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Ⅴ 酒場ルビーニ


〈エンポリアー号〉の寄港からふた月と経たぬうちに、ガラノスの町には明らかな変化が起こり始めていた。異変と言っても過言ではない。

それまで家にいるのが当たり前だった女たちが、こぞって外に出るようになったのである。それも若い娘だけでなく、夫のいる妻、孫のいる老婆までもが。

子供の世話をし、夕食の支度をして、夫の帰りを待つだけだったところから、買い物以外の時間でも町に姿を現すようになったのだ。


夫を送り出した後、彼女らはそれぞれの家系に伝わる教えを持ち寄って、料理や裁縫といった物作りをしたり、占いや楽器の演奏の仕方を教えあったりした。小さな子供も一緒に集まればお互いが遊び相手にもなり、協力して躾や世話もできると気が付いたようだ。

夫の商売の売れ残りや余り物を持ち出しては、保存がきくようフルーツを加工し、端切れを集めて服やカバンを作り、絨毯を織り上げ、アクセサリーを作るようになった。

夫婦が交代で市場に店を出すようになり、中には、男でも満足に操れない外国語を船乗りから学ぶ者まで現れた。


不審に思った男たちが問いただすと、彼女らはリカルドがそうするように言ったと口を揃えた。

夫や婚約者たちはそれ以上何も言えなかった。その名前を出されると、頭に上っていた血が引いていくのだ。それは、リカルドという男の魅力と説得力、そして恐らく腕力にも、何ひとつ敵う自信がない事の現れであった。

結託した女の強さをまざまざと見せつけられた男たちは、負けじと自分の仕事に専念するよりないのだ。


当のリカルドは呑気に広場でリュートを弾き、ベランダから口笛を吹いては、まだ話した事もなく遠くから自分を見つめているだけの娘を誘うのだった。

町は、放蕩息子の帰郷とはまた違った形で騒がしくなった。リカルドの呼び名は、〈放蕩息子〉から〈騒がせ者〉となっていた。


日曜日の夕方、シモンは荷車を牽かず町に出てきた。

仕事で訪れるのも、遊びに繰り出すのも、〈夕暮れのオレンジ農場〉から坂道を下った先にあるこの町だ。半島のわずかな先端部、時おり船乗りが連れてくるちょっとした非日常、それがこの町に生きる者にとってのすべてである。


シモンが酒場〈ルビーニ〉の前に着くと、すでにホセが待っていた。

「いつもご足労だな。土曜日に町に泊まって行けばいいのに」

労いの言葉に、首を振るシモン。

「アレシアおばさんとの決まりなんだ。それに、マンチャはこんな硬い石の道じゃなく、小屋の土と藁の上で休ませてあげないと」

アレシアはララジャ夫妻の一人娘で、ホセより年上だ。まだ子供は居ないが、三人の少年を息子のように思っている。


親代わりでもある一家は、シモンが十六になった時から、毎月の最終日曜日には町で夕食をとり、酒を飲む事を許していた。

と言っても、これは厳しい躾ではなく、何せ三人の少年のうちでシモンがいちばんにこの歳を迎えたもので、どのような決まり事を設けるべきか分からないままそうしたものだ。

シモンもそれを窮屈だと感じてはいなかった。


スイングドアを押して〈ルビーニ〉に入ると、ここでも若い娘が元気よく声をかけてきた。

「ハーイ、シモン! ホセも! 来てくれてありがとう!」

このダリアという娘はシモンと同じ年頃で、つい一週間前からこの店で働き始めたばかりだ。焦げ茶色の髪と、健康的な褐色の肌をした活発な少女だった。

愛らしい娘の注ぐ酒が不味いはずがなく、店はさらに忙しくなり、店主はますます何人かを雇いたいと話しているほどだった。

「今夜のコックはテレッサおばさんと、私のいとこのブリタよ。自慢の料理はナスとインゲンマメのムサカ、塩漬けブドウの葉のドルマデス……」

ダリアは二人を席に案内しながら言った。彼女が動く度に、カチーフから背中へ垂れた長い髪と、耳元ではピアスが揺れる。


厨房には若い娘でなく、子供のいる母親の姿が見えるようになっている。

いつも家にいて、楽しみと言えば井戸端や洗濯場でのささやかな世間話。夫と子供が帰るまで、そして彼らが寝てからの時間を持て余していたという女ばかりだ。


シモンはホセと席に着き、先月より様変わりした店内を見回した。それまでいなかった娘が一人ばかり増えただけで、何とも空気が華やいでいるように思えた。

聞けば港の方にあるもう一軒の酒場〈ネクトール〉でも、同じ現象が起きているらしい。


「ソフィーも、子供が産まれて、少し大きくなったら一緒に文字の勉強がしたいって言ってた。オレが教えるんだ」

料理と酒を頼み終えると、ホセはテーブルに腕を組んで言った。

「それは、リカルドの()()?」

ホセと同じ体勢になったシモンが尋ねる。

「そうだろうな。家の事はともかく、やりたい事なんて言う性格じゃなかった。何かを目指してるところすら想像もつかなかったくらいだよ」

「リカルドはソフィーとも会ってるの?」

「あいつがよくうちに来るんだ。夕食を囲んで、家族で話す時も多い」

「ホセの家族は、他の親父さんたちほどリカルドを嫌っていない?」

シモンは少し声をひそめて聞いた。


今やリカルドの評価は二分されている。彼を〈王〉のように持ち上げ、慕う者と、それを頑なに認めない者だ。

リカルドが勝手気ままに動けば動くほど、〈ピアティカ〉のオーナーをはじめ年寄りの目や態度は厳しいものとなっていく。

ホセの父エウリーコは、リカルドの父マルティンと同い年だったはずだ。変化し始めた町の代表として、住民の相談役として、異端の存在をどのように受け止めているのか。週の半分しか町にいないシモンは、なかなか耳にする機会がない。


