十一章 三
程よく日が差し込む心地良い昼下がり、成都に帰ってからも張兄弟や関兄弟に捕まり慌ただしかった姜維は、なかなか手を出せなかった自宅の掃除を済ませ一息ついていた。
そんな彼の元へ、毎日の様に顔を合わせている招かれざる客が押し掛けてきたのだった。
「伯約、助けてー!!」
「兄上?」
断りも入れず、悲鳴のような声を上げて邸に上がり込んできたのは、関索。その顔は顔面蒼白と言っていいほどに色を失っており、姜維も瞬時にただ事ではないと察し慌てて義兄の元へ駆け寄る。
まるで何者かの視線から逃れる様に慌てて戸を閉じた関索は物陰に隠れ蹲ってしまったため、その背を擦りながら姜維も異様な緊張感に包まれている己を感じていた。こんな義兄の姿は、戦場でも目にした事がなかったのだ。
「何も言わずに匿って……!!」
「な、何があったのです……」
涙を滲ませ鬼気迫る表情のまま姜維に縋りついた男は、べそをかきながらぽつりぽつりとここに至るまでの経緯を零し始めたのだった。
「――少し待ってください。その……女性に言い寄られている、だけ……ですか?」
「だけじゃない! だけじゃないよ伯約!!」
「ですが、言い寄られるのはいつものことでは……」
関索は一刻程前より、とある女性に言い寄られ追われていたのだという。追いかけるまでは流石にやり過ぎと考えた姜維でも、女性に言い寄られた程度でここまで深刻な表情を見せる義兄には、思わず呆れてしまったのだ。
そんな姜維が本格的に咎めようとしたその時、外から何者かの声と足音が響き関索は咄嗟に物陰に隠れる。その様子に、少々足音が大きすぎるものの、関索を追ってきた女性が正体だろうと姜維も予想したのだが――
「王子様ー! 王子様どこですのー!!」
窓から眺めた先、姜維の視界に入ったものは、砂煙を上げながら成都の町の中を走り抜ける筋骨隆々とした大柄な人物の姿であった。見た目は男にも見えるが声だけは辛うじて女性のものであったため、視覚と聴覚に齟齬が発生し姜維はただただ混乱する。
「…………あの」
故に、回答を求め義兄に視線を向けたのだが、物陰に隠れ震え続けるばかりで姜維の視線に気付く気配はない。
「え……あの、女性? ですよね……?」
「たすけて……!」
「ど、どうやって……」
困惑する姜維の疑問には答えず、関索は将軍という立場に似つかわしくない情けない泣き顔を見せながら、義弟の膝元に縋りつく。その姿はとても二十代も後半になろうという大の大人とは思えない程、悲壮感に溢れており且つ幼稚なものであったが、あまりの迫力に姜維もたじろぐほかなかった。
「伯約、お邪魔するよー」
そこに、姜維と約束をしていた夏侯覇が、荷物を片手に現れた。
家主の返事も聞かずに邸に上がり込んだ夏侯覇の視界には、困惑した様子の姜維に泣きながら縋りつく関索という、一体何がどうなればこうなるのか――という光景が広がっていたのである。
「……あの、維之殿……? どうしたんですか?」
「ちゅうけんどの……」
「…………伯約、これは?」
「それが、実は……」
その異様な光景に、一度は引き返そうと考えた夏侯覇だったが、結局は好奇心に負けてしまったのだった。
「ああ、建寧のあの夫婦の……」
姜維の邸に訪れる際、夏侯覇は成都の町を走り抜ける件の女性とすれ違っていた事から、あっさりと状況を理解した。更には、要領を得ない関索の説明から、その女性の正体まで絞り込んだのだ。
暴れ馬の如く走り抜けていた女性の名は、花鬘。建寧郡――広くは南中と呼ばれる地域に拠点を置く、孟獲の娘である。夏侯覇も話に聞くだけの存在であったが、孟獲の娘は父に似て逞しいという情報を聞かされた記憶があった為、その結論に思い至ったのだ。
「面識があるのですか?」
「いや、子桓殿……の時代に、蜀を攻める際に協力を仰いだらしいんだ。だから大まかな情報は知っているよ」
「なるほど……」
それは、姜維が蜀に降るより数年は前の話である。文帝・曹丕の時代に五方向から蜀を攻めようとした際に、孟獲ら南中の豪族と共謀したのである。結局その策は成功せず、数年後には南中も諸葛亮によって平定されたのだが、関索にとっての災難は寧ろ南中を平定した際の戦の方であった。
先陣を切って軍を進め平定に大きく貢献した関索は、蜀からだけでなく南中の人間からも一目置かれる存在となったのだ。そしてその中に、先の花鬘も含まれていた。
「で、それに言い寄られてしまったんですか……やりますね、維之殿」
「僕まだ死にたくないですー!!」
「いや、死なな……死ぬかな?」
「どうでしょう……」
関索は基本的には朴念仁であり、女性からの好意には全くと言っていいほど気付いていないのだが、花鬘の場合はその朴念仁も働かなかった。彼女自身は決して悪い人間ではないのだが、恋は盲目を地で行くそのあまりにも激しい自己主張と好意の押し付けに、関索は恐怖心を抱く程だったからである。
漢中に滞在している間は追われることもない為関索も心穏やかに過ごしていたが、久々に成都に戻ってきたところ、運悪く遭遇してしまい現在の逃亡劇に至るのであった。
「よし、じゃあ維之殿には溺愛している義弟がいるから、女に興味がないって情報を流して――」
「もう流れてました……」
大真面目に考え込んでいた夏侯覇は、事実ではあるが女性にとっては衝撃が強過ぎる提案を出したが、それは関索を知る者の間では周知の事実である。そして、その程度の情報で引く程、花鬘は諦めの良い人間ではなかった。
「ああ、効かなかったんだ……」
「衆道なんて気の迷いよって……」
「しゅ、衆道……」
義兄弟であるだけの関係をいかがわしいものかの様に扱われた事に姜維は表情を固くしたものの、姜維の反応に対応できる程の余裕がない関索は何も返すことなくさめざめと涙を流している。そんな二人の様子を眺めながら唸り続ける夏侯覇だったが、ふと天啓の様に舞い降りてきたひとつの案に顔を輝かせ声を上げたのだった。
「うーん……じゃあ、こうしよう!」




