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Ⅲ ホセとリカルド


オレンジ売りの仕事を終えると、町の子供たちと遊ぶのがシモンの日課だった。

売りに出せなかった形の悪いオレンジを蹴って転がし、いくつかのチームに分かれてパスをしながら、町を駆け回るのだ。

大きな二筋の通りも、それらを結ぶ細い路地も、時には青い屋根の上すらも、若さに溢れた十代のシモンと子供たち、そして野良猫にとってはすべてが遊び場だった。

夕暮れ時、教会の青い丸屋根の下の鐘が鳴り、丸いオレンジに似た太陽が、輝く海の上に腰を下ろすまで。


おのおのの家に帰る子供に別れを告げると、今度は町での買い出しに向かう。オレンジを売りに来るだけでなく、丘の上での暮らしに必要な物を調達するのも、シモンの役目だ。

ララジャ夫妻やその娘のアレシアから頼まれた品を揃え、最後にエウリーコの家に立ち寄る。ここでは農場宛ての荷物を集め、預かってくれていた。


ホセが出迎える日もあったが、今日はまだ帰っていないらしい。届いていたのは、身重のソフィーが運べるほど軽い布とボタンだった。

「たぶん……セニョーラ・ララジャね。服を作るのかしら?」

玄関まで出てきた彼女は、宛名を見る淡い空色の瞳と同じ色のゆったりとしたワンピースを着ていた。淡い金色の髪と白い肌をした彼女もまた、文字の読み方を知らない。


同じく金髪に海のような青い目を持つシモンと二人で確認し、ララジャ夫人すなわちフィデリアが、夫のズボンを仕立てるために注文した材料だと見当がついた。先週、布屋に注文したのもシモンだからだ。

「イシードロじいさんのズボンに穴があいちゃったんだ」

受け取って答えると、彼女の空色の目はその服装へと向けられる。麻布に穴をあけて頭からかぶり、前後を閉じて紐のベルトを締めただけのチュニックだ。

「シモンは、いつもその服ね。動きやすそうだけれど」


「僕はすぐ大きくなるし、いちいち作ってたら布が足りないのさ。サンダルもそう。弟たちも僕のお下がりを着てるくらいなんだから」

それに、とシモンは丘の方へ目をやる。

「女の人は、夫の服を仕立てるのが一番楽しいんだ。フィデラばあさんがアレシアおばさんにそう教えてた」


それを聞いたソフィーは瞳と同じ色のワンピースの上から、膨らんだ腹を撫でた。

「私も、母かおばあちゃんに聞いておきたかった。そうすればホセにも赤ちゃんにも、自分で作ってあげられるのに」

「ホセのお母さんに習えばいい。二人とも、ずっと家にいるんでしょう?」

家の中を軽く覗き込んで提案するシモン。ソフィーも一度振り返った後、首を振った。

「彼女、織物はできるけど、裁縫はできないそうなの」

「そうなんだ。ああ、でも、ホセやエウリーコは仕立て屋の服がよく合ってるよ。外国から来たお金持ちの王様みたいな、変な服でもないし」

こぼれた若い嫉妬に、ソフィーは微笑みを見せる。

「それって、“あの人”のこと?」

「さあね。とにかく、ありがとう! ……それと、早く産まれてきてね。僕のチーム、人数が足りないんだ」

シモンは礼を言い、彼女の膨らんだ腹にも挨拶をしてから帰路についた。


いつものように空になった荷車に集めた品を入れ、ロバのマンチャと農場を目指す道すがら、〈ピアティカ〉の前を通ろうとしたシモンは、ホセとリカルドが話しているのを見た。

薄い黄色をした石造りの壁に背を預けたホセと、一階の窓枠から身を乗り出したリカルドが、夕日を受けて楽しげに笑っている。

二人とも、これまでシモンには見せた事のない表情をしていた。一番の親友だったというホセの言葉は、嘘ではなかったのだろう。


シモンは思わず足を止め、荷車の陰に隠れて様子をうかがった。なぜか、二人に見入ってしまったのだ。

そうしながら、シモンは他人に言いようのない心のざわつきを感じていた。

兄のように慕うホセを、突然現れたリカルドに盗られてしまったような気持ちがした。ソフィーと彼の結婚が決まった際には抱きもしなかった感情だ。


さらに、まったく不思議なことには、その真逆であるようにも思えるのだ。

もちろんシモンは、リカルドのことを何も知らない。人を魅了し、惹き付ける、知らない匂いの正体が何であるのかも。

ただ、あのライムの皮のような色の強い瞳で見つめられたのが忘れられなかった。


とは言え、それを表立って態度に出すのは(はばか)られる。町のことなど知らない放蕩者に、人望を取られたと嘆いているのが、シモンから見たシモン自身にはお似合いだったからだ。

リカルドを好意的に捉えるのは、アントニオやマルティンにも悪い気がした。ずっと良くしてくれている顧客で、町においても指折りの、働き者の仲間なのだから。


しゃがみ込んだシモンは荷車の車輪越しに、ホセの足元を見る。

将来はエウリーコの後を継ぎ、このガラノスの代表となるホセは、どんな住民とも船乗りとも分け隔てなく接している。ただ、放蕩者と名高く異端とも言えるリカルドに対しても歓迎的な態度を隠さないのは、十年越しの親しみを忘れていないからだろう。

