イロモノ作家(仮)は、純文学の夢を見るか。
ここに、一人のイロモノ作家(仮)がおります。
おかしな物語に、おかしな文体、おかしな表現方法…まず国語の教科書に載らないタイプの、花のない不恰好な文章をただ書き続けています。ただただ、思いついたことをつらつらと書き連ねており…物語は、純文学として、世間一般に公開されています。
イロモノ作家は、非常に厚顔無恥でありました。
誰かを気にすることなく、ただ自分の欲のままに、拙い文章を発表し続けております。実に、実に…幼い文章です。文章とはかくあるべき、発表に値しない物語は公にすべきではない、そういう批判を真っ向から浴びた時、イロモノ作家は言いました。
「これは文章ではなく、ただの文字列です。批判するだけ貴方の時間がもったいないですよ。」
自分の書くものは、ただの文字列であり、文章ではなく…、文章でない文字列を使って、物語っぽいものを発表しているにすぎないというのです。純文学は、芸術性のある小説全般を指すものであるから、私の書いたものもお邪魔させていただいているのだと、イロモノ作家はこたえました。
それを聞いたとある文学者は、イロモノ作家に言い訳をするなと言い放ちました。
「学がない癖に物語を綴ろうだなんて、文学を冒涜している、恥を知れ!!気軽に純文学を…名乗るな!!!」
ずいぶん、怒りを向けられたイロモノ作家は困ってしまいました。純文学という名前に勝手に幻想を抱いていて…どんな物語でも、文章でも、受け入れてもらえるものだとばかり思っていたのです。
黙り込み、あごの下に手をやるイロモノ作家を見て、文学者は腕を組んでうなり声をあげました。
「ウーム、かくなる上は…。」
…知識のある者は、知識のない者の知らない単語を使い、知識のない者の知らない四字熟語を用いて、知識のない者には読解できない物語を発表していました。物語はこうあるべきだという、知識のある者の常識を詰め込んだ…大変に難しい、物語でございます。
…知識のある者が、知識のある者が書いた難しい物語を、知識のない者に手渡しました。
「これを読んで、本物の文学の在り方を知るがいい、察するがいい、そして愚かな自分に気づくがよい。」
…知識のない者は、ざっと物語に目を通して、自分には理解不能な物語だと思ったようです。
…知識のある者が、物語の読後の感想を待っているようです。
知識のない者には、難しくて読むことができませんでしたという事ができます。
知識のない者には、難しくて読むことができませんでしたと言わずに、理解できるまで読み続けることができます。
知識のない者には、難しくて読むことができませんでしたと言わずに、理解したいと思えず手放すことができます。
難しい物語を手渡した者と、難しい物語を手渡された者の間に…様々な感情が入り乱れているようです。
私の知識を詰め込んだこの物語を、読んでもらいたいのだ。
私の知識を詰め込んだこの物語を、理解してもらいたいのだ。
知識のない者が、知識のある者を称えているのではないかと錯覚します。
知識のない者が、知識のある者を羨望のまなざしを向けていると錯覚します。
私の知識を詰め込んだこの物語を、読めるように知識を高めよ。
私の知識を詰め込んだこの物語を、まだ読むことができないのか。
私の知識を詰め込んだこの物語を、なぜいつまでたっても読まないのだ。
知識のある者が、知識のない者を憐れに思っているのではないかと錯覚します。
知識のある者が、知識のない者を軽蔑しているのかのではないかと錯覚します。
物語を読ませたいのですか。
知識量を見せつけたいのですか。
わからない言葉の集まった文字列は、知識のない者の前では…ただの文字の塊であって、理解など、到底できる者ではないのです。
それはまるで、知識のある者が、難しい物語を理解できない者を目の前にして、お前は私よりも劣っているという優越感に浸りたいと考えているのではないかと疑ってしまうほどに。
「読めるようになったら読ませていただきます。」
難しい物語は、いまだ読まれることなく…イロモノ作家の手元にあります。
難しい物語が読まれる日を待つ者は…いつの間にかイロモノ作家の元から消えていました。
難しい物語を手にしたイロモノ作家は、自分の本棚に難しい本を並べ…ふと、手を伸ばしました。
「ああ、この本は。」
ここに、豊富な語彙力を持つ者が書いた、一つの物語がございます。
豊富な語彙力を持つ者が書いた物語は、物語を読む者たちの中で…絶賛する者の声が聞こえてきました。
豊富な語彙力を持つ者が書いた物語は、物語を読む者たちの中で…理解できないと嘆く者の声が聞こえてきました。
難しい単語と類まれなる豊富な語彙力を持つ者の書く物語は、難しすぎて…理解することができる者を選ばざるを得ませんでした。
豊富な語彙力を持つ者の書いた物語は…ずいぶん読む者を選びました。知識がなくては、読むことができない物語だったのです。知識に自信のある者は、こぞってこの難しい物語を読み進めました。難しい言葉に覆い隠された、難しすぎる物語。読めたことに喜びを感じる、読解力が問われる物語…。
