7 明石の上、そして花散里
千鶴:8歳
「内裏は慣れてきたかしら?」
「はい。春宮さまもお優しいですし、楽しいです」
童殿上を初めて一月ほどして、母様がそう聞いてきた。ちい姫は和歌のお勉強の時間。ちなみに僕は歌のセンスが壊滅的で先生に放棄された。
「あなたが春宮さまと会った日は生き生きして帰ってくるのだもの。良かったわ」
「春宮さまが、僕のことは従兄弟だからとおっしゃって、親しくしてくださるんです」
「まあ、恐れ多いわ。でもとてもお優しいのね」
「そういえば母様、父様はどこにいらっしゃるの?」
「また玉鬘の君のところだと思うわ」
「またですか」
最近本当に入り浸っているな。やっぱり玉鬘の深みに嵌まりそうなのだろう。
「……なんだか危ないわ」
「何がですか?」
「いえ、子どもに言うようなことでは……ね。でも、お父様は玉鬘の君もご自分の女人の列に並べようとしていらっしゃるのかもね」
げ。それも子どもに言うことではないと思うが。
「さ、遊びにいってらっしゃい。今日は夕霧の君がいらっしゃると聞いているわ。遊んでもらったらいかが?」
「はーい、行ってきます」
ぴょんと立ち上がって庭に飛び出た。
さて、どこに行くか。今日は花散里のところにでも行こうか。それともちい姫がいないから明石の上のところに迷子になりましたーって行くか。
「いや、リアル迷子になったんだが」
何度も言わせてもらう。
六条院広すぎ!! 寝殿造迷子になる!!
本当に慣れていないとこの家では迷う。家が迷路。
「もうし、誰かいらっしゃいませんか!」
声を張り上げて人を探す。
「迷子になってしまいました。どなたか道が分かる方いらっしゃいませんか」
「どういたしました? 私でお力になれるでしょうか」
御簾の内側から声がかかった。
「ありがとうございます! 僕、源氏の大臣の次男です。ここはどこでしょう、どなたがお住まいなのでしょう、春の町はどちらに行けばいいのでしょう?」
「まあ、もしかして千鶴君さま?」
「はい」
「こちらは冬の町でございますよ。さる御方が暮らしていらっしゃいます」
「冬の町!?」
おぉ! 当初の予定通り! 明石の上の冬の町だ。
結果オーライ!
「もしかして……、ちい姫のお母さまがお住まいなの?」
そっと親切な女房の耳に口を寄せて聞いた。ほんのり女房の頬が染まったのは見なかったことにしよう。
「きゃっ。……あら、ご存知なの? どこでお知りになったのでしょう」
「ちい姫のお母さまにお会いすることってできますか?」
「それは……、できないと思いますけれど……。一応お方さまに伺ってみますね。上がってお待ちください」
いやっほい! 会えるかも! いや、会えないかも。会いたいな。ちい姫のお母さんだし、明石の上だし、絶対綺麗だし。気になるなあ。
「千鶴さま、お方さまがお会いになるそうです。ですが、秘密にですよ? どなたにもお方さまとお会いになられたことを言わないでくださいましね」
「やった! もちろんです」
「では、こちらからどうぞ」
少しだけ歩いて褥が敷いてあるところに案内された。
「ようこそ、お越しくださいました、千鶴君さま。わたくしのことをご存知と聞きました」
凛とした美しい声。美しいだけでなく、しっかりとした芯があることを感じる。
「突然申し訳ありません。太政大臣の次男、千鶴と申します」
「まあ、礼儀正しいこと。それにしてもどうしてここに?」
「恥ずかしながら、迷子になっていたのです。明石の上さまがお優しい方で良かったです」
「本当にわたくしのことをご存知なのね」
明石の上がほうと息を吐きながら呟いた。
「あ、そうですね。それなりに存じ上げています」
「どのくらい知っているのでしょう?」
「ちい姫の産みの母であること、先の桐壺の更衣の従兄弟の明石の入道の1人娘だということ、父様が須磨に行き明石に行ったときに出会ったこと、筝の琴と琵琶の名手であること。このくらいでしょうか」
「ほとんどご存知なのですね」
だって源氏物語読みましたから。
「源氏の君からお聞きになったのですか?」
「いえ、なんというか、諸事情により知ることができました」
間違ってはいない。諸事情とはって感じだが。
「では、秘密にすることは何もないですね。……ちい姫は元気ですか? 仲良くしていらっしゃるのですよね? どのくらい大きくなったのでしょう」
「ちい姫とはとても仲が良いです。いつでも一緒にいるくらいですよ。元気が良すぎて僕が振り回されていますね。今は僕より少しちい姫の方が大きいです。でも、僕だってこれから伸びるので抜かしますけど」
「ごめんなさいね。仲良くしてくださってありがとうございます」
愛情が溢れ出ている声で言った。
