ。

商人や王侯貴族の体付きではない。興味の赴くままに、世界を股に掛け、往来する船を乗り継いできたのだろう。

じろじろと見るのは悪いと思いつつも、シモンは目が離せなくなってしまう。

汚れたシャツを脱ぎ、装飾を取り去ったリカルドの裸。金のネックレスや革のブレスレット、大きな宝石のついた指輪……それらの装飾品を着けていない方が魅力的であるなどと、そんな事が果たして有り得るだろうか。


あんまりにも見つめていたもので、それが近付いて来ているとシモンは気が付かなかった。

「ついさっき、俺がお前に何を渡したか、憶えてるか?」

シャツを脱いだリカルドは、重いバックルのついた太いベルトも抜き取ると、シモンの腰に手を添えた。

「ウォトカの入ったコップ」

大きな褐色の手に促されるまま、シモンはベッドに腰を下ろしてしまう。

「それは何に合うんだった?」

「オレンジ。だからあなたは、半分に切って僕にくれた」

閉じた脚に両手を挟んで答えるシモン。


目の前に腰を屈めたリカルドが、髪を耳にかき上げ、上目遣いに見てくる。

「海を見ながらした話は憶えてるか?」

シモンは覚えず腰が引けるのを感じた。逃げようにも、ベッドの上に体を倒すしかない。

「レモン売りのシモンのこと? あなたの考えって、難しすぎて僕には半分も分からなくて──」


「いいや、お前が俺たちを見てた話だ」

リカルドはそれを追いかけ、ますます迫ってきた。獲物を狙う大きな猫、あるいは肉食のライオンがそうするように。

今までにないほど近付き、強烈なムスクの匂いが下方から込み上げる。衣服ではなく、焦げ茶の髪や肌から香っているのだ。

「ええと……僕がホセを好きなんじゃないかって話? あんなの、冗談じゃないよ」


「ああ、そうだ。お前のオレンジの片割れはホセじゃなく、この俺だからな」


その言葉に、シモンは身を硬くした。

ベッドに手を突き、覆い被さってくるリカルドの影が、視界を覆う。編み込んだ長い髪が垂れた中に、飲み込まれてしまうようだ。

「初めて会った時からこうなるのを待ってた。ずいぶん焦らしてくれたもんだ」

装飾品を外した手が、ズボンの生地の上から脚を辿っている。細い脛から小さな膝にかけてなぞる人差し指一本で、リカルドはシモンを緊張させた。


さらにその手は広がり、麻のチュニックをかいくぐり、シモンの下腹に添えられる。大きく、骨張った、男の、温かい手だ。

「一人の形になった時に首を反対に回されたから、切られた傷の跡は俺たちの背中じゃなく、ここにあるらしい」

リカルドの言う通り、彼が触れている薄い腹には、切り口を搾ったような小さなへそがあった。


「……僕を女と間違えたくせに。今だって、僕を女代わりにしているの?」

仰向けに倒れたシモンは声が震えそうになるのを何とか堪えて聞いた。不思議なことに、逃げ出そうと言う気が起こらなかった。


「お前が男だろうと女だろうと、俺にとっては大した事じゃねぇ」

リカルドが答えるのと同時に、簡素なチュニックは簡単にはぎ取られてしまった。日に当たっていない部位の肌がランプの明かりに照らされる。細く、白く、しなやかでいて、男の体に相違なかった。


上裸になったシモンを見ても、リカルドは満足そうな態度を崩さない。

「──けど女なら、もっと簡単に落とせたかも知れねぇな」

「僕が、あなたに落ちたって……」

シモンは動悸がして、息が苦しくなった。

「違うのか?」

窓から照らす月に緑色の目が光り、すべてを見透かすように尋ねてくる。

ウサギのような長い耳をしたマンチャにすら聞かせていない。そんな事を、どうして当然のように彼自身が知っているのか。


シモンが何か言い返す前に、リカルドは笑みを見せた。ひどく妖艶な表情だった。

「誰が誰を見つめてるかなんてすぐ分かるって言っただろ」

「リカルド、僕は──」

やっと言いかけたシモンの唇に、リカルドが指で触れる。胸が当たるほど近付いて、耳に唇を寄せてくる。

()()と」

耳の外側にびりびりと痺れが走るほど刺激的でいて、甘い声が囁いた。下腹が熱くなるのを感じ、シモンは驚き焦って見返す。

「そう呼ぶのはホセだけのはず……」

「ああ、特別な名前だ。だから、お前にも呼ばせたい」

「ホセとも、こうしたの?」

恐る恐る尋ねると、リカルドは吹き出した。纏っていた高貴で荘厳な雰囲気が消え、一気に親しみやすい表情になる。


そして、隣に横たわると、片肘を突いた。

「あいつは確かに良い男だよ。けどそれは、親友としての話だ。アントニオには悪いが、兄弟みたいに思ってる」

よく似た言葉を、シモンは確かに聞いた。

やはりホセとリカルドは、一度は離れたとしても、一心同体であるかのように旧い付き合いなのだ。


そんなホセの呼ぶ特別な名を、知り合って間もない自分にも呼ばせようとしている。それは、リカルドがどれだけ強い想いを寄せているかの表れに他ならない。

シモンは嬉しいような、そしてどこか申し訳ないような気分がした。


だが、躊躇っているのさえお見通しだと言うように、リカルドが急かす。

「ホセが見つけたのはソフィーだった。お前には誰がいるんだ? 言えよ、シモン」

「リコ……」

シモンは消え入りそうな声でその呼び名を口にした。

ガラノスの〈王〉とも呼べる相手に比べ、自分はせいぜいレストランの〈下働き〉に過ぎない。荷車の陰から盗み見ていたはずなのに、今は息遣いさえ感じられるほど近くにいる。


その手は、肌に触れ、チュニックを脱がせるだけでは飽き足らず、柔らかく抵抗力のないズボンの結び目を解こうとしていた。

「ああ、お前の声で呼ばれるのは本当に気分がいい。今からもっと聞けると思うと、どうにかなりそうだ」

町娘を一人残らず虜にした情熱的な声で称賛し、夢中になって続ける。

「世界中を旅して来て、やっと見つけたんだ。こんな所にいて、まさか男だとは、正直俺も思ってなかったが」


わずかに抵抗するように両腿を擦り合わせ、何とか言葉を探すシモン。

「僕は、あなた以外の男なんて知らないよ。男同士でつるむ事も知らなかった。でも、まさか、こんな事になるなんて……」

「なに、またひとつに戻るだけだ。恐くは、ねぇよな?」

リカルドが尋ねた。強引な態度で迫ってしまう自分自身に、少しだけ待てをするように。

何も知らない少年は、かすかに震えていたのだ。


が、先ほど呑んだ酒のせいか、はたまた彼から漂う野性的な香りのせいか、拒む事などできそうにない。

「簡単に死ぬ事はないんでしょう……?」

そう確かめられたリカルドは顔を近付け、シモンの額にキスを落とした。


見上げると、ライムの皮のように鮮やかな双眸からはそれまでの〈遊び人〉らしさが消え、代わりに、真摯な熱を帯びていた。

「約束しよう。俺の大切な片割れを殺させたりしない」

体を火照らせる酔いと、星が静かに瞬く夜の空気に、シモンは緊張が解けて、すべてをリカルドにさらけ出したくなった。まだ、知り合い始めたばかりに過ぎないこの男に。


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