Ⅹ 屋根裏部屋
屋根裏部屋で眠りについていたシモンは、扉の開いたのが聞こえて目を覚ました。少年たちを住まわせるために古い納屋を改装して作ったこの離れの、外に繋がる扉は、蝶番がキーキーと嫌な音を立てるのだ。
階下につながる木戸は普段から開けたままにしており、梯子を下りた先にはタシトとイニゴがいる。彼らは先ほど戻ってきて、何やら興奮した様子で、くすくす笑ったり足音を立てたりしていたが、すっかり寝静まっている。
どのくらい眠ったのか、シモンは分からなくなっていた。
「シモン」
そう呼ぶ声が聞こえた。
聞き間違いだろうか。よく知っている甘い声が、シモンを呼んでいる。
「起きてるんだろう、イエスと言えよ」
声の主が梯子を昇ってくるのが分かった。吹き込んでくる夜風は少しだけひんやりとした中に、情熱的なムスクの香りを乗せている。
シモンは体を起こし、木戸から覗いてくる相手と向き合うしかない。
「ハイ、リカルド」
窓から射し込む月明かりに照らされた、仄暗い屋根裏部屋には不釣り合いな、豪勢な男が現れる。夜空の星を集めて縫い付けたか、彼自身が輝きを放っているようだ。
「僕はずっと眠ってたよ。あなたが僕の兄弟や、おじさんと楽しく話している間ね」
「──教えたはずだぜ?」
リカルドは金のネックレスと革のブレスレットをじゃらじゃら鳴らしながら、天井裏に身を乗り出してきた。
シモンは思い出し、照れくさくなった。視線を外して応じる。
「……リコ」
特別な名を呼ぶと、リカルドは少しばかり安心したような笑みを浮かべ、部屋へ上がり込んできた。
「ここは良い所だな。特に西側は、町から水平線まで一気に見渡せる素晴らしい眺めだ。弟たちが案内してくれた」
「そうかな、僕たちはもう見慣れちゃった」
起き上がらずに答えるシモン。
リカルドは外の見える窓に寄りかかるように座った。
「そんなお前にも目新しい物を持って来たんだ。あの日、何が気に食わなかったか知らねぇが……町を出る前に渡しておきたかった。きっと役に立つ」
背負ってきた布袋はひしゃげているが、まだ中に何か残してあるらしい。何やら取り出そうとしている。
「気に食わなかっただなんて……」
シモンはようやくベッドから這い出し、そばへ寄りながら、言い訳をしようとした。
窓辺に並んで座ると、日に焼けた彫りの深い顔立ちが、よりいっそう良く見える。
「その白くて綺麗な足が傷だらけなのが気になってな。オレンジを蹴る時はいつも裸足だったし、サンダルも大きさが合ってねぇ上に、傷みすぎだ」
シモンが咄嗟に引っ込めそうになった足を、リカルドは片手でしっかりと捕まえてきた。
「マンチャだって藁の上で蹄を休めるんだろう。人間にはもっと丈夫にできた蹄がいる」
袋から出てきたのは、一足の木靴だった。
捕まえている右足にみずからの手で履かせると、足首を回させて、様々な角度から目利きをするように眺める。
「これは海抜の低い湿地帯で作られたんだ。農業向きで、牛や馬に踏まれても壊れねぇ。町の靴屋も興味を持ったから、合わなくなったらまた作らせればいい」
木をくり抜いて作られたクロンプはシモンの足にぴったりと嵌る大きさで、動きやすいよう余計な装飾はなく、甲の部分には植物の蔓を思わせる模様が刻まれている。
目利きでなくとも、価値のある物だと分かった。
予想もしていなかった出来事に、シモンは驚きを隠せない。
「……まだ夢を見ているみたい。ううん、夢でもこんなに幸せだったためしはないよ」
うっとりとして言うと、リカルドも満足げに微笑む。
「ある国のやつらに言わせれば、右足の靴は幸せの象徴だ。良い靴を履けば、良い場所へ連れて行ってくれるらしい」
そう言って、足の甲に軽く口付けてから、そっと床へ下ろさせた。
「イニゴは靴職人になるのが夢なんだってな。他のやつより歩く事への興味が強いし、座り仕事なら農場よりやり易いはずだぜ」
