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胡蝶の夢、華の未知  作者: 天海
一章
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一章 六

「――さて、軽い話は此処までにしておこう。仲権殿、聞かせて欲しい情報がある」


 そんな和やかな空気を変えるように、ひとしきり笑った費禕は声を落とす。

 亡命して今日まで一切問われることがなかった情報。そして、本来なら真っ先に問われているはずの情報である。思い当たる節はひとつしかなく、夏侯覇は遂に口にする時が来たのかと腹を決める。


「魏の内情……でしょうか」

「ああ、話が早くて助かる。司馬氏の謀反などの大きな出来事は把握できるが、子細はなかなか入ってこなくてな。実際に内部――しかも軍の上層にいた君の存在は、非常に貴重なんだ」

「……あくまで、私が知り得ることが出来た情報という事を、先にご留意ください」


 異様な厚遇をされるほど信頼された以上は、躊躇っている場合ではない。そもそも、生まれ育った母国に対する後ろめたさは感じるものの、既に司馬一族への憎しみの方が勝っているのだ。

 椅子に腰掛けていた夏侯覇はその場に立ち上がり、費禕と姜維に向けて拱手し改まる。


「魏では、蜀を滅ぼすことは難しいという意見が占めております。この地は稀に見る天険の地、守り易く攻めるにはあまりに厳しい環境にある。もし攻めることが出来ても、以前と同じく漢中までが関の山。地の利が蜀にある以上、それ以上の南下は難しい――それが諸将の共通認識です。最大の脅威であった諸葛孔明(こうめい)が没した今であっても、その認識に変わりはありません」

狄道(てきどう)の辺りはどうだ。魏で、軍事拠点を作る動きはあるのか?」

「いえ。あの辺りは(きょう)が幅を利かせているので、それはないかと」


 狄道は漢中を除き、唯一と言っていい安全な蜀への経路の出入口である。当然ながら蜀側ではなんとしても死守しなければいけない地であり、狄道から成都への道中にはいくつもの拠点が作られ軍が常駐しているという。

 一方、魏も軍を派遣し確保しようとしていたが、国内が混乱しておりそれどころではない状態である。更には近年、蜀と連携している羌族が狄道の辺りまで出てきている事もあり、魏としては現在安全な経路とは言い難い地となっていた。


「ならば、暫く戦はないと考えていいか」

「はい。司馬氏の謀反によって混乱した今、攻めるには更に時を要するでしょう。遼東の民や羌も反抗を続けておりますし、内乱も決して少なくない。呉も度々北征を起こしている現状では、まず国内の安定を図る他ないと思われます。そもそも南征には消極的なので、数年の間は余裕があるでしょう」

「……数年というのは、何か根拠があるのでしょうか?」

「はい。未だ年若い将ではありますが、有望な――そして、我々にとっては脅威になりうる者がいます」


 姜維の疑問に軽く頷き、夏侯覇はほんの数日前までは仲間だった者の顔を思い出していた。といっても夏侯覇とその者達に深い親交はなく、評判に関する情報の殆ども人伝に聞いているものに過ぎなかったが、それでも二人。その二人だけは、敵に回った今、どうしても見過ごすわけにはいかない逸材であったのだ。


「まずは、鄧艾(とうがい)。叩き上げの役人ですが、地理に強く軍略にも秀でている男です。ここ数年は、尚書郎として呉方面の戦場にも出ております。そして、もうひとりは鍾会(しょうかい)鍾繇(しょうよう)の末子で、若くして既に尚書中書侍郎まで昇進している俊才です」

「鄧艾、鍾会……」


 これまでに二人は対蜀の戦には出ていない為、姜維と費禕も聞き覚えがないようである。しかし、二人は司馬一族に重用されており、今回の謀反にも加担している。このまま司馬一族が魏を支配した場合、そのお気に入りの二人が軍で権力を握るのは目に見えていた。


「若さ故かは分かりませんが、鍾会の方は随分と型破りな人物でしてね……あれが軍で力を振るうようになった場合、我々の常識が通用しない恐れがあります」

「なるほど……規格外の相手というのも困ったものだな」

「本当に。出来る事なら、あれを敵に回さずに勝ちを掴みたいものです」


 どちらも優秀とはいえ性格に難があるが、特に夏侯覇が問題視していたのは鍾会の方であった。幼い頃より秀才であり神童として有名であったが、なにより問題なのはその優秀な頭脳を悪用する性格にある。味方であっても、彼の機嫌を損ねた者は容赦なく讒言で陥れているらしいという話が夏侯覇の耳に届いたのは、一度や二度ではない。そんな者が敵に回れば、どうなるかは分かり切っているだろう。肩を落とす夏侯覇の様子に、費禕は笑いながら力を抜く。


「ははは、相対する前には何とかしたいな。伯約」

「ええ……とはいえ、猶予がある間は引き続き内政を強化するべきでしょうね」


 硬い話が終わったと判断したらしく茶を淹れていた姜維は、費禕の言葉に頷き三人分の蓋碗を卓に並べる。そんな二人の会話を聞き夏侯覇は耳を疑った、衝撃のあまり思わず声を上げてしまったほどだ。


「どうかしたか、仲権殿?」

「あ、いえ……てっきり、司馬氏の謀反により乱れている隙に、北を攻めるものと思ったので」

「そうしたいのはやまやまだが、この国も今すぐ戦が出来るほど豊かではなくてな。まずは、富国に力を入れなければいけないわけだ」


 ――姜維は北征を希望しており、内政を優先するわけがない。

 姜維の発言を聞く直前、夏侯覇はそう考えた。何の根拠もないにもかかわらず、訳の分からない自信がそう思わせていたのだ。だが、実際の姜維の考えは違っていた。強要されている様子もなく、彼はごく自然に当たり前の事のように内政を優先している。この己の思考と現実の違いに、夏侯覇は大いに困惑した。

 思えば、初めて漢中で会った時もそうだった。彼に義兄弟が居ると聞いた途端、彼に義兄弟になり得るほど信頼し合える相手がいる筈がないと、胸の内に猛烈な違和感を抱いたのだ。そもそも、姜維と費禕が仲良く談笑している事自体、おかしいと感じてしまう。自分が姜維や費禕の何を知っているというのか、と、気味が悪くなってしまう程である。

 とはいえ、それを目の前の二人に打ち明けるわけにもいかず、ただ疑問や不安を飲み込み首を振ることで誤魔化すしかなかったのであった。


「そうでしたか……何も知らぬとはいえ、失礼しました」

「いや、君が気にすることはないさ。むしろ、亡命して早々に母国に攻め込むことを考えさせて申し訳ないぐらいだ」


 相変わらず何も疑うことなく朗らかに応対する費禕とは異なり、姜維は二人の様子をただ黙って見ている事に夏侯覇も気付いていた。だが、邸の手配が済むまでは彼の邸に世話になる以上、どこかで問い質されることはあるだろう、と自分から話を振ることはしなかった。


「南の方も落ち着いていることだし、暫く此方から戦は起こさないから、安心してまずはこの国に慣れてくれ」

「はい、助かります」


 しかし、この費禕という人物はどこまで人を疑わないのだろうか。今回、姜維ですら夏侯覇の言動を僅かに疑う素振りを見せたというのに、宰相でありながらここまでただの一度も夏侯覇に疑いの眼差しを向けることがない。

 人柄が良いにも程がある費禕に頷き返し、夏侯覇は密かに疑問を膨らませていた。

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