ホセは人目を気にする素振りもなく、明るく答える。

「子供の頃は兄弟も同然だったからな。小さかったトニーには悪いが。リコだって、レストランの屋上に一人でいるより良いんじゃないか?」

どうやらリカルドは、薄い黄色をした石造りのレストランのベランダを寝床にしているらしい。確かに十年間も使われていない部屋があれば、そのままにしている方が不便と言うものだろう。


また、ホセが口にした〈リコ〉というのはリカルドの愛称だが、そんな風に呼ぶ者は彼以外に見られない。

王とは民から慕われるべきであり、同時に一線を画した存在でもあるべきなのだ。


「でもセラは……息子のことを想ってるよ。マルティンやトニーの手前、表立っては言えないんだろうが、これは間違いない」

ホセが続けて話すのを聞きながら、またしてもリカルドに意識が向いているのに気が付くシモン。

この場にいない時ですら、話題を独占してしまう。それがリカルドという男の影響力、彼が町にもたらした変化を示す何よりの証だ。

「母親ってのは、どうしてあんなに(したた)かなんだろうな」

これから父になるホセは、感心したように厨房のほうへ目をやった。髪をまとめた女たちが忙しなく、そして張り切って働いている。以前から働いていた男たちは店主さえもその勢いに押し出されそうになっていた。


〈夕暮れのオレンジ農場〉に門限はなかったが、そんなものは定める必要もないと言った方が正しいかも知れない。

遅くまで開いているのはこの〈ルビーニ〉と〈ネクトール〉だけで、たいていの者は家で大人しくしている。アントニオのように酒に弱い者もそうだ。

走り回れもしない夜の閑散とした町は、少年には無縁の場所だ。その名の通り夕暮れ時には、農場に帰るものだった。


ところが、この日は違った。〈ルビーニ〉に、騒がせ者のリカルドが現れたのだ。

昼間から酒瓶を手にしている姿は珍しくなかったが、噂をしているそばから登場したもので、シモンは驚いてしまった。


「待ってたぜ、リコ! 遅かったな!」

いっそうの笑顔を浮かべ、リカルドに手を伸ばすホセ。周囲の視線がいっせいに注がれているが、気にも留めない。

「昨日もその前も、呑んだばかりじゃねぇか」

リカルドも笑みを見せ、ブレスレットで飾り立てた手を打ち付ける。そして、当然のように、ホセとシモンのテーブルに加わった。


丸テーブルは小さく、靡いた長い髪が触れるほどの至近距離でムスクが香る。

「何だ、誰かと思えばオレンジ売りか。酒が飲める歳なのか?」

甘い声が尋ね、鮮やかな緑色の眼が見てくるのを感じる。途端にシモンは緊張して動けなくなってしまった。

「このホセの弟なら言ってやれ、シモン。一人でワイン樽を開けてやるってな」

ホセが愉快そうに言ってくるのも耳に入らない。

他の客の関心が寄せられる中、平然としている二人といるのが、いやに場違いな気さえした。


リカルドがダリアにビールを頼むと、彼女は嬉しそうに承知した。

そして、オリーブ油をかけたフェタチーズの小皿を出しながら、他の客には見せた事のない表情で、

「あの事は、私たちだけの秘密よ。リカルド」

と彼の耳元に囁いた。

するとリカルドもまた優しい笑みを見せ、

「分かってるさ、ブドウのおちびさん」

何もかも分かり合っていると言いたげに返すのだった。

そんなやりとりを目の当たりにしたシモンは、二人の間に交わされた秘密が知りたくなってしまうのを止められなかった。


「シモン、もう一杯飲まないか? リコも来たんだ。あらためて乾杯を」

ホセが嬉しそうに話しかけてくる。

「ううん。僕は、まだ──」


中を見せて答えようとした時、木製のタンカードがシモンの手をすり抜けた。テーブルに転がり、まだ半分ほど入っていたワインをこぼしながら床へ落ちてしまう。

ブドウの皮を溶かしたように深い赤色をしたワインは、隣に座ったリカルドの白いシャツの袖口や胸元、ズボンにまでかかった。

「ご、ごめんなさい!」

シモンは咄嗟に詫びるが、リカルドはまるで何も起こっていないかのように平然としている。


「平気か、シモン? いつもはこんな量で酔う男じゃないだろう」

ホセが立ち上がり、シモンの様子を確かめた。そして、近くにいたダリアを呼び止め、布巾を持ってくるよう指示する。

当のシモンは何も考えられず、固まっていた。

彼の言う通り、酔いが回ったのだろうか。ホセと二人きりだった時は何も感じず、自然にできていた動きさえできなくなっている。取り乱す事すら許されない気がした。


「俺を恐がってるんだ。こんな身なりでいきなり現れて、勝手な事ばかりするから」

肘を突いたリカルドは動かないシモンを見下ろしてから、苦笑してホセを見上げた。服を汚されたのなど気付いてもいないかのようだ。

ホセも困ったように笑う。

「リコは悪い奴じゃないって、シモンなら分かると思ったんだけどな」


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