石橋①
「クーデター、か……。まさか、そこまで話が大きくなっていたとは思わなかったよ」
大前提として、一つ。
石橋は今でも、『不幸』を引き摺っている。
あの日、石橋が去り際に見せた憔悴し切った後ろ姿を思えば、それは間違いないのだろう。
しかし現実は、俺が予想していたものとは、少し違っていた。
電話越しの石橋の声色は、俺の懸念を嘲笑うかのように気色良く、平常運転だった。
そればかりか、この夜更けに縁もゆかりもない、寂れた弁護士事務所に来いなどという荒唐無稽な要求にも二つ返事で応えてくれ、こうして久方ぶりに顔を合わすに至っている。
この間、多少なりとも心の整理が付いたのだろうか。
いや……、それこそお得意の『装い』か。
こうして、父親の痴態の一部始終を見届けた俺に対してまで、今更気を遣ってしまうあたり、石橋が囚われていたものの大きさをつくづく思い知らされる。
とは言うものの、今現在置かれている状況と俺の目論見を告げると、さしもの石橋と言えど取り繕うことを忘れ、目をまん丸にさせる。
だがすぐに、どこか腑に落ちたような態度になり、その後は顔色一つ変えず、俺の話に対して静かに相槌を打っていた。
「でも、そっかぁ……。キミにはそこまでの覚悟あるんだね。凄いよ」
俺があらかた話し終えると、石橋の口から図ったように感嘆の声が漏れ出てくる。
石橋に限って皮肉の類とも思えないが、当然その言葉を額面通り受け取るわけにはいかない。
少なくとも、応接テーブル越しからどこか寂しげな視線を浴びせてくるあたり、俺の決断を好意的には見ていないようだ。
「別に……、そんな褒められたモンじゃねぇってことくらい分かんだろ。つーか、悪いな。夜中にこんな場所、呼び出して」
「それは別に構わないよ。でもさ……、荻原くん。一つ、聞いてもいいかな?」
「……なんだ?」
「それはさ……、キミ自身が決めたことなのかな?」
「……そうだ」
俺が応えると、『そっか』と小さく声を漏らし、天井を見上げる。
そして、しばし沈黙した後、ゆっくりとまた。口を開く。
「ごめん……。やっぱり俺は協力出来ない」
「……一応、理由を聞いていいか?」
「むしろそれは俺が聞きたい、かな……。荻原くんはさ。本当にそれでいいと思ってるの?」
石橋は、不安げに俺の顔を覗き込みながら、聞いてくる。
疑っているとまでは言わないが、どこかで俺の決意の程を試しているかのようにも思えてしまう。
「……分かってる。キミが政府に従わない理由を聞くこと自体、野暮なことだって。でも、もう一度よく考えて欲しい。荻原くんのお母さんは間違いなく、まだ、生きているんだ」
俺が質問に応えず口を噤んでいると、石橋は更に補足するように念を押してくる。
「……キミがこれまでどんな境遇に置かれていたのかは聞いた。だからあまり無神経なことは言いたくないし、キミがその結論に辿り着くのも分からなくもない。でも……、キミはこの数ヶ月で一連の事件の真相どころか、この国を巣食う深淵にまで辿り着いた。情報を表に出せば、世論もきっとキミの味方になってくれるはずだ」
「確かに……、そうかもな」
「キミの話を聞く限り、担当の弁護士さんも健在みたいだ。新井さんだっている。その気になれば、機を見て再起を図ることだって出来るはずだ。キミはもう……、今までとは違うんだよ」
「……一旦、連中に頭を下げろってことか」
「それが嫌なら、このまま彼女の思惑通り『AGH』を引き継げばいいっ! どちらにせよキミのお母さんは助かるし、キミの身に何か不都合が生じることもないはずだっ!」
前のめりに。それでいてどこか縋りつくように。
石橋は向かいの座席から身を乗り出し、まくし立ててくる。
いつにないその剣幕を見るに、石橋は心の底から俺の身を案じてくれているのだろう。
ましてや、『一度、自分を取り巻く全てを否定しろ』と嗾けた俺たちに対しての意趣返しでないことは明らかだ。
