九章 四
蒋琬が病没した、という知らせが入ったのは、費禕が北伐の再開を決定して数日後の事であった。
漢中に滞在していた主だった文武官は皆葬儀に参列し、残っていたのは直接関わりのなかった夏侯覇のような新参や、後日葬儀に向かう予定だった人間のみである。
「…………伯約、大丈夫すかね」
「どうだろうな。あの方は特別だったから」
「それじゃ、難しいか……」
尹賞と梁緒は後日葬儀に向かう面々であったため、普段の騒がしさが嘘のように静寂に包まれている将軍府内にて仕事を片付けていた。といっても、普段から仕事の早い費禕のおかげで大した仕事も残っておらず、今は揃って茶を啜っていたのだが。
そんな二人の心配事は、恩人を亡くした姜維の事であった。事情を知らない人間がよく師として話題に出す諸葛亮については、その測りづらい性格故か第一印象の悪さ故か尊敬はしているものの姜維本人がやや苦手としており、軍事以外の面で直接師事したこともない。
だが、蒋琬は別である。姜維は大司馬となった蒋琬の信頼も厚く軍権を任され、出世の後押しも受け、後継の費禕と並び蒋琬の右腕として働いていた。恩人としてはこれ以上ない程の人物であるため、姜維の蒋琬に対する思い入れも当然並のものではない。だからこそ、北伐の再開を決定した直後に届いたこの訃報は、梁緒らの心配の種となっていたのだった。
「――あ、洪亮殿と芳孝殿はいらっしゃったんですね」
「夏侯将軍」
そこに、兵達も葬儀に向かってしまったため暇を持て余していた夏侯覇が通りかかった。既に鍛錬もひと段落してしまい暇つぶしに将軍府を散歩していた夏侯覇は、やっとのことで部下以外の気兼ねなく話せる相手を見つけ目を輝かせたのである。
「将軍も居残りっすか?」
「はい、私は大司馬とは面識もありませんから」
「あ、そっか。戦でも顔なんて見れないっすもんね」
「ええ。一介の将では、なかなか敵の総大将には相まみえませんね」
苦笑を見せた夏侯覇は部屋に二人以外の人間が居ないことを確認すると、中に入りたいと言わんばかりに熱い視線を向けたため、尹賞は思わず笑いながら椅子を引く。
「せっかくいらしたのです、茶でもいかがですか?」
「ありがとうございます。是非ご一緒させてください」
梁緒も同じことを考えたのか図ったかのように棚から茶菓子を出し始めたため、恰好の暇つぶしを提案された夏侯覇は大喜びで二人の厚意に甘えたのだった。
そんな暇を持て余した男達の話題は、もっぱら今が旬の北伐に関するものばかりである。諸葛亮時代の北伐の話題から始まり、二ヶ月後に再開予定の今回の北伐についても話題が尽きない。特に今回が蜀将として初めての参戦となる夏侯覇としては、あちこちに興味が向いて仕方がないのだ。
「しかし……北伐再開の決定は、思いの外早かったですね」
「ああ、どうやら呉の諸葛元遜からの働きかけもあったようですよ」
「諸葛元遜? なんでまた……」
諸葛元遜とは、諸葛亮の兄・諸葛瑾の息子の諸葛恪のことである。諸葛恪は対魏戦で功績を上げている呉の大将軍で、父や叔父と同じく優秀ではある。が、反面人格面の評価には難がある人物だった。よくある、自身の才能を過信しひけらかす人間なのである。
「手柄を取りたいんじゃないすかね。最近、決定的な勝ちも取れてねーっすし」
「はあ……どうせだから呼応して仕掛けようという事ですか」
蜀ほど頻繁ではなかったが、呉も度々北征を行っており特に合肥での小競り合いは年々激しさを増していた。しかし基本的には膠着状態が続き、どちらかが優勢に立ち続けた事は一度もない。例えば、呉が勝てば次の戦では魏が勝ち、次はまた呉が勝つ――といったように、交互に勝利と敗北を繰り返しているのだ。そんな戦が続けば、決着を付けたくなる気持ちは夏侯覇としても分からなくはないのであった。
しかし、それはあくまで諸葛恪が軍権を一人で握っている場合にのみ適用される可能性である。
「……しかし、よく大都督が許しましたね」
「妙な話ですよね……仲が良いという話も聞きませんし、あの方なら止めそうなものですが」
そう。この世界において呉の大都督・陸遜は未だ存命しており、実務も行っている。自身を過信し、増長しがちな諸葛恪を度々咎めていた陸遜がいる限り、彼が好き勝手に軍を動かすなど本来出来る筈がないのだ。それは夏侯覇のみならず、尹賞や梁緒も同じ疑問を抱いていた。
そんな中、茶を啜っていた梁緒が何かを思い出したかのように、あ、と声を上げたため、二人は思わず梁緒に視線を向ける。
「そういえば……陸大都督、隠居しようとしてるって聞いたんすけど、本当っすかね?」
「隠居? また唐突な……病気でもされているんでしょうか?」
「あ、いや。俺にはそこまでは」
陸遜が隠居、などという聞いた事もない言葉の組み合わせに、夏侯覇は疑問符を浮かべる。何故なら、以前の夏侯覇の生において、陸遜は隠居どころか引退する間もなく憤死していたのだ。今回は件の事件が発生していないとはいえ、そこまで大きく動向が変わってしまうものだろうか。
思わずそんな考えが夏侯覇の頭をよぎったものの、つい最近未来が大きく変わってしまった宰相が己の陣営に居た事を思い出すと、頭ごなしに可能性を否定することも出来ず、大人しく茶を啜り信憑性の定かではない噂話に耳を傾けるほかなかった。




