両親③
お袋の居る病室へ向かう道すがら。
担当医が時折チラチラと、こちらの顔色を窺うように見てきたことには気付いていた。
他の患者も闊歩する中、あまり明け透けに語ることが出来ないのは分かるが、それにしても露骨に思える。
彼は一体、俺やお袋にとってどんな存在なのか。
何も知らない身としては、目的の場所に向かい淡々と足を進める彼の後ろを、ただ黙って付いていく他ないのだろう。
思えば、お袋と話すのも久しぶりだ。
特にこの数ヶ月は、一昨日に緊急で呼ばれたことを除けば、一度も面会に行っていない。
タイムマネジメントに関しては、そこらの社会人と比べても遜色ないと自負してはいるが、流石にバイトを3つ掛け持ちしているともなると、面会に割く時間を捻出するのも容易ではない。
……いや。
実際のところ、単純に会いづらくなったというのが正解か。
バイトの掛け持ちを知られ、泣かれてからというもの、すっかり面会へ行くのが億劫になってしまった。
お袋なりの配慮に、息子としてどう応えて良いのか、分からなくなってしまったのだと思う。
そんなことをぼつぼつと考えながら歩いていると、お袋が入る個室の前まで辿り着く。
すると担当医はおもむろに部屋の引き戸を、コツコツコツと、小刻みに叩く。
「どんぞ〜」
……明らかにお袋の声、ではなかった。
少なくとも、俺にはその声の主に心当たりがない。
その、扉越しから聞こえてくる締まりのない声に、俺のみならず担当医も眉を顰める。
「……荻原さん。予め断っておきますが、この先何を見たとしてもすぐには帰らないで下さい」
担当医は不穏な一言を残すと、フゥと息を整え、引き戸のハンドルに手を掛け、病室の中へ入る。
バクバクと、勝手気ままにペースを上げる鼓動を抑えつつ、俺は担当医の後を追った。
「およ? ん〜……、アンレェ? ねぇねぇ! あの子って、マスミンの息子くんじゃんっ!?」
病室に足を踏み入れた俺たちを出迎えたのは、部屋奥からほんのりと伝ってくる、エタノール臭だった。
その出処と思しき先客の女性は、お袋が横たわるベッドの傍らに置かれた椅子で、グッタリと溶けるようにふんぞり返り、俺たちに粘着質な視線を浴びせてくる。
かと思えば、俺を認識するなり、恐らく同年代の友人からも呼ばれたことがないであろうキャッチーなあだ名で、やたらと馴れ馴れしく、人様の母親に呼びかける。
俺が知らないだけで、本当にお袋の友達かとも一瞬思ったが、どうやらその線は薄そうだ。
胸元がはだけたオーバーサイズ気味のベージュニット。
色落ちが進み、所々白みがかった黒のワイドパンツ。
それらを覆い隠すように羽織われたヨレヨレの白衣は、遠目から見ても年季が入っているのは明らかで、定期的に洗濯しているかどうかも怪しい。
全体的にかなりルーズな印象だが、この風貌、シチュエーションから鑑みるに、腐っても医者であることに間違いはなさそうだ。
とは言え、腰の辺りまで伸びた黒髪を振り乱しながら、半ば朦朧状態で就寝中のお袋を揺らすその姿は、いわゆるエリートのソレとは程遠い。
目の前に広がる膨大な情報量に、俺はつい先ほど担当医から前置きされたことも忘れ、後退りしたくなる衝動に駆られる。
「あの……、えっと、どちら様で?」
恐る恐る聞くと、彼女は再び訝しげな目で俺を睨む。
そして、ゆっくりと一歩一歩。
再起不能と思えるまで沈み込んだローファーの踵を踏みしめながら、俺のもとに近寄ってくる。
俺の目と鼻の先まで近付くと、『んー』と唸りつつ、切れ長の目で俺の顔を覗き込む。
遠目で気付かなかったが、顔には小皺もなく、せいぜい30代前半辺りに見える。
その尊大な態度と、酒焼けした濁声を差し引いても、ベテランとまでは言えなさそうだ。
俺は彼女が発する底知れない圧に、思わず視線を逸してしまう。