「確かに……。お前の言うことにも一理あるのかもな。ただな。このまま田沼さんの方針に従うとなると、宇沢さんから妨害が入る可能性が高い。何より、実行者が田沼さんである以上、彼女の身の安全は保障されない」
俺がそう応えると、石橋は乗り出した身を引っ込め、だらんと力なく背もたれに寄りかかる。
そして、意を決するように深く息を吐いた。
「……これから言うことはキミを怒らせるかもしれない。だが、それでも聞いて欲しい。俺には分からないんだよ……。そこまでして、キミが田沼さんを守りたい理由がさ」
石橋は俺から視線を逸し、口籠りながらもそう言った。
「彼女がどんな想いで、キミのお父さんの計画を引き継いだのかまでは知らない……。だが事実として、こうして自身の身を擲って、キミたちを救おうとしているんだ。田沼茅冴という人間は、決して利己的な人物ではないんだろう。ただ、それでも……、キミのお母さんと同列で語れる存在、なのかな?」
「……同列な訳ねぇだろ」
俺がそう応えると、石橋はテーブルを両平手で叩き、勢いよく立ち上がる。
「だったら……、キミはこの一件に関して、軽はずみな行動を取るべきじゃないっ!」
石橋は目を血走らせながら、俺をまじまじと見下ろし、そう断言する。
鬼気迫るその姿からは、今までの石橋にはなかった圧を感じた。
「確かにキミの計画はよく練られている。あぁ、それは認めるよ! だが成功する保証もない! だからこそ、だ! キミのお母さんは事実上の人質であることを、キミはもっと自覚するべきだ! ……分かるだろ? 大切な人を失ってからじゃ遅いんだよ……、何もかも」
滔々と、石橋は諭してくる。
石橋の言い分は、ある種真っ当だ。
裕福な環境に生まれながら、数奇な『偶然』の中で、人としての尊厳を踏みにじられ、挙げ句唯一の理解者すら取り上げられた石橋だからこそ、言えることなのだろう。
そして、それは本来、神取さんが俺に問うべき観点だったはずだ。
彼は当事者だからこそ、最終的には俺の決断を尊重してくれた。
同じ痛みを知る同族だからこそ、その痛みとどう向き合うかの判断を俺に託してくれたのだろう。
ただ……、それを言うなら。
俺と石橋とて、同族なのだ。
「……なぁ石橋。お前の母親が求めていた『幸福』は、この世にありそうか?」
俺がそう切り出すと、石橋は大きく目を見開き、しばらく絶句する。
その後、思い出したかのように頭を抱え、わなわなと身体を震わせ、そのまま崩れるように椅子に腰を沈める。
痛々しい、その姿を見て痛感する。
石橋の中では、まだ何も終わっていないのだと。
「……悪いな。蒸し返すようなこと言って」
「いや、いいんだ……。そもそも、依頼したのは俺だしね。それに……、どの道いずれは向き合うべきことだった。流石にアレだけ真正面から現実を突きつけられたら、受け入れざるを得ない、よ……」
石橋は、必死に絞り出すようにそう言う。
その言葉とは裏腹に浮かべている虚ろな瞳には、少なからず恨めしさのようなものも孕んでいるようにも見えた。
「……そうか。まぁ多少の齟齬はあったが、俺と田沼さんの意見は概ね一致していた。実際、お前の人生を雁字搦めにしていたのは、母親の存在だったからな。……で、どうなんだよ? お前の母親が欲しがっていたものは、見つかりそうか?」
「そんなもの、見つかるワケないだろ……」
石橋は、静かに吐き捨てるようにして呟く。
そして再びいきり立ち、苦々しく顔を歪め、蔑むような視線で俺を見下ろしてくる。
「そりゃあキミたちからすれば、そう考えるのが自然だろうさっ! あぁ、確かにそうだよ。結果的に言えば、母さんは俺の『不幸』の元凶だ。でも……、そう簡単に割り切れると思うか!? 死んだからってどんな扱いしても許されると思うなよ!? あんまりじゃないか……。俺には母さんしかいなかった。母さんが俺の生きる指標だった……。『依存』と言われればソレまでだ。それでも……、俺しかいないんだよ。母さんの人生を証明出来るのは」
