詭弁家と聖女とありきたりな脱獄劇 4
数刻ぶりに聞こえた足音は死神では無く女のものだった。
「失礼いたします」
レオナルドはその声の主が目の前に立ち止まったことを足音の反響頼りに把握すると、項垂れた首を上げた。
数時間ぶりにカビの匂いと、鼠の足音以外を知覚するために薄目を開けると、陽の光とは比べ物にならない程淡い刺激が視界の端を揺蕩う。
眼前のシルエットはこの空間にとってはあまりに異質で、先の声も、足音も、その姿さえも走馬の幻であったとしても異を唱えることは容易くない。
「誰だアンタ」
誰か、というのは今のレオナルドにとって何ひとつとして必要な情報ではなかった。 彼が本来尋ねるべきはその人物の目的であって、その人の生い立ちや、名前や、信条や、趣味や、今日の朝食なんかはどうでもいい。
従って今の発言に対してその人物が字面通り正直に名前を名乗って来るならば、ハナから相手にする価値もないという話だ。
「星教会のユリです。 最後のお祈りに参りました」
「俺は吊るし首か? 」
「…………はい」
レオナルドは簡単なやり取りを済ませると、久しぶりに焦点の深度を合わせた対象を具に観察する。 髪は長く肩まであり、銀色に輝く艶やかさは比肩するものがこの世には無い。 こちらを至近距離で見つめる白い肌に馴染む碧味の強い双眸は、目下に映る鼻先にできた血の痕跡の輪郭を悪意無く際立たせる。
「そうか」
溜息交じりのレオナルドの呟きに少女はやや伺うように口を開く。
「何か、最後にお話ししたいことはありますか? 」
天井から雨漏れが一粒滴って、人間の欲望というのは知覚して初めて表に出てくるのだと思い出す。
有り体に言えばレオナルドは喉が酷く渇いていることを思い出した。
「三つ程頼まれてくれるか」
「三つですか、私に出来ることなら何でも仰ってください」
レオナルドは、ああ、まずは、とユリと名乗った少女に水を催促する。 ユリは牢の扉を開けると駆け足で牢を出て行った。 それから天井のシミを幾十か数えている間に再び足音が近づいて来るとまたすぐに扉が開いた。
おおよそ両手足が無駄に堅牢な鎖に繋がれて無ければ簡単に目の前の少女をノシてここから颯爽と出ていく事もできただろうが、その選択肢は二度瞬きをするまでも無く遠くへ失せた。
「ありがとう。 それで二つ目だが――」
飲ませればいいんですね、とユリは察してレオナルドの口元に水瓶を近づける。
「――俺がここから逃げ出すのを手伝ってくれ」
え?と多分レオナルドの眼前の少女は言ったのだろう。
しかし節約のためか過度に薄い陶器の瓶は少女の声を搔き消した。
「三つ目だがもう一度水を汲んできてもらえるか? あと見張りの兵士たちに備品を駄目にしてしまった言い訳を頼む。 ああ、これじゃあ四つか」
ユリは表情一つ変えずに扉と呼ぶには余りにも粗末なものを開きっぱなしに駆けていく。
逃げるものなどいないと、ハナから分かっているかのように簡単な作りで、実のところ有っても無くても大差ない。
道中仕事をしに来た兵士たちに事情を話す声を遠くに聞きながら、レオナルドは蝋燭の陽炎をボンヤリと見つめて少女の帰りを待っていた。
それからレオナルドの体感で前段の五倍の時間を掛けて少女は帰ってきた。
マズったか、と不安になりながら待っていたこともあって実際のところは精々倍の時間しか経っていなかったが。
「パンとお水を頂いてきました。 私も半分いただきますね」
ひび割れと苔のコントラストの目立つ石畳に赤と白のチェック模様が敷かれる。 それからユリはテキパキと木皿とコップを二セット、そして半分に千切ったバケットの大きいほうを自分の側に、小さいほうをレオナルドの側においた。
幾らか口元が目減りした飲み口のそれでも綺麗な方を探しながら両のコップが満たされるのを待つ。
それからしばらくの間、向かい合って座る二人の間にはひとつの租借音だけが流れた。
ユリのバケットが半分ほど無くなって、千切っては口に運ぶ動作も幾らか散漫になってきたころ、どちらともなく相手の方に声をかける。
「あー」「えーと」
レオナルドは目配せして、お先にどうぞ、とユリに促す。
「それぇ、食べないんですか? 」
要らないなら寄越せと言外に言っているのだろう。レオナルドはああ、とかろうじて自由に動かせる右手で示す。
最も両手が不自由な状態でどうやって食事をとれというのだろうか。そして可能ならそろそろ一口でいいから水を飲ませてくれないかと言いたくなるのを必死に抑えて言葉を続ける。
「ところで、アンタ自称ナンタラの人間だろ? キャラ変わりすぎだろ。 それに貧しき民に施しを、とかって信条は無いのか? 」
ユリは首を幾らか傾けて水を一杯飲み干し、言葉をつづけた。
「ぷはぁ~良いですか? 私は誇り高くも星教会の聖女です。見ず知らずの男性と二人で食事を取っている、という状況がマズよろしく無いです。 あと私、本当は今日はお休みなんです。 働きづめです。 クタクタです。 本当は夕方くらいまでベッドの上でっゴロゴロしてたいのです。 だから良いのです。 私が大きい方をもらいますし、余るようなら全部いただきます。 逃げ出したいとかいうし、貴方は反省の色が――」
そう言い終えかける直前、流石に言い過ぎたことに気づいたユリ大聖女様はそれまでの大層な身振り手振りとは裏腹に一気に縮こまって気まずそうに姿勢を正す。
「気にするな。半分事実だからな」
「半分ですか? 」
「ああ、俺は当然反省なんてしてない」
だけどな、とレオナルドは間を置いて、
「俺は無実だ。 だからここから出る。 シンプルだろ」
「いやぁ~う~ん」
表側だけなぞれば、レオナルドの主張はきっと正しい。 もし彼が無実で、それなのに何故か死罪となるならば当然ユリはそれを止める義務がある。 それが正しい考え方だし、ユリの今までの生きてきて得た経験からも間違いはないと言える。
いくらかユリは逡巡し、レオナルドの主張の唯一にして最大の欠点を指摘することを決めた。
「でも貴方は取り調べを受けて、証拠もあって、それで――」
勿論ユリの考えも正しい。
もしレオナルドが捕まった場所が場所で罪状が殺人で無ければの話だが。
ユリは当然その詳細な事情を知る由もなく、ただ死を待つ者に最後の祈りを、と叩き起こされて身支度もすぐに此処へやってきた
だからこの聖女の発言は至極道理に適っている。適っているがしかし――
「アンタこの街から出たことはあるか? 」
「巡礼で二度だけ」
「男と寝たことは? 」
「はぁ!? 貴方一体なにを――」
聖女と呼ばれる身分ではあるがしかし、当然のこと十代の少女だ。ただでさえ幾らかの事件か事故か、化けの皮が剝がれ続けている少女はついに態度を繕うこともやめた。
「いや失礼、あまりにも世間知らずなお嬢様が目の前に居たんでな」
やつれた囚人は掠れた喉でケラケラと笑う。




