世界と一緒に死ねばよかった
「ほら、早く食べちゃいなさい」
寝ぼけた頭に母親の声が響く。急かされるままにトーストを口に押し込む。起きて五分しか経っていないからか、トーストの味がよくわからなかった。
よくわからないまま朝食を食べ終え、そのままふらふらと洗面所へ向かう。歯を磨き、顔を洗い終えたところでやっと意識がはっきりしてきた。高校へと向かう準備をしなければ。
部屋へと戻り制服に着替え、姿見で自身をチェックする。カラスみたいな黒髪には寝癖もないし、やる気の感じられない瞳はいつも通りだ。
「行ってきまーす」
ドアを開けると少し冷たい秋の空気が肺に染みてきた。寒さを感じながら学校へと歩き出す。こんな日はノスタルジックな気持ちになってしまう。自分の短い人生を振り返ってみると、なんとも起伏のない人生であることか。
テストで一番を取るとか、スポーツで華々しく活躍したとか、芸術方面の才能が開花したとか、そんなことは一切ない平凡な日々を過ごしてきた。きっとこれから先もそんなものとは縁のない日々を過ごすのだろう。
自分で考えておきながら少し悲しくなってきた。こういう時は自分を褒めなければ。だが自分の長所はなんだろう。
人に誇れることではないかもしれないが、昔から病気にかかったことがないことぐらいか。小学生のときから皆勤賞を取り続けていることは少し誇れるかもしれない。風邪などは全く引かず、去年インフルエンザが流行したときも、家族全員が罹ったのに自分だけは罹らなかった。健康には自信があると言えるかもしれない。自己肯定感が少し高まった気がした。
そんなことを考えているといつの間にか学校に着いていた。教室に入ると友達のタカシが話しかけてきた。
「なぁなぁ、昨日の分のノート見せてくれない?」
タカシは風邪を引きやすく、よく学校を休んでいる。そのためよく授業に遅れてしまう。少しでも遅れないように、いつも休んだ後は自分にノートをせがんでくるのだ。
「いいけど、飲み物一本な」
「オッケー、ありがとなー」
飲み物一本と昨日の分のノートのトレードが完了した。このトレードは何も自分が意地悪でやっている訳ではない。貸しをなるべく作りたくないというタカシの意見を汲んでいるのだ。タカシはいつもノートを借りるのを悪いと思っているのだろう。自分は全く気にしていないのだが。これはタカシの罪悪感を少しでも楽にするための措置なのだ。
これから冬がやってくる。そうなると風邪やインフルエンザが流行りだし、タカシはまた休みがちになるだろう。そうなっても大丈夫なように、自分はしっかりと休まずにノートをとり続けなければならない。
誇るほどでもない長所と思っていたが、タカシの役に立っていると思うと、少し誇らしく思えた。
*
その日の夜、気になるニュースがやっていた。
『中国で新型のウイルスが流行しています。このウイルスは非常に致死率が高くーー』
中国で新たな病気が流行りだしたらしい。去年も同じような時期にインフルエンザが流行していた気がする。毎年大変な国だ。
「また新しい病気? いやねぇ」
母が少し嫌そうな口調で呟いた。去年のインフルエンザで自分以外が罹って大変な目に遭ったことが記憶に残っているのだろう。実際かなり大変だったのだ。学校や仕事は休みになり、唯一動ける自分が看病のために動き続けることになったのだ。
『――国の水際対策に注目が集まります』
「今回は流行らないといいわねぇ」
「大丈夫でしょ」
不安そうな母に気楽な言葉をかける。実際そこまで流行らないのではと思っている。さっきのニュースでウイルスの致死率が高いと言っていたからだ。ネットで見た知識なので確証はないが、致死率と感染力は反比例するらしく、致死率が高いほど感染力は低い傾向があるようだ。
それに日本は大丈夫だろうという謎の信頼があった。希望的観測というやつだろう。よくアフリカなどで致死率の高い病気が流行っても、いつも対岸の火事であったように、今回の中国のウイルスもそうなるだろうという思いがあった。
そんな気楽なことを考えて眠りについた。そして翌日にはウイルスのことなど頭の中から消えていた。
*
ニュースで新型のウイルスが取り上げられ始めて数ヶ月、季節は移り変わり、雪がちらつくようになっていた。そしてウイルスは当初の予想とは異なり、大流行の兆しを見せていた。国の水際対策が失敗したらしい。テレビが言うには外国人観光客のインバウンドを重要視し、水際対策を甘くしていたらしい。それが原因かはわからないが大量の外国人が日本に出入りした。その結果、日本国内にウイルスが大量に入り込み、爆発的な感染が起こってしまったようだ。
