十章 五
司馬師との邂逅後、いくつかの部隊を狄道に残し撤退した姜維は、漢中に戻るなり費禕の元へ報告に向かった。
「――以上です」
黙って報告を聞いていた費禕は、姜維が言葉を切ると深い溜息を漏らし頷いた。とはいえ、その表情は明るく、溜息も決して悲観的な感情によって漏れたものではない。目の前で敵の総大将を見逃すことになってしまった姜維は思い詰めていたが、費禕は予想以上に良い結果だとすら感じていたのである。
「とりあえず、狄道だけでもものにできたか」
「はい。現在、要塞を建設しています。半年ほどで、拠点として本格的に機能するでしょう」
姜維率いる本隊と入れ替わる形で狄道には職人が向かっており、既に防衛拠点として本格的に整備が始まっていた。これまでの狄道の拠点は蜀魏の間でも所有が確定しておらず簡易的な作りのものであったが、今回の北伐で完全に蜀の領地となった為、要塞として活用することが出来るのである。
これにより成都へ攻め込まれる経路を塞いだこと、そして長い物には巻かれがちな羌が敵に回る可能性も限りなくなくなったことは、蜀にとっては見た目以上に大きな成果であった。
「策が見破られているかもしれないと聞いた時は、どうしようかと思ったが……いやはや、なるようになるもんだな」
「油断は禁物です。司馬師の言葉を信じるのなら、何者かが我が軍の動きを予測していたというのです」
しかし、姜維は終始渋い表情を浮かべている。司馬師を目前にしながら討ち逃した事も大きいが、対峙した際に語られた、“優秀な部下が陽動を見抜いた”という言葉を気にしていたのだ。それが何者であるかは姜維には見当も付かなかったが、事実であれば今後はより一層脅威となることは想像に難くない。
「なるほど、狄道に司馬師が居たのもそれが原因か……君は、間者の仕業と考えるか?」
「いえ。あの程度の兵数で、それはないかと」
「なら、件の人物は余程の天才ということか……まったく、とんでもないな」
間者――つまり、蜀からの裏切り者が陽動作戦を漏らしたのだとすれば、司馬師の部隊のみが狄道に布陣している筈がない。とはいえ重用されている軍師の意見を受けての事だったとしても、司馬師の率いていた兵は少な過ぎるのだ。故に、それほど重用されていない人物による進言だったのだろうと、姜維は考えたのである。
費禕もその可能性に気付き、思わず感嘆を漏らしながら頭を掻いた。
「焦るなよ。それは敵の思うつぼだ」
「……ええ、分かっております」
漢中に戻ってからもまるで肩の力を抜く気配のない姜維を眺め目を細めた費禕は、戦後の後始末と休暇の予定を言い渡したのだった。
報告を終えた姜維が次に向かったのは、鍛錬場である。今日のところは休むよう命じられたとはいえ、大人しくしていられるほど姜維も素直ではない。
悶々とした感情の当て所を探し、手っ取り早く鍛錬で解消しようと考えたのだ。
「……お二人共、ここにいらっしゃったのですね」
しかし同じことを考えていたのか、鍛錬場では先客が既にがむしゃらな手合せに励んでいたのであった。片方は普段ならば得意の弓での鍛錬を好む男だが、この日ばかりは訓練用の木剣を振り回し手合せを行っている。
その先客は、夏侯覇と関索。二人が手合せを行う事は少なくはないが決して多くもないため、普段他人の手合せを見学する暇のない姜維は、物珍しさに少しばかり呆けてしまったのだった。
「あ、伯約お疲れ! 報告は済んだの?」
「ええ。文偉殿は、十分な戦果だ、と」
「……だろうね、魏領の西部をほぼ取ったようなものだし」
姜維の声に弾かれたように振り向いた関索は、夏侯覇の剣を受け止めながら満面の笑みを向ける。一方夏侯覇も勢い余って振り下ろした剣を慌てて納めると、関索とは対照的に苦笑を浮かべた。
「私としては、司馬師を討ち損ねたことが、心残りでなりません」
二人に歩み寄りながら心境を吐露した姜維に、二人も深く頷く。三人は共に満足いく戦果を挙げられず、心にしこりを残したまま撤退していたのだ。その鬱憤晴らしが揃いも揃って鍛錬や手合せであることは笑いどころですらあるだろうが、この中の誰一人としてそれに気付かず互いに指摘することもなかった。
「それは私も一緒だよ。司馬兄弟が揃って出てきたのに、手負いにすら出来なかったしなあ」
「僕も、あんまり戦果が挙げられなかったんだよね。鍾会も逃がしちゃったし」
「あ、鍾会に会ってたんですか……」
「はい。伯約の事、探してたみたいですよ」
腕を組み小難しい表情をして見せた関索の話の内容で一気に顔色を悪くしたのは、即座に反応を見せた夏侯覇ではなく、黙って聞いていた姜維の方であった。その顔に「気味が悪い」とでも言いたげな表情が張り付けてある事には、狄道での一部始終を見ていた夏侯覇としても同情の念が湧くばかりである。
「え? 鍾会、狄道に行ったんですか?」
「ええ……何故か」
「………………伯約、手合せする?」
その事を聞かされた関索は、何故か一言も発しない義弟を気遣い持っていた木剣を渡そうとしたが、当の姜維は力なく首を振りその提案を拒否した。
「……飲みましょう」
「え」
「飲みます」
「あ、うん」
自棄酒など滅多にしない筈の男の発言に関索と夏侯覇も思わず顔を見合わせたが、有無を言わせない姜維の迫力に圧され、二人は部屋に連行されたのだった。