読めない者、理解できない者を…嘲笑する者がおりました。
「これくらい理解できなくては、物語を楽しむことなど…できないのだ。知識のない者はつまらない生き方をしているようだね。」
…イロモノ作家は、嘲笑された一人でありました。とびぬけた知識はないが…つまらない生き方をしているとは思っちゃいないので、勝手に決めつけられて些か気分が悪かったのです。
「理解できないというのならば、理解できるまで…努力をしてみようか。」
イロモノ作家は、難しい、難しい物語の、難しい、難しい言葉を、難しい、難しい表現でゴテゴテに塗り固めた物語を、ひとつづつ、ひとつづつやわらかく変えていきました。誰にでも理解できるような、わかりやすい単語と、わかりやすい表現を用いて、難しい物語から…知識の壁を取り払い、手を伸ばせる物語へと変えたのです。
やわらかくなった物語は、何の変哲もない…ただの物語でした。
類まれな語彙力という装備を纏った難しい物語は、恐ろしく…中身のない物語だったのです。難しい言葉と、難しい表現、理解するのに必死になる物語は、難しさがあふれる中で、一つの物語という道筋を見出し、そこに感動を感じる作品であったのです。
「理解してみたら、ずいぶん内容の薄い物語だったよ。」
イロモノ作家は、難しさの消えた難しい物語を豊富な語彙力を持つ者に差し出しました。やわらかくなった物語を見た、難しい物語の作者である豊富な語彙力を持つ者は…些か気分の悪い様子で言いました。
「私が書いた物語ではないから、内容がないのは当然だ。」
語彙力のない者には理解できない、崇高な物語である…この物語を読むためには、それ相応の知識と理解力が必要であり、万人に理解できるような物語になってしまった時点で、この物語は私の書いた物語ではなく…もはや侮辱に当たるのだといいました。物語は誰かが生み出した、ただ一つの物語であり、その表現方法でさえ唯一である…ならば読解困難な言葉であふれる物語を容易い言葉で置き換えた時、その物語は別作品となってしまうのだといいました。
物語を生み出した作家にとって、物語の姿が著しく変えられてしまう事は…確かに、気分の良いものでは、ないのです。
「では、私も…同じことをしてみようか。」
難しい物語を書いた豊富な語彙力を持つ者は、イロモノ作家の拙い物語を…類稀なる語彙力を駆使して、誰もが手を伸ばせない物語へと変えました。それを見たイロモノ作家は…言葉を失いました。
「まったく、意味が、分からない…。」
拙い物語は、読解困難な物語に変わり…イロモノ作家は自分の物語が消えたことを知りました。
誰かの物語に介入すること、自分の物語に介入されることの怖さを知ったイロモノ作家は…より多くの誰かに、自分の文字列を見て貰えたらそれでいいと考えるようになったのです。誰もが読むことができる文字を使って、言葉を使って…誰もが理解できる物語を書きたいと願っていたのです。言葉を知らない者にも伝わる物語を書きたいのだと、気が付いたのです。
…イロモノ作家は書けない物語を書こうとは思わないのです。
自分の中にない単語を用いて物語を書くことなどできないことを知っているからです。
自分の中にある単語で書く物語は、豊富な語彙力を持つ者から見れば…ずいぶん未熟に見えてしまうことを知っているからです。
自分の中にない単語を無理に使って書く物語は、豊富な語彙力を持つ者から見れば…未熟な部分にしか目がいかないことを知っているからです。
誰かの書く物語を、未熟で拙い幼稚な文字遊びだと評する、知識のある文学者がおります。この文学者は…未熟な物語を、次から次へと…酷評しております。たいそうたくさんの…難しくない物語が、ずいぶん、ずいぶん酷評されております。たった一人の文学者に、たった一言、お前に物語を書く資格はないと評された作家が…ぱたり、ぱたりと筆をおいていくのを、イロモノ作家はただ、見送る事しかできません。
…繊細な物語に、重厚な語彙力の装備は、必要なのか、それとも。
…力のある物語に、重厚な語彙力の装備は、必要なのか、それとも。
…物語に、重厚な語彙力の装備は、必要なのか、それとも。
難しい鎧を着こんだ、堅苦しい物語がここにあるとしましょう。
ゴテゴテにかためられた、その中身の姿は…。
非常に軟弱で、鼻息で吹っ飛ぶような物語である可能性があります。
鎧など纏う必要のないくらい、力を蓄えた屈強な物語である可能性があります。
例えば、知識のない人にもし知識があったならば、溢れんばかりの語彙力を見せつけ優越感に浸っているその物語は、非常につまらないものであることに気が付いてしまう事もあるでしょう。
例えば、知識のない人にもし知識があったならば、溢れんばかりの語彙力を見せつけ優越感に浸っているその物語は、非常に魅力的で人生を変えてしまうような影響を与える作品であると気付く事もあるでしょう。
けれど、知識がなくては、知識のある者が書いた難しい物語を知識のない者は理解することができないのです。
知識のない者が…知識を蓄えて、時間をかけて読みたいと思うような物語であれば、いずれ…難しい物語は知識のない者にとって、難しい物語ではなくなることでしょう。