今回のウイルスは潜伏期間が非常に長いらしく、知らず知らずの内に人へと感染しているらしい。そのため高い致死率と高い感染力を両立しているらしい。
新型のウイルスは罹患すると、炎のような高熱がでること、高い感染力を持つことから、通称フレアウイルスと呼ばれている。
フレアウイルスに罹ると、まず咳や微熱などの風邪に似た症状が出てくる。その後高熱が出て、肺炎などの合併症が起こり、そのまま死に至るらしい。
フレアウイルスは非常に感染力が高く、しかも飛沫感染までするのだ。そのため人々はマスクをした生活を余儀なくされた。しかしそれで感染が止まるわけもなく、依然としてウイルスは流行している。
今のところウイルスへの特効薬は出来ておらず、なんとか罹らないように予防することしかできないのだ。
学校が休校になるのはもちろんのこと、多くの会社が休業をしなければならなくなった。そして社会全体が麻痺しだした。病院は感染者への対策で逼迫し、フレアウイルス以外の患者を受け入れることが難しなっていた。そのためウイルス以外が原因で亡くなる人も増えた。
数ヶ月前では考えられないような最悪の状況だった。国は失業者や休業者に向けて補助金を出すなどしたが、それが数ヶ月も続くと息切れを起こし、あらゆる予算を切迫しだした。
そんな鬱屈とした日々が続く中、母がノイローゼになってしまった。そのため家事などは比較的元気で時間がある自分がやるようになった。
今日もこれから食料品などの買い出しに行く予定だ。しかしほとんどの店に商品は置いていないため、多くの店を回らなければならない。多くの人が買いだめに走った結果、品不足が起こってしまったのだ。そのため近所の店だけではなく、少し遠い店にも足を運ぶことになってしまっていた。
「それじゃ、行ってきます」
「気をつけてね、あんまり人の多いとこにはいくんじゃないよ」
心配する母の言葉を背中に受け、家を出る。冬の冷たい空気が肺を刺してくる。
*
かじかむ手で家の扉を開ける。今回の買い出しはなかなか良い物が手に入ったためウキウキで帰宅できた。
「ただいまー。いやー今日はたくさん買ってこれたよ。ちょうど食料品とかが入荷してて、たくさん買って来ちゃったよ」
玄関で独り言を漏らすほどには有意義な買い物が出来た。いつもなら数えるほどしか買えない食料品などを袋三つ分も買えたのだ。自分の運の良さに少し怖くなる。
しかしそんな自分とは裏腹に母は元気がない様子で自分を迎えた。
「どうしたの、そんな深刻な顔で?」
「落ち着いて聞いてね。タカシ君がね、感染したって……」
手に持っていた袋は落ち、中身が玄関に散らばった。告げられた事実を受け入れることが出来なかった。
*
タカシが死んだ。見舞いに行くことも出来なかった。フレアウイルスに感染して一週間後、家に亡くなったという連絡だけが届いた。
現実味がなかった。自分の知り合い、それも最も仲の良いタカシが亡くなるなんて。テレビでは毎日死者数や感染者数を報道していた。でもまだどこか遠い場所の出来事だと思っていた。
仲の良い友人や家族が罹らなかったから、まだ他人事だと思い込んでいた。自分の周りの人は大丈夫、いずれこの騒動は収まる、そんな思いが残っていたのだ。
そんな楽観視していた自分に、この出来事は重くのしかかった。そしてウイルスの脅威がすぐそこまで来ていることを実感させた。
タカシの葬式は身内だけ静かに行われたらしい。あまり人を集めても感染が広がるという配慮からそうなったようだ。
結局自分がタカシに会えたのは、葬式から数週間後の埋葬された墓の前でだった。墓地には同じような人がたくさんいた。皆大切な誰かを亡くしたのだろう。いろんな場所からすすり泣くような声が聞こえてきた。
タカシの墓の前に立ち、やっとタカシが亡くなったという実感が湧いてきた。もうくだらない話もできないし、ノートを貸して飲み物を奢ってもらうこともない。
曇り空の下に呆然と立っていると、ふと恐怖を感じた。もし家族がウイルスに罹ったらどうしよう、と。タカシの死すら受け入れられなかった自分に耐えられるのだろうか。
身近な人物の死、それはウイルスの流行によって突然もたらされた。心の準備もできないうちに。自分に何かできることはあったのだろうか。
無力感からただただ立ち尽くすことしかできなかった。
*
タカシの死から数ヶ月が経ち、季節は冬から春へと移り変わった。ある学者の話によると、フレアウイルスのピークは冬で、春になるにつれてピークアウトしていくとのことだった。
