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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ファム・ファタルたちへ

赤ずきんと蛇

作者: タツマキ


 少女が持ち出した赤い口紅は母のものだった。いつも家にいない母は、ふらりと帰ってきては死んだように眠り、この赤い口紅を塗って外へ行く。母親は美しい女性で、夜の藍色とネオンの煌めきを、ダイヤモンドに見立てるような華やかさがあった。

 少女はその口紅をこっそり塗って遊んでいた。彼女の憧れは母そのもので、鏡を見れば母親にふさわしい可愛らしい少女が写っており、唇だけが赤く赤く色づいていた。冬の始まりを告げる空っ風が枯れ葉を散らしていった。

 少女はその口紅と手鏡を持って、少し遠い山の方へ向かった。歪に口紅をつけた少女が走っていくのをすれ違う人は一瞥し、感心した者もいれば嫌そうに眉を顰める者もいた。しかし少女にはその顔は見えていない。視界にすら入らない。少女が見ていたのは、自分が進む道だけ。冬の乾いた空気が彼女の鼻腔から水分を奪っていく。膨張した粘膜では呼吸もままならず、口で息を吸う。今度は口腔内の水分が失われていく。いずれ喉が血の味を占める頃、彼女が到着したのは古ぼけた社だった。

鮮やかな朱色は剥げて、鳥居は腐っている。土に近くなるほどに黒くかびており、地面に一番近いと思しき池は既に沼と化し、生態系は退廃しているかに見えた。折れた柄杓や落ちた枯れ葉が沈むことなく腐っている。悪臭を放つその沼のそばには一人の老婆が蹲っていた。襤褸と言わざるを得ない服は白は黒へ、赤は黒が入り混じった紅葉のような、汚れた色をしていた。足音に気づいて彼女は顔を上げた。どうやら水を汲んでいたらしいが、その中は汚泥だ。

「巫女様、こんにちは」

「ああ…いらっしゃいな」

しゃがれた声は素っ気なくも、母親の関心ひとつ奪えない少女にとっては温かいものだった。巫女様と呼ばれた老婆は軋む髪をサッと耳にかけてぼろぼろの、今にも崩れそうな社へ、少女の手を引いていく。巫女様の手はひんやりしてて皺くちゃで柔らかい。

「あんた、口どうしたの」

「ママの借りたの」

「そう…」


 社へ入ると雨漏りを対策した桶が複数目に入った。水が少し溜まっている。

「あのね、巫女様もね、口、きっと似合うからね」

少女は少し興奮した様子で口紅と手鏡を差し出した。わざとらしい赤はとても派手で、少女の口にも自分にも合わないだろう。巫女様は少し困ったように笑って、いやいいよ、と首を左右に振った。緩慢な動きではあるものの、少女は拒絶されたとは思ってもおらず不思議そうに目をぱちくりさせた。

「これはね、あんたが大人になったら使いな」

そう言ってそっと押し戻す。縮れた白髪を鬱陶しそうにまた耳に掛け、裾を踏まないよう立ち上がった。

「ちょいとお待ちよ」

彼女が向かったのは白い布がかかっている何か。丁寧な手つきで取り払われると、そこに現れたのは黒檀の化粧台だった。磨かれた鏡は傷一つなく、化粧台は新品同然だった。

「綺麗だねぇ」

少女は目を輝かせてにっこり笑った。白玉のような頬に笑窪ができていた。

「さ、お座り」

巫女様は椅子を少し引いて少女を呼んだ。彼女は黒くなった靴下で腐った社の中を歩いて巫女の方へひよこの足取りで近づいた。巫女様の手で頭を数回撫でられ、目を細める。

巫女様はこの朽ちた社で1人生きている。少女は巫女様を好きになれるのは自分だけだと思って少しだけ特別になったようで心臓が躍っていた。


 別に何か、可哀想だと思ったわけではない。濡れ鼠になっていた少女を社に招いたのが全ての始まりだったとは言え、今もこうして可愛がっているのは己の下心故だった。

「お前さん、この辺の子だろ。社には化け物が封じ込められてるって聞いたことないのかい」

「ないよ、なにそれ」

「いや…」

 隙間風が唸りを上げている、少女は身震いしたが、老婆は関心の一つも無いようだった。ただ、目の前の少女以外は。

 艶やかな黒髪も、大きな目玉も、柔らかい肌も。食い破れば噴き出す赤い血も、きっとどれもこれも自分にはない美しさを孕ませている。どんなに求めても手に入らないそれらに、疼く歯を舐めた。

歯が乾いて仕方ない。

 鏡に写る彼女の髪を櫛で梳かす。指通りが悪いので丁寧に、繊細に。椿の花から絞った油を少しずつ塗りながら、もとの手触りの良さを思い出していく。花が元気を取り戻していく様子に似ていた。

しかしまあ、この口紅の赤いことといったら。巫女様はふう、と一息ついて先ほど掬った汚泥に触れた。

指先が黒くなり、泥を吸い上げる。まるで布に墨を吸わせているようなその光景に、少女は図らずも釘付けになった。

「あんまり見るもんじゃないよ」

巫女様がそう言うので、彼女はぷいっと鏡の方を向いてしまった。ようやく元気を取り戻した髪が揺れた。

汚れとは、そこにあるから汚れなのである。汚れは異質だ。ならばそれらを吸い上げる自分は一体なんだというのだろうか。もとよりそういった異質を受け入れる体は、あまりにも都合が良かったのだ。だからこそこの目の前の少女が眩しくて、羨ましくして、美味しそうなのだろう。無い物ねだりをするほど若くはないはずなのだが、いざ欲しいものを目の前にすると垂涎する。

