IV 海の向こうには
潮風の吹き抜ける遊歩道は、半島の先に建つ町の海沿いをゆるやかに蛇行している。レストランや家々の裏手、広場の外周を通り、港へ繋がる石灰石と粘土の道だ。
穏やかな海を眺めながら昼食をとるべく、広場を横切ったシモンは、遊歩道へ降りる浅い階段に、リカルドが一人でいるのを見かけた。
珍しい事もあるものだ。
質の良さげな装いが汚れようと気にもせず、仰向けに寝転がっている。投げ出した長い脚も、編んだ長い髪も、高貴な身分を着崩したような服装も、目立つのはいつも通りだ。
よく見ると、数匹の野良猫が彼を取り巻き、思い思いの体勢で休んでいた。人間のみならず、猫までも虜にしてしまうらしい。
「ハイ、リカルド」
シモンは歩み寄り、顔を覗き込んで声を掛けた。
本心から嫌っているならば、わざわざそうはしないだろう。この男には、不用意に声を掛けさせる余裕と、ただそこに居るだけで他人を惹き付ける力があった。シモンもそれに誘われた一人に過ぎない。
途端に、野良猫たちはぞろぞろと起き出し、離れていった。
リカルドが両の目を開くと、あの印象的な色の瞳は真上から射す太陽を受けて光った。シャツをはだけた胸元でも、小さな金のメダルを繋げたネックレスが煌めいている。
「誰だ?」
眩しそうに目を細め、指輪を嵌めた手を翳す顔の上に、シモンは自分の影を落とすようにした。
「僕だよ。オレンジ売りのシモン」
「ああ、道理でにおいがすると思ったぜ」
リカルドは納得したように言い、頭の後ろで手を組み直して、また目を閉じてしまう。
シモンは驚いて自身の腕や服を嗅いだ。強い陽射しの中で仕事をしていたのだ。自分では分からないが、確かに土や汗の臭いが染み付いているかも知れない。
落ち着きなく動く影の下で、リカルドは目を閉じたまま口を開いた。
「何してんだ。お前が臭うなんて言ってねぇよ」
いつもの遊び人らしい甘さより、落ち着きを感じさせる低い声が続ける。
「猫に避けられるのは宿命だな」
「どうして分かるの?」
服に鼻を埋めたまま、猫が離れていった方角を見た。町には至る所に猫が暮らしているが、彼の言う通り、シモンに懐くのはほとんどいないのだ。
「お前からはオレンジの匂いがする。瑞々しくて、新鮮で爽やかで……猫は嫌うが、人間には親しみや安心感を与える。お似合いだ」
称賛とも取れる言葉を平然と口にするリカルド。それを聞いたシモンはひと安心して、持ち上げていた服を離した。
乱してしまったチュニックのベルトを直していると、リカルドが尋ねてくる。
「それで、この遊び人に何か用なのか? 働き者のおちびさん」
「どうして一人でいるの? 遊び人なら遊び人らしくしていればいい」
言葉を交わしたのは〈ピアティカ〉の貯蔵部屋で出会った時以来だ。
「見て分からねぇのか、休んでるんだよ。遊びにも休息は必要なんだ」
そう答え、リカルドは呑気にあくびをした。
気ままで奔放で、何と無防備なことだろう。太陽を浴びる彼自身が、日向ぼっこをする大きな猫と言ったところだ。匂いを嗅いでも逃げ出す様子のない、シモンにとって特別な猫である。
「ふうん」
シモンは相槌を打ち、その隣にすとんと腰を下ろした。アレシアが持たせてくれた野菜やチーズ、オリーブの実を、市場で買ったピタに詰めて軽食にする。
いつもなら商売仲間と肩を並べてそうしている時間だが、今日はいつも人が並んでいるこの男の隣を、独占する機会に恵まれたのだ。
しばらくは何も起こらなかった。シモンがリカルドの隣に座る事を誰も咎めなかったし、誰かがその場所を奪いにくる気配もなかった。
リカルドの寝息と、目の前に広がる海はどちらも穏やかに時を刻む。