すると彼女はそんな俺を見て、『ハハーン』と、わざとらしい掛け声とともに不敵に笑う。
「な・る・ほ・ど〜。するってーと、昂貴ちゃんと石橋実鷹の息子からは何も聞いていない、という理解でよろしいのかなん?」
彼女にそう言われ、俺は咄嗟に返す言葉を失った。
そんな俺を前に、彼女は『まぁ無理もないか』と小さく呟く。
「さぁて! 聞かれたからにはお答えしよう! 一つ、一重目、生き血をすすり、二つ、不埒なオペ三昧。三つ、醜い闇医者を、退治てくれよう執刀医。孤高の天才外科医、市村 鞠希様たぁ、あたいのことよ! ええい、この眉間のヒアルロン酸注射の跡が目に入らぬかっ!」
確信した。
この女の血中アルコール濃度のステージは、酩酊期より上だ。
こんなもの、チェッカーに掛けるまでもない。
むしろこれが素面であれば、同情に値する。
いずれにせよ、支離滅裂で三世代前の時代劇を雑にごった煮したかのような彼女のノリは、シニア限定の婚活パーティーであっても重宝されることはないだろう。
「……もういいでしょう、市村先生。荻原さんがお困りです。あとその文脈だと、退治される側はあなたですからね」
見かねた担当医は、すかさず市村さんを諌める。
「えー! そーんなことないんじゃないの〜? キミ、大学生だったよね? そんでもってあたしは何? 女医だよ、女医! 脳内真っピンク盛りの大学生×天も羨む美人女医、加えてこの密室……、そこから導き出される答えは一つ! そう! 濃っ厚なドスケベ展開しかないのです! キミだって、薄々期待してんじゃないの〜? こんのエロガキがっ!」
訂正する。
この女の血中アルコール濃度のステージは、既に泥酔期に近付きつつある。
場合によっては、医療措置が必要な段階だ。
今この場に、プロの内科医がいることは不幸中の幸いなのかもしれない。
それにしても、この飄々とした雰囲気。
どこか、新井の母親に近いものを感じないでもない。
「……何が悲しくて、病気で寝込んでる母親の前でそんなエロ展開繰り広げなきゃなんねーんだよ。地獄絵図にも程があんだろ」
「おっ! 中々、シブい返しだね。はは! 確かにそれもそっか! そーんなことよりキミ! あたしに何か聞きたいことがあるのではないかね?」
先程来からの俺の疑問を嗅ぎ取っていたのか。
市村さんは得意げな笑みを浮かべ、俺に質問を促してくる。
俺は諦めるように溜息を吐きつつ、彼女の思惑に従った。
「……昂貴と石橋の整形を担当した闇医者ってのは、あんたですか?」
俺がそう聞くと、市村さんはただでさえアルコール摂取により弛み切った表情を、一層緩ませる。
「ソッチが先かぁ〜。まぁ、話の流れ的にはそうだよね! おうよ! 昂貴ちゃんと石橋実鷹の息子をイジってやったのは、あたしさ! でも闇医者ってのは心外だなぁ〜。単純に医師免許剥奪されて、今は持ってないってだけだし!」
「ソレを世間一般では闇医者と言うんですがね……。しかも剥奪って」
「ち、違うんだっ! コレには、トンガ海溝よりも深〜い事情があってだねっ!」
市村さんは両手を振る大げさなジェスチェーで、必死に弁明しようとする。
本来であれば、つま先から頭の天辺まで胡散臭いこの女と、こうして長話をすること自体、命取りでしかないのだろう。
だがもし、市村さんの言うことが事実であり、なおかつこの担当医との面識も加味するならば、今彼女がこの場に居ることも何かしら理由があるに違いない。
……とは言え、だ。
たとえ、特段の事情があったとして、彼女を手放しで信用出来るかと言えば、答えはNOだ。
そもそもこちらとしては、この担当医のことすら疑っている。
彼女が信ずるに足る人物なのか、もう少し様子を見る必要がありそうだ。
「……敢えて『マリアナ海溝』と言わない辺り、一番肝心なことは話すつもりはないってことですかね。流石! 熟練の闇医者だけあって、リスク管理は徹底されているようで」