何気ない風だったが、シモンに聞き流せるはずもない。
「何だって?」
「タシトは外国語の読み書きができるようになって、翻訳者になりたいと。学べる場所に連れて行ってやれば、教えられる人間がいる」
木戸のほうに目をやるシモン。
「あの二人、そんなことは一言も……」
「聞いてもらおうとも思ってねぇさ。ここに置かれてるのは感謝してる。けど、本当にやるべき事とは違ったみたいだな」
向けられたリカルドの目が、自分に何を期待しているのか、シモンには分かった。
「イニゴは確かに手先が器用だ。杖の飾りだって自分で彫ったんだから見事なもんだ。タシトは、オラシオの本を全部読んだらしい。どっちも、売れずに残る形の悪いオレンジじゃねぇだろ?」
「そうだね……」
ここに暮らす少年の長男として、二人の才能を潰さぬよう導けと。そう求めているのだ。
「おちびさんは、この町の未来そのものだ。三人とも、立派な男になるだろう。ブドウのおちびさんは、いずれ良い母親になる」
シモンはクロンプを脱ぐと、左右一式を丁寧に揃えて脇に置き、膝を抱えた。傷んだサンダルは、ベッドに入る前に無造作に脱ぎ捨てられている。
「皆があなたを慕う気持ちが分かる。僕だってそうだもの」
「それは何よりだ。仲直りだな」
リカルドは先程よりさらに安堵したように、そればかりか嬉しそうに言った。だが、続くシモンの言葉に、その笑みは消えてしまう。
「──だから、あなたが町を出るのは賛成できない」
贈り物への感謝も忘れ、ややきつい口調で宣言してしまった。皆が慕うように彼を慕い、皆がそうであるように彼を失いたくないのだ。
珍しく困ったように眉根を寄せ、自身の首に手をやるリカルド。
「これ以上、俺に何を残して行けってんだ? この首か?」
「さあね。その、子供とか……」
少年の大胆な提案に、リカルドは声を立てて笑い出した。階下の二人が驚いて起きてしまうのではないかと思うほど大きな声だ。
「はっはっはっはっ!」
上を向いて肩を揺らし、太く響く声で快活に笑う様子は、マルティンとそっくりだった。
気の済むまで笑った後、リカルドは膝に手を置いて言った。
「なあ、可愛いおちびさん。あいにくだが子供ってのは、男と女の間にしか出来ねぇんだよ」
シモンはむきになって応じた。
「そんなの分かってる! でも、僕たちはひとつのオレンジなんでしょう? どうして僕とリコだけは、二人とも男なの?」
「元はと言えば同じオレンジだったんだぜ。男と男に分かれた事の、何がおかしいんだ?」
聞き返され、シモンは分からなくなってしまった。周りには、男女で片割れを見つけ合ったらしい夫婦しかいないからだ。
俯いてしまった〈片割れ〉を諭すリカルド。
「オレンジは結婚の象徴だけじゃなく、不義の果実だとも話しただろ。必ずしも祝福されて、一緒にいられる相手とは限らねぇって事だ」
「そうだね。同じ形なのに、僕と違って、あなたは……町中の女の人と“ぴったり合って”いたんだもの」
シモンは恨めしげに言い返した。自分を片割れと呼ぶくせに、人目を引くふるまいをしては、人目を憚る行動ばかりしていたのは事実だからだ。
「俺が女たちに何をしたって? 知ってるのか?」
リカルドが悪びれる様子もなく尋ねたもので、つい口を尖らせてしまう。
「知らないよ、人目に付かない場所で何をしてたかなんて。僕には知られない方が、都合がいいんじゃない」
「ああ、自分の夫にも言えねぇような話だからな。言っても分からねぇだろう。今でこそ妻や娘の才能に気付いて、認めた男も多いが」
「いったい何の話を──」
そこで、シモンはようやく合点がいった。
「──話を、したの? それだけ?」
「女だからって、ただ家にいて、男の帰りを待ちながら子供を育てるだけなんて損だと思わねぇか?」
