十章 一
北伐が始まり数週間後、夏侯覇は姜維と共に部隊を率い臨洮を抜け狄道の付近まで寄っていた。今回の北伐は、羌族と共に西の地を制すことを目的としていたのだ。
「報告! 馬将軍の部隊は天水に到着致しました!」
「分かりました。当初の予定通り、南安へ向かうよう伝えてください」
「はっ!」
伝令の報告に平然と受け応えると、姜維は人知れず溜息を漏らす。
数年に及ぶ兵力・兵糧の増強により人員、兵糧共に十分であることから、蜀軍は西の本隊と東の陽動部隊に分かれている。本隊である西の部隊を率いていたのは姜維であり、陽動として長安を攻める部隊は張翼が率いていた。陽動部隊も問題なく進軍しているという報告を受けており、この本隊も脱落した部隊もなく落ち着いて進軍を行っているため、少なくとも姜維が不安を感じるような状況ではない。
「――長安には、張将軍と子均殿。洪亮殿、芳孝殿の部隊も問題なく続いているね。そして、天水に向かう部隊は、子昂、廖将軍、維之殿、伯苗殿。伯瞻殿はそこから南安に……と、今のところは順調に進んでるかな」
「ええ」
流石に兵達の前で表情を曇らせることはなかったが、姜維の様子に気付いていた夏侯覇は報告を纏めながらその顔色を窺っていた。しかし、彼が不安げな表情を見せる理由には全く思い至らず首を捻るばかりである。
夏侯覇の前の生では、費禕の死後間もなく行われた北伐は急遽行われたものだったため、結局兵糧が尽き途中で撤退する有様であったが、今回は兵力も兵糧も十分であり兵站も確保されている。そういった事情があったことから、夏侯覇は今回の北伐は問題なく成功するのではないか、とすら考えていた。
「浮かない顔だね?」
「……分かりますか」
「まあ、一応。今のところ問題はなさそうだけど、どの辺りが不安?」
とはいえ、姜維と夏侯覇では頭の出来が少々違う。武芸なら引けを取らない自信がある夏侯覇でも、戦術家である姜維の頭脳には敵わず、どう考えても順調な今なにを恐れているのかも予想がつかないのである。
「不安と言いますか……嫌な予感が、しまして」
しかし、姜維の心配事は明確な事象についての事ではなく、ただ何となく感じる不安の様なものだというのだ。それを聞いた夏侯覇は、思わず脱力してしまったのだった。
「費将軍の時も、そんな事を言っていたね。今回も虫の知らせ?」
「……分かりません」
「うーん……でも、無視するのもなんだかな……一応、こっちも警戒しておこうか」
「はい。それがいいかもしれません」
とはいえ、姜維の言う“嫌な予感”は費禕の暗殺未遂事件という結果で、実際に形になっている。その虫の知らせを信じ駆け付けた姜維によって費禕は救われていたのだから、その不安を杞憂として切り捨てるのは時期尚早と感じた夏侯覇は、兵に命じ周囲の警戒を強めた。
「あと、大将がそんな顔をしてると兵の士気に関わるから、あまり不安がらないようにね」
「……ええ、気を付けます」
姜維自身も、得体の知れない不安に気を揉んでいるのだろう。顔色悪く頷いたその様子を気の毒に思いながら、ここは自分がしっかりしなければ、と夏侯覇は一人意気込むのだった。