噴水の音に混じって、弦楽器の旋律がしていた。以前リカルドが奏でていたものと同じだろうか。
ちらと隣を盗み見る。老若男女に囲まれていた人物は、たとえ一人であっても、何を気にする様子もなく堂々としている。
物語に登場する“ネコ科のライオン”とは、彼のような動物ではないかとシモンは思った。実際にその姿を見た事はないが、古くは壁画や彫刻、紋章にも好んで用いられる雄々しさと気高さを持った、誇り高き〈百獣の王〉だ。
「なあ、おちびさん」
おもむろに、そんなリカルドが口を開いた。
「おちびさんじゃないったら。オレンジ売りのシモンだよ」
「シモン」
ずっと〈おちびさん〉と呼んでいた相手が突然そのように態度を改めたので、シモンは喉を詰まらせそうになった。
「な……何?」
「お前の家は今でも、夕暮れのオレンジ農場なんだってな。レモン売りのシモンにはならねぇのか?」
問われたシモンはリカルドを見た。誰かから聞いたのだろう。相手が自分に興味を示す事は、喜ばしいものだ。
「レモンやライムは定期船が運んでくる物だよ。栽培なんて誰も考えた事ない」
答えると、リカルドはすかさず口を挟んでくる。
「苗木さえあればこの町でも育つ。レモンやライムは害虫にも、陽の光にも、暑さにも強い。寒くなるなら藁で覆えばいい」
「うちの農場の広さと人手じゃオレンジで手一杯さ。これ以上仕事を増やすなんて……」
「ならもっと麓まで土地を広げて、人を雇えばいい。女でも、海に出られなくなった男でも構わねぇ。週に何度かお前が1人で売りに来るより効率的だ」
何について話されているのか、シモンには分からなかった。
「山の方はまだ区画整理すらされてねぇようだしな。ホセに聞いたぜ。いくらか木を伐れば温室だって建てられる」
「いったい何の話をしているの?」
シモンはにわかに気味が悪くなって聞いた。
姿形はこれまで見せていたものと同じであるのに、その言葉には、放蕩ぶりの欠片も感じられない。まるで身を呈して働く開拓者が事業の話を進めている様子だ。
すると、リカルドはむくりと起き上がった。シモンと並ぶように座り直し、その手を伸ばしてくる。
「ははっ、悪かった。おちびさんには難しすぎたらしい」
そう言って、小さな子供にそうするのと同じく、金髪の頭を撫でた。髪がくしゃくしゃに乱れ、ブレスレットについた飾りがじゃらじゃらと鳴る度、ムスクの匂いが落ちてくる。
「ヘイ! 何するの!」
シモンは焦ってその手を振り落とした。
赤面しているのが分かる。子供のような扱いを受けた事よりも、リカルドの笑った顔や声、触れてきた手がそうさせたのだ。
「女の人にもこんな事ばかりしているんでしょう」
シモンの言葉に、今度はしたり顔で笑う。
「この小せぇ町だ。誰が誰を見つめてるかなんてすぐ分かるからな」
「それで? どうやってベッドに運ぶの?」
「俺は何もしねぇ。待ってても向こうから来る」
「フン。いけ好かない」
顔をそむけ、わざとらしく唇を尖らせるシモン。そうするのがやはり自然だと思ったからだ。
どこまでも広がる海を同じ色の目で睨み、ピタにかぶり付く。
不意に、リカルドが笑みを消した。じっと見てくる視線を感じ、シモンはわずかに向き直る。
よく日焼けした、彫りの深い顔がすぐに近くあった。自身の感情は読ませない様子で、シモンの感情を探るように見ていた。
「──どっちが、だ?」
「え?」
シモンは口の中にあった物を飲み込んだ。味など感じなくなってしまった。
リカルドに言われたことに、恐怖に近いものを感じた。
