一章 五
「急に呼び出してしまい、すまぬ。あまり間を開けるのも良くないと思ってな」
翌日のことであった。早朝、急遽呼び出された夏侯覇は、姜維と共に慌ただしく拝謁していた。相変わらず劉禅はやる気のない雰囲気ではあるが、どうやら夏侯覇のために急ぎで諸々の手配を済ませてくれたらしく、邸や家具の手配を進めていること、そして早ければ十日後には邸が与えられることを告げられる。
「そして、ここからが本題なのだが――仲権殿。そなたに、官位を授けようと思う」
「は……はい!」
何の話が始まるのかと狼狽えつつも律儀に返事を繰り返していた夏侯覇であったが、官位授与と聞いて瞬時に背筋を伸ばし拝礼する。昨日の謁見では冷静さを失わず、ほぼ表情を動かさなかった姜維までもがつられるように姿勢を正していたのだから、今回の呼び出しが如何に異常であるかが分かるだろう。
ちなみに、先に宮中に入っていた費禕は、夏侯覇の視界の端で何かを堪える様に肩を震わせていた。
「そなたは魏では右将軍であったと聞く。故に我が国では、車騎将軍に任命する」
「謹んで受け賜わります」
「うむ、そなたの働きに期待している」
「必ずや御期待にお応え致します」
驚きのあまり言葉を失いかけたが、必死に平静を装い夏侯覇は拝礼する。しかし誤魔化しきれず合わせた両手が震えていた事に、果たしてどれだけの人間がそれに気付けただろうか。降ってきたばかりで何の功績も上げていない将を車騎将軍に任命する、などという前代未聞の厚遇に驚きを隠せずに、宮中には動揺が広がっていたのだから。
劉禅はそれを伝え終わると満足したのか謁見を終わらせてしまった為、動揺を隠せない面々と共に夏侯覇もその場を後にする。そのまま姜維と共に彼の邸に戻ろうとしていたところ、からからと笑いながら二人に声を掛けてくる者がいた。
「とんでもない出世だな、仲権殿」
当然ながら、費禕である。
彼は夏侯覇に近付くと機嫌が良さそうな様子を隠しもせずに音を立てて肩を叩いた為、敢えて大きく吐いたとも思える程の盛大な溜息を吐いた姜維に咎めるように名を呼ばれた。が、勿論その程度でどうこうなるような男ではない。
話したいことがある、と告げると昨日の執務室へと先導するものだから、仕方なく夏侯覇と姜維も顔を見合わせ互いに諦めたように肩を竦めて後について行く他なかった。
「恐れ多いです……魏では、考えられないものでしたので」
「陛下の遠縁とはいえ親族ともなれば、妥当と言わざるを得ないのでは?」
「そういうものなんですか……?」
執務室に向かう道中、すれ違う様々な文官や武官に好奇の視線に晒されながら、視線とは別のところで夏侯覇は恐縮し通しであった。
車騎将軍といえば驃騎将軍、衛将軍に並ぶ高官であり、軍でこれ以上の官位となれば、目の前で花でも飛ばしそうなほど上機嫌な様子で歩く大将軍の費禕のみなのである。その上、蜀に亡命してからずっと世話を焼いてもらっている姜維と立場上は同等になってしまったと考えると、どうにも縮こまってしまうのだ。もっとも、二人に比べ身長も高く体格も良い夏侯覇では、いくら物理的に縮こまろうとも何の意味もないのだが。
「まだ分からないだろうが、この国の人材不足は深刻だ。まさに、猫の手も借りたい――というやつさ。それが陛下の親戚であり弓馬の名手ともなれば、こうなるのは時間の問題だったろう」
「仲権殿の弓馬の腕は、此方でも有名でしたから。期待に足る人物であると陛下が思われるのも、至極当然です」
費禕の言う通り、この国では武官が足りていない状況が十数年は続いていた。原因となるのが、先帝の時代最後の大戦。蜀と呉が相対した、夷陵での戦による大敗である。かの戦において蜀は多くの戦死者を出していたが、その多くは次代を担う筈であった若手だったのだ。その影響はその後も色濃く残り、諸葛亮の時代を経て今もなお人材不足という問題となり尾を引いている状態である。
そんな中、弓馬の名手として名高い夏侯覇が亡命してきたのだ。即戦力として期待できる魏の重鎮がこの腕の中に飛び込んでくるのであれば、軍を担う費禕や姜維が喜んで迎え入れるのもある意味当然のことであった。
「責任重大ですね……」
「ま、上には俺がいて隣には伯約もいる。そう怖がる必要はないさ」
「しかし、反発はないのでしょうか……?」
執務室に入るなり緊張を解いた夏侯覇が恐縮して止まない理由が、まさにそれであった。敵国の将が急に高官、しかも軍の上層に入り込んできたのだ。少なからずどころか、大いに反感を買っていても不思議はない。しかし、同じく高官である筈の費禕や姜維は顔を見合わせたまま首を傾げ、まるで気にするほどのことでもないと言わんばかりに瞬きを繰り返していたのだった。
「まあ、なぁ?」
「ええ……この国では、魏からの投降者や亡命者が出世するのは、然程珍しい事でもないですし」
重用されている本人がそう言うのだから、間違いはないのだろう――姜維の返答にそう納得しかけたが、そもそも聞いた話では、姜維は功績を上げて順序良く昇進していたのではないか。そう突っ込みたくなる気持ちもあったものの、気を遣わせているのかと思うとつい堪えてしまう夏侯覇であった。
「引き抜かれた伯約は勿論、王将軍も諸葛丞相時代から重用されているしな」
「王とは……」
「王子均殿――徐晃と仲違いして、帰順した勇将だ」
曹操、劉備の頃から魏と蜀は幾度も対立し、捕虜や降伏、裏切り等により将兵の移動もそれなりに多い。例えば、蜀からは黄権、孟達といった将が魏に降っており、魏からは夏侯覇、そして姜維が降っている。そんな魏から蜀へ帰順した将の一人が、王平である。夏侯覇自身も王平が帰順した際の戦には参加していたが、王平や徐晃との直接の親交がなかったことから、そもそも魏の将であったという事をすっかり忘れてしまっていたのだった。
「ああ……確かに彼も、漢中での戦の際、此方に来ていましたね」
蜀に帰順してからの王平しか知らない夏侯覇にとって、かの人物については敵として立ちはだかった際の記憶があるのみだ。しかも己が討ち取られかねない程の窮地に陥った戦の総大将だった為、正直なところ良い思い出はないのである。
「そういうことだから、気にする事はないさ。いつもの事だからな」
「ええ。何かあれば、文偉殿に言えば大丈夫ですよ」
「好きな消し方を選ばせてやろう」
「あ、ありがとうございます」
苦い顔を見せる夏侯覇の様子にある程度の事情を察したらしい二人は、励ますようにそれぞれが茶や茶請けを差し出しながら優しく声を掛ける。それを有り難く思いながら、蜀に辿り着いてから助けられてばかりの現状に、己の情けなさを実感する夏侯覇であった。