Ⅱ シモンとホセ
ガラノスには、港に面した噴水広場へ繋がる大きな通りが二本ある。
一本はアクロの丘から下る坂道の延長にあり、町の出入り口と噴水広場を結ぶ形だ。石造りのレストラン〈ピアティカ〉の正面玄関も、この通りに面している。
もう一本は手工業の職人街で、布や革、石工、鉄工、粉挽といった具合に小さな工房が建ち並んでいる。職人の多くは寝食を共にしており、朝早くから物作りに精を出す音が聞こえ、夜も早くに寝静まる通りだ。
広場から職人街を抜けた先には、山脈の裾野に繋がる。ガラノスの人々の先祖が大昔に切り拓いた土地で、野菜や牛や羊は今もここで育てられている。
また、港では近海での漁を生業とする者がボートを出したり、ガレーから降りた船乗りが酒場や宿場で羽を伸ばしたりしているのが見られる。
二筋の通りに加えて、海沿いの遊歩道、そして港の合流する噴水広場が、人の集まる場となるのは自然な事だろう。
広場の半分を占める市では、工房や畑で作られた地産品と、漁に出た男たちが採ってきた海産物、そして定期船で運ばれてきた品が日替わりで売られる。
「リカルドにはもう会ったか?」
市場でテントの準備をするシモンに声を掛けてきたのは、ホセだった。明るい茶色の髪と瞳をした精悍な青年で、いつも白い歯を見せ、口角を上げて話す。
町の代表を務める父エウリーコの下、二十五という若さで市場のまとめ役を担っており、シモンにとっては兄のような存在だ。
「もちろん会ったよ。さっきも僕のことを女と間違えて、ベランダから誘ってきた」
シモンはぶっきらぼうに答えた。
先ほど〈ピアティカ〉の屋上のベランダで、手すりに肘を乗せたリカルドなる男が、見下ろしてきた姿が思い出される。
「酒瓶片手に口笛なんて吹いてさ」
放蕩息子リカルドの帰郷から一週間が経つ。シモンが初めて会ったのは先週の木曜日だった。
その間に、若い娘は皆、彼の虜になった。
リカルドという男は、勤勉な父マルティンや弟アントニオとも、他の陽気で粗野な船乗りとも違う。昼日中から町をぶら付き、女と見るや誰彼構わず、あの流し見るような目付きと甘い声で誘うのだ。
ガラノス中の誰とも異なる、洗練された色気と香りをまとった彼の誘いを断る娘はいない。
シモンがその姿を目にする度、彼は違う相手を隣に連れて歩いていた。二人きりになれる場所に誘い込んでいるのか、はたまた誘いに乗っているのか。
そんな様子を見て、他の者はどう思うだろう。
町の中年や年寄りには彼の名を知らない者はいないが、わざわざ彼の名を口にする者もいなかった。古馴染みのマルティンとセラフィナの苦労を思っているに違いない。
ホセはシモンの脇を肘で突つき、大きな噴水の方を指した。
人の輪の中心に、噂のリカルドの姿がある。噴水の縁に腰掛け、ギターに似た楽器を爪弾いていた。両隣には若い娘が座り、手つきではなく、整った顔をうっとりと見上げているようだ。
「あいつは、何をするのも早すぎるんだ」
ホセが言ったのを聞き、シモンは呆れてしまった。
「本当に、いつ見ても女の人と一緒だ。そのうちガラノスには子供が増えるかもしれない。オレンジ蹴りでチーム戦ができるくらいにね」
もちろんリカルドに聞こえているのでもなければ、彼の行動が改まるわけでもないが、言わずにはおれなかった。
それを聞いたホセが声を上げて笑う。
「そんなことが言えるようになったのか! ちょっと前までマンチャに引きずられるようなおちびさんだったのに!」
感心して、背中を叩いてくる。シモンは体を折って衝撃に耐え、片目を閉じたまま唇を尖らせた。
「あんなのと兄弟だなんて、アントニオも大変だよ!」
「アントニオがどうかした?」
突然の声に振り向くと、噂のアントニオが立っていた。まるまると膨らんだ給仕服姿で、両手に抱えるように布袋を持っている。急ぎの買い物に出てきたらしい。
ホセを兄と呼ぶなら、アントニオはシモンにとって歳の近い兄弟といったところだ。もちろん農場で暮らす二人の少年のことも実の兄弟のように想っているが、彼らはシモンより年下で、少なくとも弟である。
「リカルドの噂さ。実の弟として、トニーはどう思う?」
