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胡蝶の夢、華の未知  作者: 天海
十一章
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十一章 五

 休暇も中程まで過ぎ、休みを持て余し始めた夏侯覇の足は、自然と成都の鍛錬場へ向かっていた。体を動かすなら、道具も揃っている鍛錬場が向いていると考えたのだ。

 が、幸か不幸か、そこには先客が居た。


「やあ、仲権殿。お仕事ですか?」


 鍛錬場に一人立ち、槍を振り回していたのは王平である。北伐の後、成都に帰還していた筈の彼の姿を見かけることがなかった夏侯覇は、一月ほど振りに見た昔馴染みの姿に少しばかり安堵していた。


「いえ、少し体を動かしに……どうにも、じっとしていられないんですよ」

「あはは、わたしもなんですよね。どうですか、すこし手合わせでも」

「あ、お願いします」


 普段は兵の訓練に使われている鍛錬場は、この日に限っては既に訓練が終わっており王平以外の人間は居なかった。

 暇があれば一人で身体を動かしている夏侯覇ではあるが、手合せは手合せで得るものが多く好んでいる。早い話が、身体を動かせれば文句のない人間という事ではあるが、武人には似た気質の者が多い為、それを指摘する者がいなければ、本人が自覚することもないのであった。


 二人が打ち合いを初めて数刻程経った頃、木製の武器がぶつかり合う音と、二人の声や息遣い、足音以外の音が聞こえていなかった鍛錬場に、慌ただしく掛けてくる人間の足音が響き、二人は咄嗟に手を止める。


「夏侯将軍! 此方にいらっしゃいましたか!」


 それは、息を切らした様子の一人の兵であった。軽装ではあるが軽い鎧は着けているその姿を視界に入れ、伝令である事を理解した二人は、頷き合いその兵に歩み寄る。


「どうしました、火急のようですか?」

「は、はい! 費将軍より書簡を預かって参りました!」

「書簡……? 何かあったのか?」

「はい、実は――」


 書簡を手渡された夏侯覇は、その内容と兵の説明を耳に入れ僅かに目を見開いた。

 書簡には、突如呉の陸遜が大都督を引退し、家督を息子に譲った事について記されていたのだ。それに加え、大都督は後継がおらず最高責任者は大将軍の諸葛恪になった――と、伝令からは補足されたのだった。

 夏侯覇の記憶の限りでは陸遜は引退する暇もなく憤死しており、息子の陸抗が後を継ぐのも数年経ってからの話である。予め決定していた話だったのか呉国内での混乱も特に起きていないという話を聞き、夏侯覇は困惑するばかりであった。


「――それは、本当か?」

「はい。漢中でも既に騒ぎになっております」


 だが、呉では混乱が起こらなくとも、蜀では少なからず不安の声は上がるだろう。何せ確執はあれども優秀な宰相である陸遜に代わり、やや人格面に難のある諸葛恪が最高責任者に立ったのだ。これまで通りに国交が行われるかどうかも分からない――と、声を上げる者も少なくはなかった。


「そうか……伯約は――」

「伯約殿はたしか、昨日から巴西(はせい)にむかわれていたような……」

「ああ、そういえば維之殿もご一緒でしたね……よし、分かった。これは私が将軍にお渡ししておこう」


 伝令も姜維の姿を探していたのだが、間の悪い事に姜維は関索と共に巴西の視察に出掛けていた。それを思い出した夏侯覇は伝令から書簡を預かり、巴西へと向かうことにしたのである。



 夏侯覇が二日掛け辿り着いた巴西では、二人が視察を終え成都へ戻ろうとしていたところであったが、費禕からの伝令と聞きその地に一泊することに決める。


「――って事なんだけど、どう思う?」

「……何故。まだ、お若いでしょうに」


 書簡を読み終え、夏侯覇から説明を受けた姜維は椅子に座り考え込んでしまった。

 夏侯覇の以前の生では、憤死した時点での陸遜の年齢は六十を超えていたが、現在の陸遜は未だ初老程度である。引退を迎えるどころか、働き盛りの筈にもかかわらず引退を選ぶ理由が分からなかったのだ。


「そういえば北伐が始まる前、芳孝殿が噂を口にしていたな」

「……噂、ですか?」

「隠居しようとしているって噂。あの時は特に気にしなかったけど、事実だったんだね」

「元遜殿との確執でも……? しかし、それほど悪いとは……」


 陸遜と諸葛恪の仲に関しては、蜀漢でも良い噂は流れていない。とはいえ、陸遜側から諸葛恪を嫌っているという事ではなく、嫌うのであれば諸葛恪側からだろうとも考えられていた為、この説は決定打に掛ける。

 そもそも、陸遜という男は人を好き嫌いで区別するような人物ではなかった。


「あの人が、誰かとの確執程度で無責任に職務を放棄するかな?」

「……それはない、でしょうね……ご病気でも、されているのでしょうか……」

「その可能性も視野に入れる必要があるかな。なんにしても、憶測の域を出ないけど」


 一年前に会った時は元気そうにしていたが、この時代、いつどのような時に病や怪我で健康を損なうか分からない。特に呉の治める地は疫病が多く、十数年前にはその疫病により魏軍が壊滅しかけたこともある程だ。その地に住む陸遜ともなれば、何が起こっていても不思議ではないのである。

 とはいえ、それらは全て憶測の話であり確証はない。ここで論じるだけ無駄だと暗に言えば、姜維もまた深く頷きそれ以上の議論は止めるのであった。


「そうですね…………本人に確認を取ってみます」

「それがいいね」


 友人である陸遜の突然の引退に動揺を隠せず口の止まらない姜維とは対照的に、関索はその間険しい表情で黙り込んでおり、一言も言葉を発することはなかった。

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