XI 藁のベッド
顔を離しても、リカルドはまっすぐにシモンを見ていた。
「俺の可愛いシモン、真実を教えてやる。引き裂かれる前の人間には三つの種類がいたんだ。男と女、女と女、それから男と男だ」
シモンは茫然として、青い目で見返す。
友愛の結晶として子を成せない体を持つ者同士に産まれたのは、偶然に過ぎないと言うのだ。
「知らない者が多いだけで、おかしくなんてねぇんだよ」
リカルドの言うことはすべて正しく思え、シモンは鞭で打たれる少年に思いを馳せずにいられなかった。彼らは、無知によって殺された事になる。
「でも、それなら僕たちはどうすればいいの? 皆のように一緒にいられないし、子供だって……それどころかまた引き裂かれるなんて」
「どうする必要もねぇ。お前自身がどうしたいか、だ」
シモンは答える事ができない。ガラノスの女たちと同様、これまでそんなことを考えた試しがなかったからだ。
「……僕、分からないよ。自分が、どうしたいのか」
リカルドの助けを借りて、自問自答する時間など与えられていない。
彼の役目は気付きを与えるまでだ。そして、この薄く白い胸に苦しさを植え付け、今にも去って行こうとしている。
「俺と一緒に船に乗るか?」
それは、思ってもみなかった誘いだった。
リカルドとともに〈エンポリアー号〉に乗り、この町を離れようと言うのだ。ひとつに戻ったオレンジとして、二人で一緒に未知の世界を見て回ろうと。
海図を見た事もない少年に、その先に何が待ち受けているのかは計り知れない。想像を絶するような体験ばかりだろう。
老いたララジャ夫妻や娘夫婦、夢を抱えながら自力では動く事もできない弟たちの顔が浮かぶ。彼らを支え、彼らのために生きる事が、果たして本望なのか。
シモンは、肯定も否定もできず、項垂れていた。
そしてリカルドには、初めからそれが分かっていたようだ。
「何にでも頷くイエスマンなんて言ったが、重要な事は分かってるらしいな。俺もお前も、それを望んじゃいない。おちびさんには、ここでやるべき事があるはずだ」
「……何をしろって言うの?」
「これから見つけるんだ。その頃には航路も安定的に拓けて、今よりもっと多くの可能性が広がってる。例えば、世界一のオレンジ売りになるってのはどうだ?」
たとえ〈王〉からの提案でも、たとえ命令であっても、〈下働き〉のシモンは素直に従えそうにない。
「その時には……もうあなたはいないんでしょう」
少年の中に今あるのは、目の前の男が去ろうとしているという焦燥だけだ。
「ねえ、リコ。もう、この町に戻っては来ない? 愛するガラノスが発展した未来を、見たくないの?」
リカルドはシモンの細い肩に手を添え、目を見て真摯に答える。
「確かにこの町を愛してる。だが、これから俺は歳を取る。今は新しくて珍しくても、いずれ古い存在になっていくんだ。おちびさんとは違ってな」
彼の言い分は、相変わらずシモンには半分も理解できない。ただ、“イエス”の返事であるのだけが分かったのだ。
「それに、俺自身も新しい物を追いかけていたい。行った事のない場所に行って、死ぬまでにひとつでも新しい物事を知りたいんだ。そのために、引き返してる時間はねぇ」
彼の好奇心は、留まる事さえまだ知らない。それを抑えろと言うのは、彼から人生を奪うのと同義だ。
のような髪を貿易風になびかせ、遙かなる海を越えて、どこまでも目新しい物を追いかけ続ける。
そうして得た知見を故郷に届けたのも、自身の目的のためだ。
リュートや、ウォトカや、クロンプを持ち込み、ガラノスの人々を喜ばせたのは、そのついでに過ぎない。真の狙いは、眠っていた彼らの才能を目覚めさせ、町を豊かにする事だった。