「そのヒネくれた視点は嫌いじゃないけど、それはただの言葉の綾ってヤツさ! まぁ何はともあれ、聞いてくれたまえ! アレはあたしが医学部を卒業して、研修医としてとある総合病院に配属された、一年目のことだった……」
「一年目って……。つーことは、キャリアの大半無免許じゃねぇか。一体、何したんすか……」
「なぁに、簡単なコトだよ。偶々、その日は泊まり込みの当直だったんだけどね。夜中に急患が運ばれてきたんだ」
「急患、ですか」
「そ! まぁ、そんでさ! その患者さんは虫垂炎だったんだけどね。看護師さんは『簡単だ』って言うけど、言うてあたしそん時、タダの研修医じゃん? 未熟だったんだよね、色々と。それであたしは……」
市村さんはそこまで言うと、急に何かに目覚めるように部屋奥の窓際に向かって歩き出す。
おぼつかない足取りで辿り着くと、額縁に掴まり、どこか遠い目で外の景色を眺め始める。
医療ミス、か。
もしくは、いざ手術台に立ち、パニックに陥ったか。
いずれにせよ、今の彼女からは考えられないが、当時の失敗が尾を引いた結果、と考えれば話の流れとしては理解できる。
しかし、急にうつむき加減で何を話すかと思えば……。
『天才』などと称してはいたが、彼女は彼女で一人の人間だったということか。
「……無事に手術を終えたあたしは、翌朝の帰り道で検問に引っかかり、見事酒気帯びでとっ捕まりましたとさ!」
「いや、あの……、時間返してくれませんかね? コッチは、アンタと違って暇じゃねぇんだよ」
沸々と湧き上がってくる怒りを押し殺し、俺は静かに抗議する。
「え〜! 酷くないっ!? 影で待ち伏せてしてやがったんだよ!? まぁ早朝で油断してたあたしも悪いんだけどさ! それにしても露骨過ぎでしょ!? チクショー! あのマッポ、今でも顔と名前、覚えてるからなっ!」
市村さんは悔しそうに地団駄を踏みながら、一端の被害者しぐさで不満を顕にする。
これだけ話せば話すほど不信感が募るのも、また逆に新鮮だ。
「まぁ確かに……。百歩譲って、やったことはアレですけど、ソレ一発で医師免許までってのは、中々世知辛いっすね」
「ん? 違うよ? たぶんその後、免停中にもっかい飲酒で捕まって、検問の警官ブン殴って実刑食らったからじゃないかな?」
どうやら俺は、彼女のゴロツキ度合いを甘く見ていたようだ。
本能的に危険を察知した俺は、彼女の白衣の襟首を掴み、担当医に目配せする。
「……えっと、先生。この不審人物を出禁にしようと思うのですが、諸々の手続きはどこで済ませればよろしいでしょうか? ていうか警察が先ですか?」
「ちょっ!? 息子くん!? 出会い頭にソレはなくないっ!?」
「うるせぇっ! アンタがどういうつもりかは知らんけどな! このままお袋と同じ空間に置いて良い存在じゃねぇってことは確かだっ!」
「いや、ダメだって! あとね! 言っておくけど、あたしを追い出したら、キミ、ゼッタイ後悔するよっ!?」
「知るかっ! アンタをこのまま野放しにする以上のリスクって何だ!? 言ってみろ! あんっ!?」
俺は手元で身体をばたつかせる彼女を力ずくでねじ伏せ、病室の出口に連行する。
そんな俺を制すように、担当医は俺の肩に静かに手を置いてくる。
「荻原さん。お気持ちは察するに余り有るところですが、その辺りで……。彼女は、荻原さんのお母様の身元引受人になっていただいた方です」
彼にそう言われた時、彼女を掴む俺の力は自然と緩まった。
拘束から解かれた彼女は、軟体動物のようにするすると俺の手元から抜け出すと、乱れた白衣を正し、申し訳程度に身なりを整える。
そして気を取り直してと言わんばかりに、俺に笑い掛けてくる。
その、彼女の得意げな笑みを見た時、収まりかけた怒りが再び顔を覗かせたのは言うまでもない。