石橋は溜まった膿を吐き出すように言った。
これが嘘偽らざるところの、石橋珠羽の心情なのだろう。
母親の死を受け入れる覚悟など、出来ていなかったのだ。
いや、出来るはずもない。
まさに今の石橋の現状こそが、連中の独善性を裏付ける何よりの証左と言っていいだろう。
そして俺は、これからもう一度。
自分自身の『理想』のためだけに、目の前の善良な男を言い包め、罠に掛けようとしている。
何のことはない。
立場が違うだけで、俺も本質的には政府の連中と変わらないのかもしれない。
「……だから、お前はさっきから何を勘違いしてんだ?」
石橋は毒気に当てられたとでも言いたげに、口を噤む。
「それは飽くまで田沼さんの意見だ。言ったろ? お前の人生を通して、母親の無念を晴らせってな。俺は別に気休めで言ったつもりはねぇよ。……もう一度、おさらいしてみろ。お前自身の人生をな」
「俺自身の人生を……」
「そうだ。腹を割って話して欲しい。お前にとってどうだったんだよ? 大人たちの勝手な都合で存在を否定され、生きることに対して疚しさを押し付けられる日々は」
俺が問うと、石橋は少し沈黙した後、ゆっくりとまた口を開いた。
「そ、そりゃあっ。惨めに、決まってるだろ……。何度も思ったよ。こんなことなら生まれて来なきゃ良かったって……」
「本当に、それだけか?」
そう聞くと、石橋は深刻そうに顔を歪めるだけで、俺の問いに応えなかった。
やはりというか、石橋はまだ分かっていないようだ。
今抱えている『感情』の正体、そしてそれをぶつけるべき対象を。
それは恐らく、石橋がこの二十年に及び断続的に与えられてきた無力感が、その答えを曇らせているのだろう。
だからこそ、俺は断言出来る。
石橋はこれ以上ないほどに、俺の計画の適任者だ。
「……端的に言う。お前、このままだとジリ貧だぞ? 何もかも。断言してもいい。今のこの世界に、お前の居場所はない」
「それはまた……、随分な言い草だね」
「だが、実際問題そうだろ? そして、それはお前自身も気付いている。違うか?」
「それは……」
石橋は言葉を詰まらせ、顔を俯かせる。
「……なぁ、どうすんだよ? それでもお前はこのまま被害者ヅラを続けて、惨めに人生やり過ごすのか? 言っておくが、お前のこの先は悲惨だぞ? お前は父親と決別したつもりになってるのかもしれないが、周りにとっちゃそんなことは関係ねぇ。銀行の信用を失墜させた張本人の身内として、徹底的に迫害される。それこそ、今以上に人間扱いされないだろうな」
「そ、そんなことはっ! 分かってる……」
「いや、分かってねぇ。だから未だにこうして甘っちょろいこと、ほざいてんだろうが。なぁ……、もう一度よく考えてみろよ。今の自分の立場ってヤツを。父親もあの調子だ。今のお前が、本当の意味で帰れる場所なんて残されてんのか?」
俺の問いかけに、石橋は押黙る。
「その前提でもう一度聞く。お前の母親が求めていたものは、この世にありそうか?」
なおも石橋は応えない。
石橋は今、無念の内に死を遂げた母親を差し置いて、人生を前に進めることを躊躇しているのだろう。
だからこそ、今一度問わなければならない。
本当の意味で活きた、母親の供養の在り方というものを。
「……分かった。じゃあ質問を変える。幸せを見つける意志はあるか?」
「……何が言いたいのかな? 意味が分からないよ……。この期に及んで言葉遊びは勘弁して欲しい、かな」
「単純だ。ないなら作ればいいって話だ。お前が幸せになるための土台をな」
「俺が……、幸せになるための土台?」
「そうだ。分かんだろ? こうやって、トチ狂ったギャンブルに巻き込もうとしてんだ。何も見返りなしに誘うほど、俺も野暮じゃない」
「見返りって……、何をするつもりだい?」
「具体的にはそうだな……。諸々のゴタゴタに乗じて、お前の母親の実家の銀行……、北信共立だったか? そいつを相銀の経営から切り離す」