それが達成に向けて動き出した今、もう故郷に未練など持っていられない。
頭では理解していても、まだ受け入れられないシモンは、贈られたクロンプを悲しげな表情で振り返った。
「靴だって、ふたつでひとつなのに……」
「右足だけでも幸せを運ぶ事はできる。もしお望みなら、俺はこの左足だろうと置いていくぜ。旅の途中で失ったっておかしくないんだからな」
リカルドはみずからの片足に触れ、力強く宣言した。
堪らなくなったシモンはリカルドの体に腕を回し、胸に顔を埋めた。ムスクの匂いを、胸がいっぱいになるまで吸い込む。
町に流通するのがいつになるかも知らない、めまいがするほど高価で強烈なこの香りを、いつまでも忘れずにおけるように。
「……つまり、今夜が最後ってこと?」
くぐもった声で訴える背中に手を添えたリカルドは、窓の外に視線を移した。
丘の上の屋根裏部屋から見える夜空は、〈ピアティカ〉の屋上から見るより近く、澄んでいる。その中で、ちょうど、星屑のひとつが流れて消えた。
「何が起こるかは、誰にも分からねぇんだ。男なら、守れない約束はしない方がいい」
その言葉はシモンに、彼の体に残るいくつもの傷跡を思い出させる。
次の瞬間、浅黒い肌とそれに包まれた筋肉が割れ、ワインのような血が流れ出すのが見えた。シャツとベスト越しにでも、痛みまで伝わってくる。
鞭で打たれた少年に抱いたのが同情であるなら、この感覚は共鳴とでも言おうか。
「この町にいれば、簡単に死ぬ事はないんでしょう……」
シモンは恐怖を覚えて言った。言わずには居られなかった。
リカルドは、やはり不敵な笑みを浮かべる。
「生まれ故郷と違う場所で死ぬのは、そこまで自分の力で行ったって事だぜ? それなら俺は本望だ」
荒れ狂う海に投げ出されようと、劣悪な環境で病に冒されようと、未開の地で獰猛な獣に襲われようと、承知の上だと言うのだ。
姿勢を起こし、リカルドの眼をしっかりと見つめるシモン。緑色の宝石が、外から射し込む月の光を取り込んで溶かしたように光っていた。
「僕、死ななかったよ、リコ……あなたと寝ても」
リカルドはシモンの意図を察したらしい。途端に、男らしく端正な顔が妖艶な表情に変わる。
「まさか藁のベッドに誘われる日が来るとはな」
華奢な体を藁のベッドの上に押し倒し、覆いかぶさって言った。口角が上がるのも抑えられない様子だ。
「あなたの部屋も倉庫みたいだった」
シモンも堪らず笑い、体をねじって服を脱ごうとする。
だが、それをリカルドの手が制した。
「悪いが、今夜はここまでだ。俺は町に戻る」
確かに大きな宝石のついた指輪を着けたままでいるところを見ても、その気はないらしい。そればかりか、姿勢を起こし、そそくさと服を整えてしまう。
「どうして?」
上裸になったシモンは片肘を突いて起き上がり、尋ねた。
すでに背を向け、木戸を引き上げようとまでしていたリカルドが、振り向かず答える。
「ここで寝たら……また俺を避けるだろ、シモン?」
それは小さく、寂しげで、どこか咎めるような調子もあった。
シモンはぽかんとしてその背中を見た。
彼は、拗ねているのだ。まるで子供のように、思うようにならなかったと訴えている。
それに気付いた途端、胸が締め付けられる思いがした。世界を股に掛け、何もかもを欲しいままにしたはずのこの男が、自分を求めるのを躊躇っている。
「ごめんなさい。僕、どうしたらいいか……」
セラフィナと出くわした朝の情景が浮かぶ。
可愛い息子が下働きの少年と裸で寝ていても、気にする素振りすら見せなかった。
リカルドとシモンが、友人とは違った関係であるなどと、誰一人として思いもしないだろう。リカルドから聞くまで、シモン自身もその存在すら知らなかった。
