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胡蝶の夢、華の未知  作者: 天海
十章
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十章 四

「なーんで、ここに居るのが伯約だけだと思うのかな」


 飛刀を投げかけられた先、森の中の一本の木の上から不敵に笑いかけながらも、夏侯覇は内心酷く動揺していた。己の記憶では、司馬師はこの戦で呉方面の指揮を執っており、対蜀に備えていたのは弟の司馬昭(しばしょう)だった筈なのだ。

 しかし、今回姜維と相対していた男は、間違いなく曹爽を廃し、夏侯覇の甥・夏侯玄をも害し、そして魏を乗っ取った司馬師張本人であった。なら、本来対蜀側の総大将であった司馬昭はどこに居るのか。そして、対呉方面の指揮は誰が執っているのか――疑問は湧き出るばかりだが、それを顔に出す事はなかった。


「貴様……夏侯覇か!」

「やあ。どうも久しぶり、司馬師。元気そうでなにより」


 夏侯覇の引き連れていた奇襲部隊が魏の軍団を真横から連弩で攻撃したことにより、拮抗していた両軍の戦況は大きく変わる。そんな中、夏侯覇が木から飛び降り姜維に加勢すると、己を狙った人物の正体が知己であった事を知った司馬師は片目を大きく見開き盛大な笑い声を上げた。


「……やはりあの時、早急に排しておくべきだったな」

「そっちの初動が遅くて助かったよ。お陰で、伯約に拾ってもらえたからね」


 連弩を腰に掛け剣を構えながら牽制する夏侯覇に挑発し始めた司馬師の行動に懐かしさすら感じながらも、夏侯覇も一切動揺することなく鼻で笑って返す。

 亡命の原因となった司馬氏の謀反――それは、目の前の男によって計画され起こされたものだったのだ。その上、何の落ち度もない己の甥まで処刑された夏侯覇としては、司馬師に対し良い感情など微塵も湧かないどころか、深い憎しみすら感じている。


「父の仇の国に亡命するとは、子としての孝もなければ矜持もないのか?」

「生憎、君らの国家簒奪の為に殉死するような、敬虔な矜持は持ち合わせていなくてね」

「ふん……よく動く口だ」


 もうこれ以上話すことはないとばかりに二人が剣を構え、今まさに斬り合おうとしたその時、蜀軍の後方で歓声が上がり、一方魏軍の後方からは少年の高い声が響く。


「兄様!」


 直後に現れた伝令により、蜀軍の歓声の正体は馬岱の部隊が到着したことによるものであることが判明した。姜維の講じた策が、何とか間に合ったのである。

 一方、魏軍側の声について意識を向けた夏侯覇が目にしたものは、駆けてくる二頭の馬の姿であった。その馬上の人物を目にした夏侯覇は、頭を抱えそうになる衝動をぐっと堪え隣で身構えていた姜維に視線を向ける。姜維も戦場に響いたたった一言で駆けて来た人物の正体に気付いたらしく、僅かに眉をひそめ夏侯覇と目を合わせた。

 駆け寄ってきた人物は、十代後半の少年。司馬懿の次男で司馬師の弟の、司馬昭だったのだ。


「昭……!」

殿(しんがり)は俺が引き受けます、ここはお引きください」

「……世話を掛ける、士季(しき)


 蜀に援軍があったことで状況不利と見たのか、それとも呉軍が上手くやったのか。その辺りの事情は夏侯覇には分からなかったが、それよりも気にしなければいけない人間が目の前に立っていた。


鍾会(しょうかい)!」


 司馬兄弟が後退する間、その場で夏侯覇達を牽制していた人物は鍾会。魏の忠臣・鍾繇(しょうよう)の末子であり、優秀な父や兄以上の俊才として出世街道を走っている、云わば天才である。しかし、夏侯覇が問題視していたのはそんなことではなく、この青年が数ヶ月前に姜維に文を送ってきた問題児であるという事実であった。

 鍾会という名に苦い記憶を思い出したのか、姜維も僅かに顔を引きつらせながら鍾会を眺めている。


「夏侯覇か……ここで殺してやりたいところだが、今回は見逃してやる」


 そんな姜維の様子には気付いていないのか、涼しい表情のまま二人を眺めていた鍾会は、風に金の髪を靡かせながら夏侯覇を一瞥した後、その数倍もの長い時間をかけて姜維を凝視すると兵を引き連れその場を後にしたのだった。

 その熱烈な視線に姜維どころか夏侯覇すらも困惑したが、言葉に出来なかったのは果たして良かったのか悪かったのか。とはいえ、戦況が変化した今、そんなことを言及するような暇はないのである。


「……追うかい?」

「いえ。兵を伏しているでしょう、深追いは危険だと思います」

「だよねえ……じゃあ、こっちも防備を固めてから撤退だ」


 狄道の拠点へ軍を引かせながら不満げな表情を僅かに見せる同僚の背中を眺め、夏侯覇は思わず肩を竦めていたのだった。

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