Ⅵ 夜の屋上
それからの事を、シモンはよく憶えていない。
しばらく三人で酒を交わしていたのだが、いつもならシモンが遅くなってはいけないと兄貴風を吹かせるホセが、早々に帰ると言い出した。臨月のソフィーが心配だと言って聞かず、シモンはリカルドとその背中を見送った。
すると、それを見計らっていたように、今度は二人のテーブルに他の客が次々と押しかけ、リカルドを取り囲んだのだ。彼が〈ルビーニ〉に現れる機会は多くなかったのかも知れない。彼らは酒を手に手に、口々に話した。
町の女に次々と色目を使い、不可解なことを吹き込む事を責める者もあれば、酔っ払ってくだを巻く者もあり、かと思えばリカルドに酒を奢りたがる者もいた。何でも、彼と話した後に、商売の売り上げが倍になったと言うのだ。彼に感銘を受けた妻と協力して、新しい事業を始めようとしているとの声も聞こえた。
終いにはダリアが食器を下げる隙もない状況となり、店主も他の給仕係も手を上げてしまった。厨房にいたテレッサとブリタはすでに帰宅している。
シモンの月に一度しかない宴会は、人の波と勢いに飲み込まれていた。シモンはリカルドの隣に座っていながら、まるで居ないものとして扱われるようだった。
そんな、酔った男たちの言葉に耳を傾けていたリカルドだったが、突然、片手を挙げた。大きな宝石のついた指輪が輝く。
「分かった、分かった。続きは明日にしてくれ」
全員を制するように言い、ポケットから何やら取り出す。つぎはぎされた布袋で、中に何が入っているのかは、小ぶりな割に重そうな見た目とテーブルに置かれた音で分かった。金貨のぶつかる音だ。
今までの騒ぎが嘘のように、場がしんと静まり返る。
椅子を引いて立ち上がり、隣で小さくなっていたシモンの肩を抱き寄せるリカルド。
「こちらのおちびさんの門限がそろそろらしい。上質なオレンジがなくなると、ピアティカの商売にも響くからな」
そして、当のシモンが口を開く前に、手を引いて颯爽と店を出てしまった。
「──悪かった」
足早に歩き、ようやく立ち止まったリカルドが、ぽつりと言った。
そこで、シモンはようやく我に還った心地があったのだ。
辺りは暗く、人影もない。酒場の喧騒がわずかに聞こえる程度で、ゆるやかに吹き抜ける風の音さえしなかった。明かりの消えたレストラン〈ピアティカ〉が、冷えたタイルの道の突き当たりに見える。
「騒がしくするつもりは無かったんだ。俺はただ、ホセや……お前と話がしたかった」
珍しく、リカルドはしおらしくなっていた。前を向いたまま、長い髪に隠れた顔は見せないが、済まなさそうにしているのは声と口調で分かる。
シモンは何とか言葉を探した。
「確かに、びっくりしたけど……リカルドが謝る事じゃないよ。人気者なんだもの」
目の前で繰り広げられたのは、民から王への謁見とでも言うべきか。
本人は決して、騒ぐために行動しているつもりはない。むしろいつも落ち着いており、その行く先々が自然に騒がしくなってしまうだけなのだ。
それは、シモンにも伝わっていた。〈騒がせ者〉と言うより、〈人気者〉と呼んだ方が相応しい。
振り向いたリカルドは、いつものからかうような笑みを浮かべていた。
「そんな人気者も、今はお前だけの男だ。町の出口までエスコートするぜ、おちびさん」
指輪やブレスレットで飾り立てた手を、再び差し伸べてくる。アクロの丘へと続く道は、〈ピアティカ〉の前を横切った先だ。
シモンは、その手を取らなかった。
「……僕、もう十六だよ。門限なんてない」
それは、初めて芽生えた感情だった。
背の高いリカルドの顔に意外そうな表情が過ぎった。
かと思うと、今度はやや強引に、シモンの手を取り直した。離れてゆくつもりがないのなら、自分はそれ以上の意思を示すのだとでも言うように。
「シモン」
短く呼んでくる声は低く甘いが、いつもの軽薄な調子ではなく、真摯さがあった。それだけで、シモンの胸は締め付けられる。
「お前のことをもっと知りたい。二人きりになれる静かな場所で、乾杯をやり直させてくれるか?」
立派な石造りの〈ピアティカ〉の屋上からは、左手にガラノスの町、右手には海を臨む事ができた。
さらに、頭上には星まで見える。不思議なことに、丘の上にある農場の屋根裏部屋より、ここの方が星に近い気がした。
ただ、やはりレストランのベランダらしく、真っ白な大判のテーブルクロスが何枚も干され、夜風にゆったりと漂っていた。セラフィナは明朝に取り込むつもりなのだろう。
そんな目隠しのカーテンをめくるようにすると、小さなテーブルと帆布で出来たビーチベッドが置かれていた。
リカルドはそのテーブルの上にキャンドルを灯し、シモンをビーチベッドに座らせ、少し待っているように言った。
すぐに、最上階に繋がる扉の向こうから、酒の瓶を一本、小さな陶器のコップを二つ、そしてフルーツを盛った器を持って現れる。彼がよく手にしている角柱型の酒瓶とは、デザインが違っている。
「これは北東の海で手に入れた。穀物を蒸留させた酒で、〈生命の水〉なんて呼ばれてる」
隣に腰を下ろし、コップを手渡すリカルドには、ただ一人の友人として接する雰囲気があった。
「温暖なこの町には出回らねぇが、オレンジによく合うんだ」