少し歳をとり、まだ孫のいないセラフィナを前に、彼女の愛する息子と、子供の出来ない、繁栄とは無縁の肉体関係を結んだ事が後ろめたかったのだ。
かと言って、それを説明するのは、リカルドにも悪い気がした。
秘められた関係を悔いていると伝わってしまいかねないからだ。それで、シモンはリカルドを避けてしまった。
すると、今度は向き直ったリカルドの方から腕を回してきた。服をベッドに残し、起き上がらせるように、抱き上げられる。
濃密なムスクの香りと、忘れようとも忘れられなかった、筋肉の感触だ。ネックレスやブレスレットが肌に食い込むほどしっかりと抱き締められていた。
「出航の時は見送りに来てほしいんだ。もう時間がない。こうして仲直りしたのに、また避けられるなんて……堪ったもんじゃねぇ」
懇願してくる声は、あまりに甘く、切ない。
好き勝手にふるまっていると見えるが、すべては計算の上、このガラノスを想ってのこと。その実、彼には本心を口にする機会など与えられていないのだ。
シモンはようやくそれを理解すると同時に、リカルドがどれほど自分を求めているかを、肌をもって感じ取った。
「約束してくれるだろう? ほら、イエスと」
母親の心など、息子は気にしていない。それほど強い情を向けられたのは、シモンの人生において初めてだった。
当然のように“イエス”と答えそうになったシモンの中に、ある思いが湧く。
「……悪いけど、見送りには行けない」
それは、自分に正直になれという、彼の提案を受けた結果だった。
「僕は、リコが海に出る事が気に食わないんだもの。ここで寝ても、寝なくても、きっとあなたを避けてしまう……それが僕のやりたい事だよ」
これで、〈放蕩息子〉の気が変わるなどとは目論んでいない。ただ、シモンの口から語られた、シモンの本心だった。
リカルドは驚いて顔を上げ、体を離した。明らかに動揺し、シモンの顔を見る瞳が左右に揺れている。
その心を映し出すように、月の下に雲がかかり、屋根裏部屋はほとんど真っ暗になった。裏手の木々を揺らす風の音や、近くを流れる川のせせらぎさえも聞こえない。
世界中の時がぴたりと止まってしまったように錯覚するほどの間、シモンは唇を引き結んで返答を待った。
どれほどの時が経ったか。
リカルドが眉根を寄せて、詰めていた息を吐いた。
「……この俺に解決できない問題を突き付けたのは、お前が初めてだよ」
「ごめんなさい。困らせて……」
シモンがまた謝り、リカルドは小さく首を振る。
「謝る必要はねぇさ。俺とお前の選んだ道だ」
雲が切れ、月の光が柔らかく射し込んで、二人を包むように照らしていた。
リカルドはシモンの手を取り、シャツの合わせ目から差し入れ、自分の体に触れさせる。
「ただ、どのみち嫌われるなら、話は別だ。最後にもう一度だけ、ひとつに戻ろう。俺の体を憶えておくんだ」
「嫌いじゃない! 嫌いなのは、あなたを応援できない僕自身だよ。それなのに、こんな僕が、半分のオレンジだなんて……」
シモンは手を引っ込めようとしたが、逃がすまいと押さえ付けられる。熱い肉体の内側で、鼓動が早くなっているのが感じ取れるほどだった。
見上げると、緑色の目は燃えるような輝きを放ち、顔を覗き込んでくる。吐息が触れ合い、混じるほどの距離だ。
「俺のことを愛してるな? シモン」
「も、もちろんだよ。どうして今さら……」
決まりきった事を確認され、シモンは却って戸惑ってしまう。
しかしリカルドは満足げに笑うと、〈半身〉を二本の腕に抱き竦め、セレナーデを唄うように甘い声で続けた。
「それなら、お前自身を愛してるのと同じだ。俺たちは、二人でひとつのオレンジだからな」