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間話 犬君視点

いきなり乳母を頼まれた犬君目線で書いてみました

「犬君、わたくしの子の乳母(めのと)をお願いしたいの」


 8年前、主人の紫の上さまから言われた一言。


 攫われるようにして源氏の君の奥方になられた姫さまだけれど、お子さまがお生まれになるくらい寵愛深くていらっしゃるようで良かった。


 私を見つけて、自分の赤さまの乳母にしてくださるくらい信頼してくださっていたのも嬉しかった。夫が衛門佐、そして蔵人になれたのも大きい。彼は源氏の殿に随分使われているようで、疲れて帰ってくる事が多いけれど。


「犬君、どうしたの?」


 私の今の主である千鶴君さま。源氏の大臣の次男であり、姫さまの念願の第一子。


 8歳にしては少し小柄で眩いばかりに美しい御子だ。

 殿がお小さい頃は光る君と呼ばれていらっしゃったようだが、私は千鶴さまが光り輝く君だと思う。

 切長で笑うと弓なりに細くなる目、すっと通った鼻筋に綺麗なお口。姫さま譲りの艶やかな黒髪は緑に煌めいており、袖から覗く細い手足は白魚のように滑らかで美しい。

 お父君にもお母君にもよく似ていらして、なんとも愛嬌のある可愛らしいお顔立ちだから、屋敷中の誰からも可愛がられて好かれていらっしゃる。


 今なんて、こちらを見上げてほんの僅かに首を傾けていらっしゃる。なんと愛らしいことでしょう。


「何でもございませんよ、千鶴さま」

「そう? ならいいんだけど」


 再び顔を前に向けて我が子の菊丸と竹丸と他愛無い話をしていらっしゃる。


 3人で話していると、千鶴さまも年相応の無邪気な表情をなさる。笑顔だけでなく顔を(ひそ)めて不快感を遠慮せずにあらわにする。

 主従関係としては馴れ馴れしすぎると今も思ってはいるが、それだけ息子たちと打ち解けてくださっているのだろう。



「千鶴さま、今日はどちらへ?」


 菊丸に連れられてきただけで、どこに行くとは言われていない。


「んー? 秘密!」


 菊丸と竹丸と視線を合わせて笑いながらそうおっしゃった。我が子たちも絡んでいるのだろうか。


「菊丸、教えてちょうだいな」

「若が秘密と言っているので教えられませんね」

「竹丸?」

「母上とあっても教えません!」


 千鶴さまだけではない。可愛い息子たちもこんなに子どもらしい笑顔を見せるのかと驚いてしまう。


「母に隠し事をするとは困った子たちね」

「もうすぐ着くから。あと少しだけ秘密」


 いたずらっ子のように微笑んでおっしゃった。

 しばらく渡殿を歩いて先頭の千鶴さまが立ち止まった。


「着いたよ」



 目の前には満開の桜の大木があった。


 桜の花びらがはらはらと散るの中、周囲には桃やら薔薇(そうび)やらボケなど、春の花々が少しずつ植えられており、この一角だけがまるで花園のような幻想的な雰囲気であった。


「まあ! なんと見事な……」

「ここは春の町の端でしょう? あまり人は来ないけどこの木はとても立派だから、庭師のお爺さんに頼んで植えてもらったんだ」

「千鶴さまがお造りになられたのですね」

「菊丸と竹丸と一緒に考えたし、僕は指示を出しただけで実際に作ったのはお爺さんと下人たちだけどね」


 息子たちと一緒にとおっしゃるが、お役に立てたとは思えない。きっと千鶴さまは殿に似ておいでだから、風流事にも通じていらっしゃるのだろう。


「いつもありがとうってことで、この景色を見せたかったんだ」


 景色に食い入って見惚れている私に向かって千鶴さまがおっしゃった。


「まあ、それは、…………ありがとうございます。私こそ千鶴さまに感謝しております」


 思わず涙が出てきそうになって、袖で顔を覆いうつむいた。


「ほら、二人も」


 千鶴さまが我が子たちの背中を押して何かを促す。


「母上、いつもありがとうございます」

「あー、なんというか、その、……ありがとうございます」


 菊丸が目を真っ直ぐに見て、竹丸はそっぽを向いてボソボソと言った。


 二人の言葉に、せっかく我慢していた涙がドッと溢れた。

 今まで子どもたちから感謝を伝えられたことなどないし、私のためだけでなくともこの見事な景色を見せてくれたことに感情が抑えられなかった。


「こんなに泣くとは」

「若様の前で」

「母上、そんなに泣かないで」


 声をかけてくる3人に応えることもできずに袖を濡らし続けた。



ーーー



「犬君、どうしたの?」


 千鶴さまは漢詩の授業中でいらっしゃるので、姫さまのおそばでお仕えしていると、ふと声をかけられた。


「どうした、とは?」

「顔が緩んでいてよ。何か嬉しいことでもあったのではなくて?」


 顔が緩んでいたなんて。


「先日、千鶴さまと息子たちに驚かされまして。感謝の言葉を聞けるとは思っていなかったので、年甲斐もなく号泣してしまいました」


 姫さまはきょとんとした顔をなさるけれど、あの場所のことは秘密と言われたので、姫さまとはいえ言うことはできない。

 不思議そうに見てくる姫さまに微笑んだ。




 あれほどの幸せをくださって、本当に千鶴さまにお仕えできて良かった。


 暖かな春の風が御簾を揺らした。


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