十章 三
長い前髪で片目を隠した男がひとり、切れ長の目を細め眼前に現れた軍勢を眺めていた。彼の背後には数千の魏兵が隊列を成し、男の命を待ち構えている。
兵らに進軍を指示し己も剣を携え歩みを進めると、同じ様に部隊の先頭に立ち男の陣営目がけて進軍して来る一人の将の姿が視界に入った。それが、敵国・蜀の将であることは、男も分かっている。
「……ふん、士載の勘も馬鹿には出来ないな」
立ち塞がる男の姿を視界に入れ、姜維もまた槍を構え臨戦態勢を取った。魏軍を率い堂々と先頭に立つその男の正体に、夏侯覇に聞かされていた風貌から感付いたからである。
「片目を隠したその風貌……司馬師ですね」
「女と見紛う程の顔と、銀の髪……なるほど、ならば貴様は姜維か。伯済の言葉通りの男のようだな」
姜維と司馬師は、この日初めて直接相対した。だからといって特別何らかの感情を抱くことは無かったが、姜維は司馬師が口にした“伯済”という人物についてのみ、僅かに反応を示す。
郭淮、字を伯済。現在、車騎将軍にまで上り詰めている魏の高官であり、夏侯覇が蜀に亡命した要因のひとつであり、そして姜維が魏に居た頃、彼を高く評価した人物でもあったのだ。とはいっても、顔を合わせた事は数える程もなく、当時から既に高官であった郭淮が己の事を覚えていたとは夢にも思わなかった姜維は、ほんの僅かに眉を動かし驚きを示したのである。
「あの方が、私の事を覚えていたとは」
「期待していたらしいからな。諸葛亮などに引き抜かれるとは勿体ない、などとよくぼやいていたぞ」
「……そうですか」
いくら己を評価した人物であろうとも、既に過去の話であり今は敵同士。郭淮の感傷を語る司馬師に向けて何を言っても意味はない為、姜維もそれ以上の言葉を口にすることはなかった。
代わりに、構えていた槍を掴む手に力を籠める。
「貴様がここに居るという事は、長安を攻めている部隊は陽動だな。此方が本隊だろう」
「さて、どうでしょう。そちらこそ、総大将の貴方がこんな所で油を売っていて大丈夫なのですか?」
白を切る姜維であったが、魏の兵力が想像より多い事を知った時点で陽動が見抜かれている事は予想していた。見抜かれた際の対処についても既に手を打っている為、未だ焦りはない。
「はっ、優秀な部下が陽動を見抜いたものでな。とはいえ、まさか貴様の方から、此方に来てくれるとは……おかげで、手間が省けた」
「……総大将自らがお相手とは、恐れ多い話です……しかし、そう簡単にいくでしょうか」
「ふん、大した気迫だ。そうでなくてはな」
剣を掲げた司馬師の号令により、控えていた魏兵達が一挙に駆け出す。それに遅れることなく声を上げた姜維に、待っていたとばかりに蜀兵達も武器を構え、遂に狄道にて蜀魏は衝突したのだった。
そして、本来その場を引き身を守るべき大将である姜維と司馬師の二人も、その場を引くことなく打ち合いを始めていた。功を焦ったわけではなかったが、目の前に今もっとも倒さなければいけない人間が居るのだ。既に対策を講じていた姜維としては、引く理由がなかったのである。
「そう上手くいくと思うなよ、姜維!」
武芸は確実に姜維に軍配が上がるが、易々と勝利を収められるほどの圧倒的な差ではない。片目が使えないという不利な状態でありながら司馬師も引けを取らず、素早く姜維の槍先から逃れ利き手を狙い剣を突く。勿論、姜維もそう簡単に斬られるつもりはなく、槍を翻し石突で剣を受け止めた。
「……そちらこそ、慢心はいけませんね」
「っ!? 上か!」
その時、司馬師めがけて矢が放たれる。その場を飛び退き、間一髪で矢から逃れた司馬師は、矢の出所が傍の木の上であることを見抜くと、懐から取り出した飛刀を数本投げつけた。
が、それらは全て矢に撃ち落されてしまったのだった。