しかしそれは希望的観測でしかなかった。実際のところ、感染者は減るどころかさらに増していく勢いだった。ニュースで発表される感染者数、死者数はともに増加しておりピークアウトする気配はまったく感じられなかった。
自分の身の回りを見ても、感染が収まる気配を感じることはできなかった。毎日のように学校の友人、知り合いが新たに感染している。そして家に連絡が来るのだ。誰々が感染した、誰々が亡くなったと。もう誰が感染してもおかしくない状況だった。
そんな状況で自分の心はかなり疲弊してしまった。隣のクラスの知り合いが亡くなった。同じクラスの友達が感染した。その連絡を受けても、心が動かなくなっていた。
感染は拡大する一方だ。収まることを知らないフレアウイルスは、日常に大きな影響を及ぼすようになっていた。感染者が増えすぎたせいで医療崩壊が起きたのだ。増加する感染者を病院が受け入れることが出来ず、今は多くの人が自宅で亡くなっている。しかもそれだけでなく病院そのものが機能しなくなってきているのだ。
病院では受け入れた患者からクラスター、感染者の集団が発生している。また感染は患者だけに留まらず、医療従事者にも広まっていった。それにより病院の機能はストップし、患者の受け入れや既存の病気の治療までもができなくなっていた。
そのため今フレアウイルスに罹ると、まともな治療を受けることができないのだ。まあ、受けられたところでという話ではあるのだが。
感染拡大の影響で学校はもちろんのこと、多くの企業が休業した。休業だけならマシな方で、ほとんどの企業はそのまま再開の目処が立たず倒産してしまっている。今では休業、倒産しても補助金などはでないらしい。国の予算がほぼ尽きかけているらしい。経済活動のほとんどがストップしているのだ。当然と言えば当然のことなのだろう。
感染者の増加は物流にも影響していた。現在物流を担う人たちにも感染が広まっており、商品の多くが運ばれなくなっている。そのためスーパーなどの小売店の棚はガラガラになっている。他にも買い占めなどが原因だったりはするが、そもそも最近はまともに商品が入荷されたところを見たことがない。
入荷しても品不足の影響で値段が青天井になっている。そのため最近はまったく買い物もできていない。家の備蓄もそろそろ尽きそうになっている。
自分達の住む都会はこの有様のため、都会から離れる人たちが増えた。感染者の少ない、いや人の少ない地方へと移住する人が増えた。だがその移動がさらに感染を拡大させてしまったのだ。結局どこにいても感染からは逃げられないようだ。
全国で感染者が増えている現在、政府は感染への有効打を打つことはできていない。無為無策というやつだ。しかし無為無策なのは何も日本だけではない。どこの国でも感染は拡大しており、感染を封じ込められたという国は一つもない。
中国やアメリカなど、多くの国では感染者の隔離が行われた。しかしどれだけ厳しく隔離しようと感染者は増え続け、結局無意味に終わってしまっていた。
海外では水や電気が止まっているところもあるようだ。それに比べればまだ日本はマシな方なのかもしれない。日本は最低限のインフラは生きている。それもギリギリといった感じらしいが。
どこの国も挙ってフレアウイルスに効く薬を作ろうとしていたが、現状それに成功している国は一つもない。
社会全体、いいや世界全体を陰鬱な空気が覆っていた。そんな空気を感じながら、今日も俺は母親の代わりに食料品の買い出しに来ていた。しかしどこを巡っても商品はない。もう見慣れた光景だった。
そろそろ帰ろうか、そんなことを思っていたところに一本の電話がかかってきた。それは父からだった。
「もしもし、どうしたの?」
「早く帰ってきなさい、あのな……母さんが倒れた」
電話をすぐに切り、自転車に飛び乗った。
きっとノイローゼが悪化しただけだ。貧血になっただけだ。躓いて転んだだけだ。そんな都合のいい妄想をしないと自分を保っていられそうになかった。
まさか、そんなまさかさ。だって母さんはほとんど外に出ていないし、人とも会わないようにしていた。それなのにどうして。
今はただ帰りを急ぐことしかできなかった。
*
父と母が亡くなった。あっという間のことだった。
必死に看病した。無理だとわかっていても病院に連絡した。受け入れてくれない病院に怒号を飛ばしたのも一度や二度じゃない。その全てが無駄に終わった。
