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Ⅰ 放蕩息子


ガラノスは、地中海に突き出した半島の先にある。広い空と海に囲まれた、小さな町だ。

石灰を用いた真っ白な街並みが陽光を眩しく反射し、屋根と扉は鮮やかな青色に塗られ、玄関先や窓には色とりどりの花が飾られている。

丸石やタイルの埋め込まれた道には、サンダルの足音と活気のある話し声が絶えず響く。派手さはないが、住民は朗らかで、日常の中にささやかな幸せを見出しながら、つましく暮らしている。


そんな小さくも賑やかな町が、いつもとは違う騒がしさに包まれた。

物々しく大砲で武装した大型の商船〈エンポリアー号〉が停泊する事となったのだ。貿易のための航路をわざわざ変更し、狭い港に錨を下ろしたという。

それだけではない。そこに乗っていた人物が、この町を驚かせたのだった。


「放蕩息子のリカルドが帰ってきた」

レストラン〈ピアティカ〉のオーナー・マルティンが言った。実に十年ぶりの事である。

店を継ぐ予定だった長男リカルドは十八で船に乗って姿を消し、次男のアントニオが経営を継ぐ手筈となっていた。


オレンジ売りのシモンの耳にも、その噂は届いていた。

しかしながら、シモンはリカルドという男を詳しく知っているわけではない。

白い肌に金髪、青い眼をしたシモンが〈夕暮れのオレンジ農場〉を営むララジャ夫妻の元に売られてきたのは八歳の頃だ。それから八年の間、小麦色に日焼けしながら、老夫妻と娘夫婦、そして歳と境遇の近い少年二人と、アクロの丘にある農場でオレンジを育てている。


丘と言っても、半島の内陸とこのガラノスの町を隔てる山脈の一部だ。

そこからロバの牽く荷車にオレンジを山と積んで、週に三度、町まで売りに来るのは、シモンの役目だった。他の少年のうち、一人は口がきけず、もう一人は足が悪いからだ。


噴水広場で開かれる市に店を出すだけでなく、卸先のレストランや酒場に届けて回る。その中で、〈ピアティカ〉には長男がいるらしいと小耳に挟む程度だった。


マルティンはオーナー兼料理長として、客はもちろん、店で働く給仕係やシモンのような下働きを相手にも陽気に接する。赤く日焼けした鼻の下に赤髭を生やし、まるまると太った体を揺らして笑う、気前の良い親父だ。

そんなマルティンの機嫌を悪くする唯一の存在、それが長男リカルドだったのだ。


木曜日のシモンはいつものように〈ピアティカ〉の貯蔵部屋に入り、三日分のオレンジを卸していた。

淡い黄色をした石造りの建物の裏手、冷たい部屋に運び込まれた食材はそれぞれ、決められた場所にきちんと並んでいる。

食材の管理をするのはマルティンの妻セラフィナの担当だ。が、今日は彼女の姿がなかった。


シモンは一面の壁に掛けられたいくつもの木製の札を見る。手作りらしく、形がややまばらで、それぞれに食材の名前と簡素な絵が彫られている。

すべて裏面には青色の塗料が塗られており、食材を届けた際にそれを裏返す決まりだ。不足しそうな食材が、ひと目で把握できる仕組みだった。


シモンがそうであるように、この半島に暮らす者の半分以上は、文字の読み方を知らない。シモンにとって文字は記号でしかなく、自身の名前と、売り物であるオレンジを示す綴りだけ憶えていれば充分だった。

いつものように『オレンジ』の札を見つけて木目の見える面から青い面に裏返し、外へ出ようとした。


その時、取っ手がシモンの手をすり抜け、扉が独りでに開いて、ある人物と出くわす形になった。

顔は見えないが、背が高く、がっしりとした体つきの男だ。歳の頃は二十代後半といったところか。セラフィナとよく似た焦げ茶の髪を長く伸ばし、緩やかに編み込んでいる。


市場に来る客をはじめ、酒場で同席するのも、街角で話をするのも馴染みの顔ばかり。この町の住民は、全員と顔見知りと言っても過言ではない。

そうした日常の中に、時おり吹き込む風に乗ってやって来るのが船乗りたちだ。真っ黒に日焼けした彼らは皆、腕っぷしが強く豪快で、話すのと歌うのが上手く、また、一晩でワインの樽を空けるほどの大酒飲みばかりだった。