改めて乾杯をした二人は、様々な話をした。
「どこから来たんだ? 農場の娘夫婦の子供にしちゃ大きすぎる」
「山の向こうの、うんと小さな村だよ。身寄りが無くて、売られてきたんだ」
リカルドは器に盛られたオレンジをひとつ取り、ナイフで半分に切ると、片方をシモンに渡してきた。
「また、戻りたいと思うか? でなきゃ、知らない土地に行ってみたいとは?」
「考えた事もないかな。村にいたのは八年も前だし、今となっては人生の半分をガラノスで過ごしてる。ここでの暮らしが、僕の全部だ。離れるなんてできっこないもの」
シモンはオレンジをくり抜いて食べ、注がれた酒を飲む。
〈生命の水〉と呼ばれるウォトカの味は、シモンをにわかに驚かせた。適度に冷やされたとろりとした喉越しが、ほのかな甘味をともなって喉に落ちていくのだ。オレンジの果汁は、確かによく合っていた。
「リカルドこそ、どうして町を出たの? 知らない事を知らないままでも、生きていけるのに」
「それじゃ何も変わらないからだよ。いくら平穏で、いい町でも、変化を嫌えばいずれは廃れていく。俺にはそれが耐えられなかった」
「変化した先には何があるの?」
純粋な疑問を示すシモンに、当然のように答えるリカルド。
「未来だよ。決まってるじゃねぇか」
そして、遠くへ思いを馳せるように夜空を見上げ、コップに唇をつけた。星の光は彼のつややかな髪を目指して降ってくる。
「俺はこの十年、世界中の海と陸を旅して回った。ここじゃ考えられねぇ経験ばかりだったし、大抵の事は解決できる知恵も知識も、力も付いた。そうやって集めた色んな物を、海の向こうから持ってきたんだ」
小さな港には不釣合いな大型の武装商船〈エンポリアー号〉がわざわざ航路を少し変更したのは、このリカルドをガラノスに届けるためだったと言う。船乗りの中には、すっかりここを気に入った者もいるようだ。
「それはこの町をもっと豊かにするためだ。港を整備して、世界を相手にした貿易航路を開拓する。ここには、誇れる物がたくさんある」
「もっと大きな船が、この町にたくさん来るってこと?」
シモンは何とか彼の話に追いつこうとした。アルコールに溶かされた頭と舌はふわふわと浮いて、ろくに働こうともしない。それでも、リカルドのことを一つでも多く理解したくなっていたのだ。
「そういう事だ、おちびさん。町のやつらだって、心の中じゃそれを望んでる」
「どうして分かるの?」
リカルドは立ち上がり、テーブルクロスのカーテンを押し上げた。
「新しい物や珍しい物が好きなのは、毎日が退屈だからだろ? 物や人が往来すれば、この暗くて小せぇ町も、今よりもっと豊かで、刺激的な町になる」
青と白の街並みが夜闇に溶けているのを、シモンはあまり見た事がない。ましてや淡い黄色の〈ピアティカ〉の上からなど、そうする機会があるとも思わなかった。
シモンは吸い寄せられるように歩いていき、白いカーテンをくぐると、ベランダの柵に手を掛けて、町を見下ろした。
明かりが点いている家も少なく、〈ルビーニ〉や〈ネクトール〉といった酒場の周りだけが、いやに明るく賑やかだ。
「でも、誰もそんな事をしようとした事なんてないのに」
見下ろしたまま言うと、リカルドも隣に来て、いつもそうしているように手すりに肘を乗せる。
「だから俺がやればいい。俺はこの町で生まれ育った。この町の誰よりも、新しい物や珍しい物好きなんだ」
「リカルドが行動するのは……遊びじゃなく、ガラノスの町の未来のため?」
柵の上で両腕を組み、顔を見上げて尋ねるシモン。やはり、彼の背がかなり高いのが分かる。
「遊ぶみてぇに楽しくやってる。俺はこの町を愛してるんだ。この町に暮らすやつらも、この店も、家族もな」
リカルドは長い髪を夜風に靡かせて答えた。海沿いの遊歩道で目にした時とはまた違う、真剣であるのに、どこか哀愁を帯びた表情をしている。
その姿がまるで価値ある一枚の名画のようだったので、星空に浮かび上がった端正な横顔に、シモンは言葉さえ失ってしまったほどだ。
呂律の回りづらくなった口を使って、言葉を押し出す。
「……あなたがそんな事を考えているなんて、皆はきっと知らないよ。それは惜しいと思わない?」
問われたリカルドは含みのない笑みを見せた。
「構わねぇさ。英雄になるつもりはねぇし、むしろ年寄りには嫌われてる方が都合がいい。何かと動きやすいだろ?」
シモンはやはり彼の言うことの意味が理解できず、首を傾げる。
すると、リカルドは大きな手を広げ、その金髪の頭を撫でた。
「これからは頭の固い年寄りじゃなく、未来のあるやつがこの町を作っていくんだ。オレンジや、ブドウのおちびさんみたいにな」
そこに、以前と同じからかいではなく、慈愛や期待が滲んでいるのを感じたシモンは、手を振り落とさなかった。また顔が熱くなるのを、酔いが回ったせいだと思うようにした。
「……リコは何をするのも早すぎるって、ホセが言ってた」
小さな声で言うと、リカルドは眉の力を抜き、手を離した。
「早いもんか。ここまで来るのに、俺は十年もかかっちまった。人生なんてあっという間だってのに」
常に自信に溢れ、何をも恐れぬ王のような貫禄さえ見せる彼がそんなことを言ったのが、シモンには意外だった。