あの日家に帰ると、母は床に伏せていた。呼吸が荒く発熱しているようだった。きっとただの風邪だ。そう自分に言い聞かせながら父とともに必死に看病した。
しかし数日経っても症状は良くならず、日々母の体力は削れていった。そんな中、ともに母の看病をしていた父も倒れた。疲れから倒れただけだ。そう思いたかった。
俺は二人の看病を必死にやった。そしていつかの朝、起きて母の元へ向かうと、高熱が嘘のようにひいていた。そして母はそのまま冷たくなっていた。
その日は泣きながら父の看病をしていた。そこから数日後、父も帰らぬ人となった。
どうすればいいかわからなかった。何をすればよかったのかわからなかった。どうすれば助けられたのか、どうして二人が罹ってしまったのか。どうして自分ではなく二人が死んでしまったのか。何も理解することができなかった。
泣いて泣いて泣いて、泣き疲れて眠って、起きてまた泣いて。
一日経って、ようやく冷静になれた。いやたぶん感情が死んだだけなのだろう。行政に連絡し二人を弔ってもらった。
一人で過ごすには、この家は少し大きく感じた。
*
季節は夏に移り変わり、ジメジメとした日が続いていた。フレアウイルスは依然として猛威を振るったまま収まることはなかった。
感染が広まった結果、世界は呆気なく崩壊してしまった。自分のいる地域はまだ電気と水がギリギリ生きているが、他の地域になると停電していたり、水が止まったりしているところもあるようだ。人伝に聞いたことなので定かではないが。
だがそれも本当なんだろう。最近ではテレビも放送をストップしている。情報源はラジオだけになってしまっていた。そのラジオによると、もう国は最低限のインフラを維持することもできないようだった。
感染が広まりすぎたのだ。国民の約九割、いや九割できかないかもしれない、それだけの人が感染し亡くなったのだ。今までインフラが機能していたことのほうが奇跡なのかもしれない。
他の国だともっと早くに生活インフラが止まり、暴動なども起こっていたらしい。日本では暴動などは起きなかった。国民性故か、それとも皆感染を恐れて何もできなかっただけか。
病院も機能しなくなって久しい。今感染者は学校や市民ホールなどに集められ、そこで有志の人たちが賢明に治療行為をしている。
特効薬も治療法もないため、気休め程度だが、それでも孤独に死ぬよりはマシなのだろう。かく言う自分もその有志の中の一人なのだ。
だが自分が有志に混ざって治療をするのは何も高尚な理由があるわけではない。むしろその逆でなんとも身勝手な理由だ。
ただ単純に、自分も早くフレアウイルスに感染して死にたいだけなのだ。家族をずっと看病していても罹らなかったのだ。自分は他の人に比べて罹りにくいのだろう。そのため、より感染者のたくさんいる場所に行けばさすがに感染するだろうという思惑があった。
しかしそう思惑通りにはいかなかった。新たに感染していくのは、治療していた有志のメンバーばかりで、自分が罹る気配は一向になかった。
誰かがフレアウイルスに感染し倒れて行く度に、次は自分だと考えていた。だがその順番はいつになっても回ってこなかった。
そしていつの日か、有志のメンバーは全員感染してしまい、看病できるのは自分だけになってしまった。
「大丈夫ですよ、きっと良くなりますよ」
何度目かわからない気休めを口にする。良くなることなんてないのに。フレアウイルスの致死率は体感だが十割ある。自分が見た中で、罹って生きている人はいない。
「きっと助かりますよ」
嘘だ。助かる訳なんてない。だがこの嘘をつくと感染した人は少し安心したような表情をするのだ。だから俺は同じ嘘をつき続ける。
だがこの嘘をつくのも最後になるかもしれない。この市民ホールにいる生きている人は、自分と目の前の一人だけなのだ。
そして数日後、その最後の一人を看取った。この市民ホール、ひいてはこの街で生きているのは自分だけになってしまった。
*
市民ホールから外に出て、澄んだ空気を吸い込んだ。人間が活動しなくなった世界は、少し空気が綺麗になった気がした。
呆然と立ち尽くしながら、これまでのことを振り返る。思えば自分は異常だった。最初は気にならなかったが、自分一人になりその異常性に気付いてしまった。
なぜ自分だけは感染しないのか。
フレアウイルスに罹らなかったのは単なる偶然なのか、それとも自分には抗体か何かがあったのか。もしそうなら皆は死なずに済んだのかもしれない。
だが今となってはそれを調べる手立てはない。すべてはたらればの妄想だ。
ああ、世界と一緒に終わればよかった。