一章 七
費禕の執務室にてあれほど懐疑的な眼差しを向けていたにもかかわらず、邸に戻ってから数日経っても姜維は夏侯覇へ問い詰める事はなく、これまでと同じように夏侯覇の世話を続けていた。
そうなると、困るのは夏侯覇の方である。疑われたまま同じ屋根の下で過ごすのは、なんといっても心臓に悪い。何か疑問があるのなら、早めに問い質してほしい。そう考えやきもきするのだが、とはいえ自分から話を切り出すのも疑いを深めかねない。
そうこう悩む内に夏侯覇の邸の手配が完了し、結局何も聞かれる事なく己の邸に移る日が来てしまったのだった。
「失礼します。此方は夏侯仲権殿の邸にて、間違いないでしょうか」
来客があったのは昼過ぎ。劉禅が手配した家具を邸へ運び終え、暇を持て余し始めた頃である。邸の玄関で掃除をしていた夏侯覇の元へ、姜維と同じか少し年上に見える体格の良い男が二人訪れたのだ。
「はい。私が夏侯仲権ですが、お二人は……?」
「初めまして、仲権殿。俺は張子昂です」
「弟の張仲文です」
兄弟という言葉に偽りはないらしく、二人ともよく似た顔で短い黒髪を揺らし並んで拱手する。そして、どちらも「張」姓を名乗った。今の夏侯覇にとっては、その姓の人物が自分を訪ねて来る理由の心当たりはひとつしかない。
「張ということは……お二人はもしや、月姫叔母上の……?」
「はい、息子です」
「仲権殿は私達の従兄でいらっしゃると聞きましたので、挨拶に参りました」
二人は、張苞と張紹。張飛と夏侯月姫の息子であり、張皇后の兄――つまり外戚であり、夏侯覇の従弟である。兄の張苞は武官、弟の張紹は文官としてどちらも劉禅に遣えており、関羽の息子達と併せこの国で名を知らぬものはいない程の有名人でもあった。
「そうでしたか、ご丁寧にありがとうございます。叔母上は、息災ですか?」
「それが……父が亡くなってからは、長らく憔悴しておりまして」
全く想像出来ないが、張飛と月姫の夫婦仲は非常に良好であり、おしどり夫婦として名が通っていたらしい。故に十数年前、張飛が部下に殺されてしまった際酷く悲しみ、未だに回復しないのだと二人の息子は語った。それには夏侯覇も驚きを隠せず、同時に憔悴しているという現状に肩を落とす。そんな状態の叔母に会って良いものかと迷いすら浮かぶのであった。
「ああ、気を落とさないでください。実は、仲権殿がいらっしゃったと聞いてからは少し元気になったんです」
「お暇が出来ましたら、是非会っていただけると母も喜びます」
「それは勿論……此方こそ、お願い致します」
面識など二十数年前に数回しかないというのに、それでも叔母は自分と会えることを喜んでくれるというのか。正直なところ、夏侯覇にはその気持ちは理解できそうもなかった。だが、一族から離れ長年敵国で過ごしてきた叔母にとっては、甥である自分でも二度と会えないかもしれなかった貴重な同姓の親戚に違いはないのだろう。そう考えると、とても他人事とは思えない。
恐らく、彼らに費禕の依頼は未だ届いていなかったのだろう。夏侯覇の返事に表情をぱっと明るくさせた兄弟は、過分なほどに礼を口にしながら張家の邸への案内を買って出たのであった。
「あれ、苞と紹じゃん。こんな所で何してんの?」
玄関先で話し込んでいた二人を邸内に招き入れようとした夏侯覇の元に現れたのは、茶髪の癖毛の青年。二人を字ではなく名で呼んでいるため身内であるには違いないだろうが、髪色や顔つきが異なり張兄弟の血縁者には見えない。
「興……見れば分かるだろ、挨拶だ」
「あ、仲権殿じゃないですか。先日はお疲れ様でしたー!」
「安国兄、もう挨拶をしていたんですか?」
「んー……そういえばしてないや」
張苞の言葉を流しながら、自由に話し続けるその人物の雰囲気には既視感があった。そう遠くない過去に、似たような人物に会ったような。しかし、それが誰であったか思い出そうとする夏侯覇を押し退けんばかりに、勢いよく自己紹介が始まってしまった為、考える前に答えを出されてしまったわけではあるのだが。
「おれは関安国。漢中で先に会ってる索の兄貴です、どうぞよろしく!」
関興――関羽の次男であり、漢中で会っていた関索の兄でもある。関索の方は他人との距離感が物理的に近い個性的な人物ではあったが、関興は関興で他人との距離感が心理的に近いらしく、弟以上に個性溢れる人物のようである。
あまりにも馴れ馴れしく、しかし満面の笑みを浮かべ特に嫌味もないため、夏侯覇は関興の勢いにただ押されるばかりであった。
「あ、はい。よろしくお願いします」
「って言っても、もう謁見の時に会ってるんですけどね」
「謁見……?」
謁見というと、夏侯覇が初めて成都に入った日と、その翌日の二回しかない。そこに参列していた人物を思い出そうそしても、ほぼ全員が初対面の人間ばかりのため、余程外見が個性的でもない限りなかなか印象には残らないのだ。
ただ、皇帝である劉禅ともう一人だけは違う。最初の謁見の際、劉禅が意見を求めた人物が居た。それが皇帝と妙に親しく話していた、癖毛の侍中である。
そう、関興と同じ癖毛である。
「……まさか、あの時の侍中ですか?」
「あ、覚えててくれました? そうそう、おれ侍中なんですよね」
こんなに軽い侍中は見たことがないが、もしかすると劉禅にはこの軽さが気に入られているのだろうか。費禕といい関興といいこの国の文官は緩い人間ばかりなのか。と夏侯覇は恐れたが、実は張紹も同じく侍中のため単純にこの二人が緩いだけなのであった。