例えば、知識のある人が知識のない者の書いた物語を、語彙力の無さを理由に目を背けているのであれば、幼稚さに隠された陶酔するような魅力に出会う事ができないかもしれません。
例えば、知識のある人が知識のない者の書いた物語を、語彙力の無さを理由に目を背けているのであれば、未熟な表現や足りない説明に腹を立てることはないかもしれません。
知識を放り出して、幼稚な文字列の中に浮かぶ物語を拾い上げる者は…少なくありません。
物語を楽しみたいと願う者は、この世界に溢れているのです。
物語を楽しみたいと願うがゆえに、物語を求める者があふれています。
物語を楽しみたいと願うがゆえに、物語が穢されることを嫌う者も…いるのです。
物語を楽しみたいと願うがゆえに、物語を理解できないことを悲しむ者も…いるのです。
物語を楽しみたいと願うがゆえに、知識を蓄える者がいます。
物語を楽しみたいと願うがゆえに、知識を手放す者がいます。
物語を楽しみたいと願うがゆえに、自由に手を伸ばす者がいます。
物語を楽しみたいと願うけれども、知識を手に入れる事ができない者がいます。
物語を楽しみたいと願うけれども、知識に手を伸ばす事ができない者がいます。
物語を楽しみたいと願うけれども、自由に手を伸ばす事ができない者がいます。
物語を楽しみたいと願うけれども、物語を楽しめない者が、いるのです。
物語を楽しみたいと願うけれども、物語を楽しむことができなくなった者が、いるのです。
物語を書きたいと願う者がいます。
物語を書く者がいます。
物語を書かない者がいます。
物語を書けない者がいます。
物語を書いてほしいと願う者がいます。
物語を書くなと言う者がいます。
物語のまわりには、たくさんの…たくさんの物語を愛する者がいます。
物語のまわりには、たくさんの…たくさんの物語を嫌悪する者がいます。
物語を読む者と物語を書く者がたくさんいる、ただ、それだけの事だと…気付く者は、どれほどいるのでしょうか。
イロモノ作家は、手に取った難しい本を…難しくなってしまった自分の物語の横に戻しました。ゴテゴテの鎧を纏って、魅力を鎧の下に隠してしまった自分の物語の横に、いつになったら読みたいと思えるのかわからない難しい本を並べました。
「鎧など、纏う必要はないのだよ…纏いたいものだけが、纏えば良い。」
そういって、イロモノ作家は笑いながら物語を書き始めました。
…鎧には鎧の美しさがあり、素っ裸には素っ裸の魅力がある。語彙力を見せつける物語も、足りない語彙力を拙い文章で補う物語も…すべからく、魅力を持っているのだと、イロモノ作家は知っているからです。
誰かに評された、物語ですらない拙い文字列…しかし、その文字列は、イロモノ作家の中では、歴とした物語なのです。物語ではないと決めている人がいるのであれば、そういう考えの人もいるのだと容認する…おおらかな心持ちが必要だと思っています。自分の書く物語は、誰かにとっては文字列でしかないのかもしれない、しかし、自分の中から出てきたこの文章は…確かに物語であると考えています。
…起承転結のない、いきなり終わる物語も。
…冒頭で答えの出ている物語も。
…つまらない言葉のやり取りを繰り返す物語も。
…つながりのない、突拍子もないごり押しの物語も。
イロモノ作家は、ごくたまに…夢を見ます。ただ、登場人物の内情を美しい文体で書き連ねた…抑揚の少ない、落ち着いた物語を書く夢です。まず、自分が書かないであろう…自分の中にない、物語を書く、夢です。そして、この夢を見るたびに、なんで自分はこのような物語を書いているのだろうと不審に思いつつ、ずいぶんその内容に満足しているのですが…肝心の物語の内容は全く覚えていないのです。
それは、ただ単に…日々の中で純文学に触れた折にかすかに残る記憶が見せるものなのでしょうか。
それとも、イロモノ作家である自分が…純文学かくあるべしという物語を書きたいと願って夢となり、見せているものなのでしょうか。
…もはや突拍子もない物語しか書けなくなってしまったイロモノ作家は、純文学と銘打っておかしな物語を発表し続ける中で、頑なに純文学という括りで物語を書くことに諍っている事実に、気付いていません。
無意識のうちに、書いたら負けだと思っているのかもしれません。
無意識のうちに、自分の知識のなさを露呈させぬよう気を張っているのかもしれません。
無意識のうちに、誰かの糾弾を受ける可能性を避けているのかもしれません。
無意識のうちに、真面目な自分という一面を見せることを恥ずかしく思っているのかもしれません。
如何に、目を引いて…不真面目な物語を書くか、そこに執着しているイロモノ作家は…夢の中でだけ、純文学を書いているのかもしれません。誰の目にも触れぬ、夢の中でならば、何を書いても誰も何も言いません。
…夢を見ている自分でさえ、書いている内容を知らないのです。
…夢を見ている自分でさえ、何も言うことはないのです。
イロモノ作家は、純文学の夢を見ているのでしょうか?
いつか、イロモノ作家の見た夢が、物語になる日が来るまで…その答えはわからないのです。