リカルドは立てた膝に頬杖を突いて聞き返すだけだ。あらぬ疑いをかけられようとも、涼しい顔をしていた。
町の女たちが意気揚々と働くようになったのは、リカルドと二人きりで、話をしたからだ。
誰にも邪魔される心配のない空間で、自分の望みと素直に向き合った試しが、彼女らにあっただろうか。いいや、この小さな町には、そんな発想をする者すらいなかったはずだ。
言葉や肌を交わす機会があっても、寄港先の住民の暮らし向きにまで干渉しようとする船乗りはいない。
一方で、〈放蕩息子〉と呼ばれた彼が海の向こうから持ってきたのは、物や技術に限らない。考え方や役目の作り方まで、惜しみなく与えていた。
彼女らは役目を見つけ、やり甲斐を感じ、家族だけでなく町のためにみずからの力を活かす喜びを教わったのだ。
「ピアティカの仕事がよく回るのはお袋のお陰だ。親父はそれを知ってるくせに、その知恵を周りに教えようともしねぇ」
そう語る彼は、このガラノスを愛している。その発展のために、新しい航路だけでなく、そこに住まう人々の、人生という道まで切り拓かせようとしているだけなのだ。
「ごめんなさい。僕はずっと、あなたを誤解して……」
「構わねぇさ。そう思われるようにしたのは俺だ。その通りに思ったなら、俺を理解してるって事だろ?」
責めるつもりもないと言う風で、笑みを浮かべて見せるリカルド。
「俺のことを、よく見ていたんだな」
「いつ見ても女の人と一緒なのをね」
華奢なシモンは膝を小さく動かして、その大きな懐に入るよう躙り寄る。
「明るい時間にそうなるのは仕方なかったんだ。男は酒場に集まるし、暗い時間の方が話しやすい。心当たりがあるだろう?」
レストランの屋上で、星を見ながら話した時のことを言っているらしい。誰も知らない、リカルドの秘めた思いを知った夜だ。
あの時と同じ、長い髪に星の光を受けたリカルドは穏やかに続ける。
「俺にも、お前にしかしていない話が沢山ある。お前だから言えたんだ」
「ホセにも、話してないの?」
「あいつは俺の目的なんてお見通しだ。話すまでもねぇだろう。港の工事や町はずれの開拓も、提案したのは俺だが、エウリーコに進言したのはホセだからな」
シモンは思わず溜息をつき、肩を落とした。
「うらやましいよ。僕はホセみたいに賢くないし、気も付かないし、あなたの言うことについて行けない。一番の親友でもないしね」
街角でも、酒場でも、仲睦まじく話している姿を見ていた。二人の間には、何者も入り込めない繋がりを感じたのだ。
それを聞いたリカルドが、不意に笑みを消す。
「なあ、シモン。俺たちは同じなんだぜ。二人きりでいるのに、相手があんまり別の男の名前を出したらどう思う? 俺もあいつに嫉妬しそうだ」
「嫉妬するの? 王様が? まさか!」
驚き、聞き返すシモン。
堂々とした〈王〉なら、その気になれば、いやその気にならずともすべてを手にするだろう。嫉妬や羨望などという感情は無縁なはずだ。その標的になる事はあっても。
しかし彼には、冗談を言っている様子など一切ない。
「ずっとお前のそばに居られるあいつのことが、羨ましくないわけないだろう。親友も妻子もいる上に、こんなに可愛い弟が慕ってるなんて、俺よりよっぽど贅沢者だ」
リカルドはいつものようにシモンの頭を撫でてから、いつもとは違ってまだあどけない曲線の残る輪郭をなぞった。
初対面の時は少女と間違えたほどの肌と小さな唇にも、親指で触れる。
「──まあ、それも今だけだ。お前の片割れだなんて知れたら、いずれ俺は世界中から嫉妬を買う事になる。それは俺の人生で最も光栄な事だ」
そう宣言し、顎を軽く持ち上げ、引き寄せると、甘く噛むように自分の唇を寄せた。
シモンも身を硬くして受け入れる。ホセのことも、町や農場のことも、階下で眠る弟たちのことも、何もかも忘れてしまいたくなるようなキスだった。