その一人だろうと予想はつくが、それにしては荒々しさが薄いようにも見える。


「ここで何してんだ? おちびさん」

尋ねてきたのは相手が先だった。

その声は低く、うっとりするほど甘い響きがあった。窓の下でセレナーデを歌えば、どれだけ遅い時間であっても恋人が下りてきてしまうだろう。

「おちびさん?」

問われたシモンは思わず聞き返した。宿場ではないこのレストランの貯蔵部屋に、船乗りが我が物顔で出入りするのは妙だが、そんな事も忘れてしまった。

「そうだよ、お前以外に誰がいるんだ? ここは遊ぶ場所じゃないぜ?」

彼はそう言って、開けていた扉に深く手を掛けると、大きな青い瞳を覗き込むように顔を寄せてきた。

外からの明るい光で影になっていた顔が、よく見えるようになる。


シモンは生きてきた十六年の中で、これほど見目のいい男を見た事がなかった。

輪郭や眉や顎といった骨が強く、鼻筋も通っている。そんな直線の額で縁取られた褐色のカンバスに、ひときわ印象を放つ目や唇を描き込んだようでいて、それらが見事に調和した仕上がりだ。

絵画から飛び出して来たようなその男は、やはりセラフィナと同じ、鮮やかな緑色の瞳をしていた。そう、例えるならライムの皮の色だ。

着ているシャツやベストはやや傷んでいたが、光を受けて輝くような絹布で作られており、正体を隠して船に紛れ込んだ異国の王子だと言われても、信じてしまいそうな上質さがあった。


「遊びたいってんなら、もっといい所がある」

手を伸ばしてくると、ふわりと知らない匂いがシモンの鼻を掠める。甘さの中に情熱的な野性を秘めたムスクだ。

初めて嗅ぐ強烈なそれに、シモンは背筋を伸ばして首を振った。

「おちびさんじゃない! それに、ここには仕事で来たんだ。いつも()()()にしてもらってる」

納品したばかりのオレンジの山を指すと、彼の態度は変わった。

「なんだ。そうなのか」

面白くなさそうに姿勢を起こす様子は、さながら大波が引いていくようだ。


改めて、彼は緑色の眼でシモンの姿を上から下までじろじろと見、何かを考えるように顎に手を宛てる。

「名前は?」

「シモン、オレンジ売りのシモンさ!」

シモンは努めて明るく返した。農場に来た際にララジャ夫妻から褒められた、瑞々(みずみず)しい果実のように弾ける笑顔と声が自慢だった。

麻のチュニックと膝丈ズボン、ぼろのサンダルからむき出しになった細い四肢にも、まだ少年らしさが残っている。

しかし尋ねてきた相手は、愛らしい挨拶に笑顔ひとつ返さず、

「シモン? お前、男だったのか」

と意外そうな様子で言うのだった。


見目はよく、気品もあったが、この男はどうやら礼儀を知らないらしい。性別を間違えた上に、名前を尋ねておきながら、自身は名乗る様子もない。

シモンが文句のひとつも返そうとした時、厨房に繋がる扉の向こうから声がした。

『誰かいる? 食材を運びたいの。手伝ってちょうだい』

セラフィナだった。

二人の視線は扉に向けられたが、彼はそちらを一瞥しただけで、動こうとしない。

「シモンだ。いま行くよ、セラ!」

シモンは扉の向こうに聞こえるよう、大きな声で返事をした。それを、気に食わなさそうに見てくる視線がある。

「さすがだな、シモン。何にでも頷く、“イエスマン”の名前だ」

店の方へ出ていきかけたシモンは振り返り、端正な顔を睨む。

「そういうあなたは? セニョール・“ノーマン”?」


「リカルド」

彼は落ち着いた声で短く答えた。


やはり、扉の向こうにいるセラフィナの息子らしい。この男こそが、あの噂の〈リカルド〉だったのだ。

マルティンと同じ赤毛に赤い肌をしたアントニオとは似ても似つかないが、彼の八つ上の兄にあたる。確かにレストランの関係者であれば、貯蔵部屋に出入りしていても不思議はない。

「この放蕩息子を知らねぇなんて、お前くらいだ。素直なのはいいが、あんまり物知らずだと損をするぜ?」

不名誉な肩書きを自称するだけあり、母の手伝いをするつもりはないらしい。


「ほら、とっとと行けよ。働き者のおちびさん。それともまだ俺と一緒にいたいか?」

リカルドはからかうような笑みを浮かべ、片手を振る。改めて見ると、金のピアスやネックレス、革のブレスレット、宝石のついた指輪やベルトといった装飾品が嫌味なほど目に付いた。

彼から漂う気高さは、これらの高価な宝飾によるものだったのかも知れない。そう思うと〈働き者〉のシモンは何ともいけ好かない気分がしたが、

「チャオ、リカルド」

とだけ伝えて、貯蔵部屋を後にするしかなかった。


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