 泥や汚れの一切を吸い取ると、そこにあるのは綺麗な透明の水で腐臭の一つもない。その水で袂を濡らした。

「こっちを」

分かっていたように少女が振り向く。異様な赤い口は禍々しさすらあって、犬が人を襲った様を想起させた。

 濡らした袂で彼女の口を擦る。なかなか落ちない。最近の紅はなかなか便利らしい。

「んー」

少女の眉間に皺が寄る。瞼も収縮して小さな丘のようになった。

「痛いかい」

「平気だよぅ」

擦りすぎただろうか、少し血色が良くなりすぎた気がする。

「もう顔に落書きなんてするんじゃないよ」

「どうして?」

「…似合わないからさ」

「嫌い?」

「…ああ」

「ならもうしない」

「ついでにここにももう来ちゃいけないよ、ここには…」

「さっきも聞いた。お化けが出るんでしょ」

「そんな可愛いもんじゃないさ」

仕上げにもう一度髪に櫛を通して、鏡に写る2人を見比べた。若芽と朽ち行く枝では比べるまでもない。

「呪いを一身に受けて、大昔にこの辺りの村一帯を滅ぼしたんだよ。高名な僧に封印されちまったけど、今でもこの辺りの山は呪いに蝕まれてるのさ」

「怖いの?」

「怖いよ、あんたなんか一口だよ」

「大きいね」

「大きいよ、あんたなんか潰されちまうよ」

「ふふふ」

「なんだい」

「なんだか今の、赤ずきんちゃんみたい」

化粧台に映る自分は見ずに、少女は老婆を見上げて笑っていた。可愛い足をパタパタさせており、寒くないのだろうかとぼんやり考えた。

「知ってる?赤ずきんちゃん」

「さあね」

「赤ずきんちゃんはねぇ、病気のお婆さんのお家にお使いに行くの。そしたらね、お婆さんは食べられちゃってて、狼がお婆さんに化けてるんだよ」


どうしておばあさんの耳はそんなに大きいの。お前の声をよく聞くためさ。

どうしておばあさんの目はそんなに大きいの。お前をよく見るためさ。

どうしておばあさんの口はそんなに大きいの。お前を食べてしまうためさ。


「でも猟師さんが来て、狼を倒してくれるんだ。お腹を切ったら赤ずきんちゃんもお婆さんも助かるの」

「便利な腹だね。切ったら出てくるなんて」

「ははは」

巫女様は自分の腹を摩った。過去に食べたものを思い出すように目を閉じて、もう一度開く。腹の中に何があるのか、巫女様は考えるだけ無駄だと悟った。

 気づけば橙色が差し込み古い社に仄かな暖かさと明るさを引き入れていた。ますます冷たくなる風に、少女が身震いをする。気づいた巫女様が化粧台にかけていた布を彼女の肩にかけた。

「ねえ、巫女様」

「…化け物の話か」

「うん。どんな化け物がいるの?」

少女は目をきらきらさせて巫女様を見つめていた。赤ずきんのような、ハッピーエンドを期待されている気がしてそっと目を逸らした。破れた障子の影に狸が横切った。

「…昔のことさ。大きな大きな蛇が村を襲ったんだよ、村人たちは一人の巫女に全てを託し、逃げたんだ。巫女が両手両足を失って、助けを求めた時、ようやくそいつは見捨てられたことに気付いたのさ。そいつは村人を恨みながら蛇の喉を通って行った…」

「…」

「…巫女は、蛇の腹の中で死ねなかったのさ。巫女の呪いが大きくて、蛇を逆に取り込んじまった。上半身は女、六本の手、下半身は蛇の怪物の完成だよ。そっからはまあ、よくある話、村を滅ぼして、僧に封印された。よくある話だよ」

「…なんだか、悲しいね」

少女は眉を八の字にして巫女様に擦り寄った。寒いからではなく、その内に沸いた感情を共有するように。巫女様は彼女の体をそっと抱いて、すぐに離した。

「さ、もう逢魔が時だよ。帰りな」

「えー」

さっきの表情はどこへやら、彼女はぴょんぴょん跳ねて巫女に縋る。

「やだやだやだ」

「駄目」

「やだやだやだ」

「駄目、姦姦蛇螺に食われるよ」

「かんかんだら」

「さっきの化け物だよ」

巫女様が少女の手を引いて鳥居まで連れて行く。彼女は口では反抗しても、素直に手を引かれていく。唇が尖っているが、更に磨きがかかった美しさに惚れ惚れしてしまいそうになる。

「鳥居を出たら、振り向くんじゃないよ」

「わかったよぉ」

「声が聞こえても」

「立ち止まらない」

「良い子だね」

「うん!ねえ、巫女様」

小さくて暖かい指に力がこもる。老婆の皺だらけで枯れたような手とは大違いだと、やはり羨望を忘れられそうになかった。

「また来て良い?」

来るな、と言えたなら。この少女は素直に言うことを聞いて来なくなるのだろう。来ないでくれ、とは思わなかった。いっそ一つに混ざりあえたら…。

 巫女様の考えを否定するような風が二人の髪を舞い上げた。冷たい風に吹かれて、ようやく、巫女様は口を開いた。

「好きにしな」

「うん!」

元気の良いことだ、こちらのことなんて何も考えていない。

「またね!巫女様!」

「…ああ、またね」


 苦しい。綺麗すぎる。

眩しくて辛くて、もう二度と会いたくないと思っているのに。


木々の騒めきに笑われて、巫女様はさっさと社に引っ込んだ。

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