整った顔はさらに迫り、大きな日陰が落ちてくる。彼はシモンの後ろに腕を突いていた。まるで今にも腰を抱くような体勢だ。
「木曜日の夕方、車に隠れて俺たちのことを見ていたよな。俺が気付いてねぇとでも思ったか?」
心臓が鷲掴みにされたような感覚がした。
「そ、そんな事……」
シモンが何か言い訳を考えつく前に、リカルドはあっさり身を引くように体を離し、元のように座り直した。
そして、当然のように問いかける。
「好きなのか? ホセのことが」
シモンは驚きのあまり大きく目を見開き、大声を上げた。
「何だって? そんなばかな! ホセは兄さんみたいなものだし、だいいち、男じゃないか!」
それを聞いたリカルドは少し黙り込んでから、また笑った。今度は先程の穏やかなものではなく、軽蔑したような嘲笑だった。
「本を読んだ事はねぇのか? その様子じゃ、オレンジにまつわる話も知らないらしいな」
シモンは精一杯の否定を続ける。
「おかしなことばかり! どうしてあなたが皆から好かれているのか分からないよ!」
確かに、いきなり現れたリカルドに、兄貴分のホセを取られた気もした。
ただ、これほど強く否定したくなるには、もっと別の理由があるからだろう。それが何であるか明確には分からなかったが、今は何もかも否定してしまいたかった。
「好かれちゃいねぇよ。でなきゃ遊び人だなんて呼ばれるはずがねぇ」
リカルドがぴしゃりと言い返した。太陽を吸い込んだような風貌から発せられたとは思えない、冷たい声だ。
シモンは口をつぐむ。つい口をついてしまった言葉が、意外にも彼には堪えているのかも知れない。
騒ぎ立てるのをやめた少年をしばらく見つめていたが、リカルドはやがて静かに口を開いた。
「海の向こうには、男同士でつるむ奴らがいる。船の上にもな」
つるむという言葉が、自分にとってのホセやアントニオ、一緒に暮らす少年たちと交わしている意味でないのは、シモンにも理解できた。
海の向こうから来た彼の言うことが事実であるかどうか以前に、信じられないことを告げられ、茫然とその横顔を見る事しかできない。
神像のように端正な横顔を持つリカルドは、海の向こうを見透かすような、遠い目をして続ける。
「恋に落ちた相手が偶然、男だった。それだけで、鞭で打たれて、殺される国だってあるんだぜ」
鞭打ち、という言葉を聞いて、シモンは体が強ばるのを感じた。見ず知らずの相手に同情したのだ。
リカルドは体をひねり、広場の噴水やその向こうの市場の方を見た。町の人々は何も知らない様子で日々を過ごしている。
「水に映った自分にキスをしようとして溺れ死んだ男もいる。何に落ちるかなんて分からねぇんだよ」
噴水に施された彫刻が何をモチーフとしているのかも、シモンは知らずに生きてきた。そんな事に興味を示さなくとも、生活するのに差し支えはなかったからだ。
そして彼は、シモンが何かを言う前に立ち上がり、両手をポケットに入れた。どうやら遊び人の休息は終わりらしい。
「知らねぇ事を知らねぇまま死んでいくのは、俺には耐えられそうにない。だから海に出たんだ」
「リカルド……?」
はっきり言ってシモンには、リカルドの話は半分も理解できなかった。言葉を交わしても、この男のことはほとんど分からないままだ。
それでも呼びかけると、彼は腰を折るようにして、また顔を覗き込んでくる。
片側の長い髪を耳に掛けているお陰で、シモンにだけは、その表情が見て取れた。
これを誰かに見せ、誰かの一人のものにさせてしまうのは惜しいと感じさせるほど、何とも妖艶な顔つきだった。
「人生は一度きりだ。この町では何をしたって簡単に死ぬ事はねぇ。自分に正直になってみろよ、シモン?」