お腹を痛めて産んだ子を3歳で手放して、その後は人づてにしか様子を聞けない。同じ敷地内には住んでいるが絶対会えない。なんだか不憫だ。
「同い年の兄妹ですから。……そうだ。これからたまにこちらに来て、ちい姫の様子をお伝えしましょうか?」
「まあ! ……嬉しいですけれど、源氏の君に伺ってみてください。わたくしでは判断できません。お許しが出たらぜひ来てくださいまし」
「分かりました。戻ったら父様に聞いてみますね」
「お願いします」
「それでは、今日はこの辺で失礼します。……あ、春の町まで案内をお願いしても……?」
すっかり忘れていた。迷子の演技をするつもりが本当に迷子になっていたんだった。
「そうでしたね。大弐、お願いします」
「かしこまりました、お方さま」
先ほどの親切な女房は大弐というのか。覚えたぞ。
「ご案内いたしますね、千鶴さま」
「お願いします」
ーーー
「こちらまで来ればあとは分かりますか?」
「申し訳ありません、ありがとうございます」
見慣れたいつもの春の町。いやーこの間もそうだけど、迷子になると重要人物に会えるな。よし、積極的に迷子になろう。
密かな決意なんておくびにも出さず、礼を言って大弐には帰ってもらった。
「千鶴! ずるいわ、わたくしだけ歌のお勉強をするなんて!」
「ちい姫。お疲れ様」
一生懸命こちらを睨んでいるが、全く怖くない。むしろ可愛い。
「もう! 千鶴はお勉強しなくていいなんて! 千鶴の方が男の子なのに……」
「僕は歌が出来なさすぎて勉強してもこれ以上上手くならないからだよ。ちい姫は才能があって、勉強すればもっと上手になるって思われたんだよ」
「……本当? うふふ、それならいいわ。千鶴にできないことをわたくしがするのね。それにしても、今どこに行っていたの?」
チョロいな…………なんて思ってませんけど?
「僕はまた迷子になっていたんだよ。花散里さまのところへ行こうと思っていたんだけどね」
嘘ではない。下心はあったけれど。
「また? 千鶴ったら迷子になりやすいのね」
からかうような視線。だが君の産みの親に会ってきたんだぞ、とは言えないからな。仕方がない。
「結局、花散里さまのところには行けてないから今から行こうと思うんだけど」
「わたくしも行く!」
「言うと思った。はい」
ちい姫が僕の差し出した手をぎゅっと握った。
ーーー
「まあ、千鶴さま、ちい姫さま。いらっしゃいませ」
「花散里さま!」
夏の町にやってくると、ふっくらしてとても優しい花散里が迎えてくれた。
「まあまあ、元気が良くてよろしいですわね。ちょうど夕霧さまもいらしておりますよ」
「兄様がいるの? ……あ、兄様!」
なんと夕霧が先客としていたか。
ニコニコして手を振っている。
「やあ、千鶴にちい姫。君たちも花散里の母上のところに来たんだね」
花散里の母上。そっか、源氏が花散里に夕霧の母親代わりを頼んでいたんだった。夕霧の実母、葵の上は早くに亡くなっており、片親だと何かと不便だと思ったから。
「ええ、花散里さまは行くといつもお菓子をくださるのよ。とてもお優しいし、わたくし大好きなの!」
「あら、嬉しいこと。ちい姫さまにそのように思っていただけるなんて」
ふふふ、と手を口元に持っていき笑った。
「はは、現金な姫だ。では、ちい姫と千鶴が来たので、私は失礼しますね」
「またいらしてくださいね、夕霧の君」
「わたくしたちのところにも来てくださいね、おにいさま」
「また来ます。姫のところにも行くよ」
「兄様、今度はもっと遊びましょうね」
「分かった、千鶴。じゃあね」
皆んなに惜しまれている夕霧。
いいな、僕もああなりたい。皆んなに好かれるような人に。
「そうだ。先ほど父上に聞いたのだけど、今日は兵部卿の宮さまがいらっしゃるそうだよ」
兵部卿の宮というと……、源氏の弟か。桐壺帝の三男。蛍の巻で玉鬘を見るという主役を務めたことから、あだ名は蛍兵部卿の宮。
……え、ということは、今日が蛍の日?
玉鬘を訪ねて来た兵部卿の宮と玉鬘の間で、源氏が大量の蛍を離す。蛍の光で御簾なんて役に立たない。玉鬘の美しい姿を見て恋しちゃう。という話。
あの有名なシーンに立ち会いたい! ぜひともその場にいたい!
よし、叔父上に挨拶に行こう。
「千鶴、千鶴ったら。もう、話を聞いているの?」
「うん? ……あ、ごめん聞いてなかった」
ちい姫が怒ったような顔で覗き込んでいた。
「叔父上のところへ挨拶をしに行きましょ」
「そうだね。僕もそう考えていたところだよ」
「では、花散里さま、わたくしたちももう帰りますね」
「ええ、また来てくださいね」
「今回は慌ただしくなってしまって申し訳ありません。また来ますね」
退出の挨拶をして部屋を出た。