二人の交流を、今まさに厨房で働いているマルティンがどのように思うのかも、シモンには分からなかった。


彼らが何を話しているのかまでは聞き取れずにいたが、

「何してんだ? おちびさん」

突然、そう聞こえた気がした。

シモンは心臓が飛び出しそうになった。間違いない。リカルドの声だ。

荷車の陰から顔を半分だけ出して声のした方を覗く。


そうすると、リカルドがシモンではなく、通りかかった娘に声をかけているのが見えた。娘は市場での買い出しの帰りなのだろう。両手で抱えた荷物で、恥ずかしそうに口元を隠している。

ホセも二人の間を取り持つように、シモンに背中を向ける形で、身振りを交えて話に加わっていた。

シモンは顔が火照るのを感じた。

話しかけられたのは自分であると勘違いをしたのだ。それが恥ずかしくて堪らなかった。


立ち上がり、ロバのマンチャに掛けた手綱を掴むと、シモンは駆け出した。少しあって、蹄が踏み出し、木製の車輪が動き出す感覚がついて来る。黒灰色の丸石をなぞるゴトゴトという音がする。

話す三人のわきを、さも忙しいふりをして通り過ぎていく。

「よう、シモン! 今日もお疲れさん」

ホセが声を掛けてくるが、振り返らなかった。

「チャオ、ホセ! また土曜日に!」

声だけで返事をした。兄のように慕う彼に対して、そんな風に避けた態度を取るのも初めてだった。

彼らの顔を見たり、見られたりするのが嫌だった。

自分がどのようなことを考え、どのような顔をしているのかを、悟られてしまうのではないかと思ったのだ。


「ララジャの爺さんたちにもよろしくな! オラシオも、たまには飲みに来いって!」

ホセの声が追ってくるが、シモンは片手を挙げて振っただけで、逃げるようにその場を後にしてしまった。

オラシオとは、アレシアの夫だ。山向こうでの仕事が忙しく、週末と休暇の時期にしか農場にいない。何度か顔を合わせただけの相手をも友人と認めるのが、ホセという男だ。

リカルドの声は聞こえなかった。


町の出入り口を抜け、ゆるやかな山道をしばらく登ると川があり、それに沿ってさらに登ったアクロの丘の上に、〈夕暮れのオレンジ農場〉はあった。

いつもならフィデリアとアレシアが作る夕食が待ち遠しい時間帯だが、今日、いやこのところ、そういうわけにいかなかった。

川辺で足を止め、手綱と荷車を取ってやると、マンチャは喉を鳴らして水を飲んだ。


シモンはサンダルを脱ぎ、冷たい川に足をつける。そうすれば、あちこちに靴擦れした痛みが和らぐような心地がするのだ。

いくらか成長しても替えずに済むようにと、老夫婦は思いやりをもって大きなサンダルを与えてくれたが、週に三度も四度も丘を上り下りするにはそれが却って歩きづらい。ぼろになっても買い替えるのがためらわれ、オレンジ蹴りをする時なんかには裸足で走っているほどだ。


ふと振り返れば、白と青と淡い黄色で出来たガラノスの町は眼下にあり、広大な海に面しているのが分かる。本来ならば大型の船が停泊する用などない、本当に小さな町だ。

シモンは港の方を見、意図しないうちにキャラック船〈エンポリアー号〉を探していた。くだんの放蕩息子を乗せてきたそれは貿易船だが、今回は例外的な、不定期の寄港だと聞いている。


四本ものマストを持つ立派な船がどこで造られ、どこから来たのか、住民のほとんどは分かりもしない。たとえ海図を広げて、説明を受けたとしても。

なぜなら、海の向こうがどのようになっていようと、自身が関わる事はこの先もきっと無いからだ。

そして、“彼”も他の船乗りと同様、この先もガラノスに留まり続けるのではなく、いつかまた旅立って行くとはシモンにも分かっていた。


自然とリカルドなる人物に考えが向いている事に気付き、先の失態が思い出される。

「どうしてこんなことを考えてしまうんだろう……」

シモンはつぶやき、マンチャに向き直った。ロバにしては温厚な性格の彼女は、ウサギに似た長い耳をよそへ向け、何も聞こえないふりをしてくれている。

「さっきの事は僕たちだけの秘密だよ、マンチャ」

念を押して水から上がると、喉を潤して満足した様子のマンチャに手綱と荷車を着け直した。


農場に向かって歩きながら、少年の心はやはり町へ向かっていきたくなる。

あのような勘違いはごめんだが、困ったことには、恥じらいの中にわずかに心躍るような感覚があったのだ。

嫌っているはず、嫌うべき相手から声を掛けられてこのようになるなど、あってはならない。

シモンはまた走り出した。これ以上、その感覚に意識を向けるのが妙に恐ろしく、振り切って逃げ出したいような心地がしたからだ。

マンチャがその後ろをゆっくりとついて来る。


夕食の香りを風に乗せる農場の母屋が見え、納屋を改装した離れからはちょうど、杖を突いて片足を引きずったイニゴとタシトが出てきた。

赤い癖っ毛の方がイニゴで、近くで見ると顔にそばかすがある。彼よりさらに小柄で、さらさらとした黒い髪と柔らかな子供らしい肌をしたのがタシトだ。

太陽は沈み切り、アクロの丘は、夕闇に包まれ始めていた。


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