ホセが白い歯を見せた笑顔で聞くが、愛称で呼ばれたアントニオの表情が曇った。
「正直言って、兄弟だなんて思ってないね。あの人が出ていった頃、ぼくはまだ十の子供だったし、思い出もない」
「顔も似てない」
シモンが同調する。アントニオの容姿が多くの異性の興味を引くものでないのは、彼とよく似たマルティンを見れば分かる。
「確かに、向こうはモテモテだもんね。気に食わないけど」
アントニオが不快そうに言ったもので、シモンはこっそりと安心をした。
リカルドが彼女らの注目を独占したせいで面白くないのは、シモンもアントニオも同じだったようだ。若い男であれば当然だろう。
とは言え、リュートを弾くリカルドの演奏に聴き入っているのは、未婚の娘ばかりではない。耳馴染みのない、高尚かつどこか儚げな音色は、老若男女を問わず魅了している。
この嫉妬がやがて、異国の雰囲気をまとった彼への羨望を経て、憧れに変わるのではないか。すでに何名かの若者は、リカルドをまるで〈王〉のように持ち上げるようになっている。意地を張ったがためにそこに取り残されてしまう不安も、シモンにはあった。
若者の代表的立場であるホセも、妻のソフィーと築いた信頼関係のお陰か、リカルドのことを悪く思っていないのが伝わってくるのだ。
「もうすぐ叔父さんになったりしてね。それも一気に、何人も」
シモンが茶化すと、アントニオは赤らんだ顔をますます赤くして首を振った。
「冗談じゃないよ! 小さな子供は好きだけど、急に家族が増えるなんて! 結婚もしてないのに、そんな……」
「落ち着けって。シモン、こういう話でトニーをからかうんじゃない」
割って入ったホセはアントニオを宥め、シモンには釘を刺した。アントニオが積極的に自身をアピールできないほど生真面目で純心なのを、皆よく知っている。
さらにホセは若い二人の肩を叩き、元気付けようとする。
「今のうちだけさ。この町の人間は珍しい物好きなんだから。オレたちは、自分にできる事をしてればいい」
突き出した半島の付け根は山に阻まれており、陸に囲まれた内海では不安定な風が帆船の進入を拒む。良く言えば安全な、悪く言えば変化や発展とはかけ離れた町である。少ない人口とは言え限られた土地と技術ではすべてを自給する事ができず、貿易に頼らざるを得ないのが現状だ。
その中で新しい船が現れれば物珍しさに集まるが、ひと月も経てばそれもすっかりと馴染んで、また平穏な日常の一部となる。それを繰り返して、生活を、ひいては人生を営んでいる。
「フン、どうかな。女の人がこの仕事ぶりを見ていてくれるように祈るよ」
アントニオは丸い頬をより膨らませて言った。
オレンジソースのついた給仕服は腹の部分がせり出している。見た目も、働きぶりも、人との接し方も、血の繋がった兄弟でありながら見事なまでに真逆だ。
ただし、若い頃には町を訪れた船乗りが列をなして求婚したと言われるセラフィナを射止めたのは、当時のオーナーの息子であり見習いコックだったマルティンの、誠実な働きぶりだったという話もある。
そうして生まれたアントニオは何かを思い出し、
「もう行かなくちゃ。お客さんがお腹を空かせて待ってるんだから!」
言うが早いか、両手の荷物を抱え直して、重そうに駆け出した。
彼は、マルティンに言われたことを忠実に守っている。仕事ぶりだけではなく、リカルドへの思いまで受け継いでいるようだ。
「僕やトニーやホセみたいに、まじめな働き者の方が長く好かれるのさ。だよね? “お父さん”」
シモンはホセに呼びかけた。家で待つソフィーは、二ヶ月後に出産を控えている。
急ぎ足で〈ピアティカ〉に戻るアントニオの背中を見送ってから、ホセはまた広場へ目をやっていた。
「それにしても、ずいぶん良い男になった。若い娘が夢中になるのも分かる」
それを聞いたシモンは驚いて聞き返す。
「ホセは、町にいた頃のリカルドを知っているの?」
「ああ、一番の親友だったつもりだ。向こうが忘れてなきゃな」
「あんなのと友達なんて……」
そこまで言いかけ、シモンは慌てて口を閉じた。
ホセは友を貶した弟分を叱る事もなく、よりいっそう笑った。